短編 | ナノ


西の空の赤色は紫になった。昼間の暑さは未だ収まらず、何もしなくとも汗ばむ程。ゆらゆら、人々のざわめきに提灯が揺れる。今日は日が沈んでからが本番だ。暮れゆく空に反して、地上はまだまだ明るい。


桂が幾松のラーメン屋を訪れたのは、日も暮れかかった頃だった。
今日、江戸の街は騒がしい。なぜなら今日が年に一度の夏祭りだからだ。
皆が祭りに出掛けたお陰で客が入らず、幾松の店はひどく静かだった。店の前を通り、祭りに向かう人々の声を聞くとはなしに聞きながら食器を磨いていた所へ、その喧騒を避けるようにしてやって来たのが桂だった。

「いらっしゃい…ってアンタか」
「アンタじゃない。桂だ」
「はいはい。で、何しにきたの。今日は祭りでしょ?」
「指名手配犯が祭りになど行ける訳がなかろう」
言われてからそれもそうかと思ったが、ひとつ疑問が残る。
「じゃあどうしてこんな日に出歩いてるのさ。祭りで警備も厳しくなってるんじゃないの?」
「うむ。少しばかり所用があってな。それはそうと幾松殿、蕎麦を頼む」
「はいよ」

蕎麦を待つ間、桂は窓の外をぼんやりと眺めていた。浴衣を着た少女達、初々しい男女、はやくはやくと急かす子供とそれを追う親。皆どこか高揚しているように見受けられる。

「幾松殿は祭りには行かないのか?」
唐突な桂の問い。
「馬鹿だね、私には店があるじゃないのさ」
幾松はふんと鼻で笑い、桂の前に出来上がった蕎麦を置いた。
「はい、おまちどおさま」
だが桂は蕎麦に手を付けようともせず、じっと見つめたままだ。
「どうし、」
「幾松殿。店など休みにすればいいのではないか?」
「え?」
「今日の祭りは花火も打ち上げるそうだ。よく見える場所を知っている。此処からそれ程遠くない」
桂は一気にそれだけを言い切った。心臓の音が煩い。手に汗をかいている。行き場を見失った目線が下がっていく。
(嗚呼、本当に俺は男だと、侍だというのに情けない)

「…いいかもしれないね」
「本当か!?」
ガバッと音がしそうな勢いで桂が顔を上げた。
「うん」
そうか、と表情を崩した桂の顔はどこか少年の面影があった。普段は生真面目な顔ばかりしている桂の初めて見る表情に、幾松は微笑んだ。
(案外可愛いとこあるじゃないのさ)

「じゃあちょっと着替えてくるよ」
「あぁ」

ほっと息をついた桂は漸く蕎麦を啜り始めた。




スローペース
(そういや指名手配犯は祭りなんか行けないんじゃなかったっけ?)
(例外もある)






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「恋風」様に提出。