壱. ひどく腹が減っていたことを覚えている。 体が燃えるように熱く、耳の中を溶岩が流れていくようなごうごうという音でいっぱいだった。 目を開けば辺りは暗闇で、蛍のような灯りがちらちらと左右に揺れている。 それが人間の持った松明だと気付いたのはすぐのことだった。 人間、とっさに頭の中を過ぎったその名に首を傾げる。はて人間とは、何だったろうか。自分はなぜこの小さなものたちの名を知っているのか。 何かが風を切る音が聞こえる。微かな痒みを覚え胸を掻けば、火矢がぽろぽろと落ちていった。 あぁ、腹が減った。兎に角腹が減った。何か食わなければとこの体は言っている。飛んできた火矢を口に放り込んだが、これでは何の足しにもならん。 少しでも大きなものをと人間に手を伸ばせば、人間は楊枝のような刃で自分を掴む手を斬りつけながら喚き出した。 ぎゅうき、牛鬼。助けてくれ。食わないでくれ。自分が何者かを知ったのはこの時だ。 なるほど、俺は牛鬼で、俺はこれを食えるのか。空腹に従い逃げ惑う食料を次々と口に運び、気がつけば、辺りには何もなくなっていた。 牛の頭に鬼の体。それが海面に写し見た己の姿だった。 自分が何のために生まれ、何故この世に存在しているのか、様々なことはわからない。 しかしそれは些細なことだった。ただ此処にあればいい。それだけは理解していたため、本能の赴くままただ過ごし、人を食って生きた。 そうして数百年が経ったある日、風変わりな客がやってきた。 其奴は自分を東風 龍真(こち たつま)と名乗った。ちっぽけな人間の男だ。 自分は今日、見渡す限りのこの辺りの土地を買った。今日からこの土地は自分のものだ。今後もこの場所に住み続けたければ、いくつかの条件を呑めと男は言う。 この数百年、手当たり次第にこの辺りの村を襲い、人間を喰った。 いつの間にやら人の村はすっかりなくなり、今ではたまに通りがかる旅人や、山向こうの集落まで出向いて腹を満たすようにしている。 それでも住処を変えなかったのは、それなりに気に入っていたからだ。 海を目前にした、崖の上の森の中に住処はある。海から上がってくる荒くれ者の妖怪たちと退屈を紛らわすことも出来れば、山から降りてくる霊気もまた心地良い。 大体儂が人間共から勝ち取った住処だ。出て行けと言われる筋合いはない。そう人間に伝えると、男はそうはいかないと指を振った。 鬼が相手では命はないと蒼白する今までの人間とは一味違う。どれ食ってやろうかと脅すと、それのおかげだと男は手を打った。 お前がこの辺りを食い散らしてくれたおかげで、ずっと欲しかったこの土地がありえない値で買えたのだ。こちらとしてはお前は恩人のようなもので、出来るなら手荒な真似はしたくはない、と。 鬼を恩人に仕立て上げるとは、何とも酔狂な男だ。笑ってやると、男も顔につけた丸い硝子の向こうでにやりと目を細めた。 だがな、と男は続ける。 「だがな牛鬼よ、お前はいくらなんでもやり過ぎた。私たち人間の中にも、お前たち妖怪に太刀打ちできる力を持つ者がいることを知っているか。地主の私にも悪鬼を隠し守るには限界がある。今にそやつらがお前を殺しに来るかもしれんぞ」 妖怪を殺す力を持つ者。人間はそれを祓い人と呼ぶらしい。貧弱な人間の分際で何が出来ると嘲笑ったが、それでも男は笑みを崩さなかった。 男は、懐から細長いものを取り出した。巻かれた布を外し、現れた短刀を差し出して見せる。 「これに見覚えはないか」 黒塗りの鞘に金の装飾を施した、ごく平凡な短刀だ。見覚えはない。しかし何故か、ぶるりと身震いが起きた。 その反応を目敏く捉え、男は口角を歪める。 (1/43) 栞を挟む |