短編 | ナノ


それは、まるで眠っているかのようだった。さらりと枕に零れる髪。緩やかな弧を描く唇。触れた手の冷ややかさだけが彼女の死を告げていた。
つ、と涙が頬を伝う。もう、涸れる程泣いたはずなのに。再び溢れ出した涙が、ぽたぽたと無機質な白の上に落ちていく。その様子をまるで他人事のように眺めながら、回らない頭で彼女がまだ武州の田舎で笑っていた頃を回顧する。
全てが今さらだった。今さら涙を流しても、今さら声限りに叫んでも、彼女に届くことなんてない。

だけどいつか。いつか、こんな時が来る事なんて、何年も前のあの夜から…


屹度…





屹度、っていただった







月が綺麗な夜だった。中天にかかった満月が、これでもかとばかりに白光を放ち、明かりも何もない場所だったにもかかわらず、お互いの顔ははっきりと見てとれた。色の白い彼女の頬が、ほんのりと赤く染まっていた。

「私…みんなの…十四郎さんの側にいたい」

遠回しであったが、確実に告白ととれる言葉。身体ではなく、心が震えた。このまま彼女の華奢な身体を抱きしめ、俺もだ、と言えたら。彼女と江戸へ行き、所帯を持てたら。他の誰でもない、この俺が彼女を幸せに出来たら。しかし、今の己の立場がそれを許さなかった。無理なのだ。いつ死ぬか分からぬこの俺では。いつ彼女を危険に晒すか分からぬこの俺では。

「しったこっちゃねーんだよ、お前のことなんざ」

自分の放った嘘の言葉が、妙に耳に突き刺さる。賢い彼女なら気付いているかもしれない。これが俺の本心ではないことに。彼女を守るためについた、虚しい嘘だと言うことに。嫌いだ、とはっきり言ってしまえない自分の弱さが恨めしい。例え何が起こっても、彼女を守り抜けるだけの力がない自分が恨めしい。
振り返ることは出来なかった。きっと今振り返ってしまえば、嘘をつきとおすことは出来ない。自分はまだ、彼女の顔を見、正面切って嘘をつける程強くない。嘘などつかなくても、彼女を守れる程強くない。

屹度、いつか自分は、今日この時を思い出し、後悔する時がくるだろう。
けれど、例え彼女を江戸に連れて行ったとしても、そのことを後悔する時がくるだろう。


輝く月だけが、彼の瞳から零れた“まこと”を知っていた。





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「かなし、かなしと君が泣く。」様に提出。土方は本気でミツバが大切だったという話。