「趙雲殿…!殿が…っ」 城に戻って一番に言われた言葉に、趙雲は体の節々が訴える痛みを無視して全力で廊下を駆け抜けた。 すぐにたどり着いた目的の部屋の前には、締め切られた扉の前でおろおろと狼狽した様子の侍従たちの姿がある。 心配そうに顔を見合わせながらも部屋の中に入ろうとしないのは、なにも部屋の主がこの国の頂点に立つ者だから、というだけではない。 普段の劉備ならば自分を心配して部屋を訪ねてくる者を無下にするようなことは絶対にしないのだから。 それなのに部屋に入ろうとしないのには、別の理由がある。 例えば、扉を閉め切っていても分かる、部屋の中からひっきりなしに聞こえてくる何かを破壊しているような音。 趙雲は深く息を吸ってから侍従達の間を割って前に出ると、くるりと後ろを振り返った。 「ここは私が。お前達は下がっていてくれ」 「し、しかし…」 「大丈夫だ。だから、頼む」 有無を言わさぬ強い口調に、侍従達は気遣わしげな表情を浮かべながらも大人しくぱらぱらと散って行った。 (これでいい) 趙雲は、思う。 なぜなら、劉備がここまで荒れてしまったのは自分のせいなのだと自覚していたから。 返事はないと知りながらも律儀に扉を叩いた趙雲は、僅かの間待ってから覚悟を決めて部屋の中へと足を踏み入れた。 「………」 一言で言えば、めちゃくちゃだった。 部屋の中の調度品のほとんどは原型を留めていない。 念のためにと兵に剣を預かるように言付けたのが功を奏したらしく、大きな家具に目立った損傷はないが、それでもひどい有様だった。 そんな部屋の真ん中に、劉備は趙雲に背を向けるように立っていた。 趙雲が部屋に入って来たことにも気付いていないようで振り返りもしない。 激しい感情にとらわれているせいかぶるぶると震える体は、ここ最近の心労のせいかひどく華奢に見える。 それでも劉備は、手にしていた椅子を大きく振りかぶった。 「殿」 「っ…!」 まだ壊れていなかった窓に向かって投げようとしていたそれを、趙雲は後ろから両手でがしりと掴む。 驚いて振り返った劉備の目は見たことのないような暗い色をしていて、趙雲の眉は自然としかめられた。 「……趙雲」 常ならばその声で名前を呼んでもらえるだけでいくらでも幸せを感じられるはずなのに、ぽつりと落とされたそれは趙雲の胸をきつく締め付けるだけで。 こみ上げる悲しみや苛立ちの入り混じった感情に顔をゆがめる趙雲に、劉備はうつろな瞳で口を開いた。 「放せ」 「それは…できません」 「…私が、言っているのだぞ」 「殿の命でも、申し訳ありませんができません」 そう言って、趙雲は椅子を掴む腕に力を込めて劉備の手から奪い取った。 激しく抵抗をされるかもしれないと覚悟していたが、椅子はあっさりと劉備の手からはなれる。 反動でよろりと揺れる体を気遣いながら手の届かない場所に椅子を放って、趙雲は劉備の正面に回りこんで出会った時と比べると随分と薄くなった肩にそっと手を伸ばした。 椅子を奪われて悄然としてうつむいた劉備は、ぽつりと一言だけ言葉を落とす。 「…何故だ」 何に対しての疑問なのか、趙雲には分からなかった。 椅子を取り上げたことに対してなのか、戦場から無理やり連れ出したことに対してなのか、あるいは『彼ら』の命が奪われたことに対してなのか、趙雲には分からなかった。 「…私はただこれ以上、殿に傷ついてほしくないだけです」 「傷つく…?」 劉備の肩がびくりと大きく上下する。 小さく震えながら顔を上げた劉備は、虚ろな瞳で趙雲の顔をひたと見据えた。 趙雲は決して視線を外そうとはしない。 その様子に趙雲が本気で今の言葉を言ったのだと悟った劉備は、かっと頬に朱を上らせて趙雲の腕を振り払い、彼の胸板めがけて己の拳を振り下ろした。 「傷を負ったのは私ではない!その身に刃をあてられたのも、血を流したのも、痛みに喘いだのも、全て…!全てあの二人なのだ…っっ」 「殿も十分に、傷ついておられます」 肩をいからせる劉備の手を、趙雲は壊れ物を扱うかのように優しく包み込んだ。 復讐にかられ剣を強く握り締めていた手のひらには爪の跡が傷として残り、まだ赤い血を滲ませている。 そのうえ怒りにまかせて部屋で暴れたために、手の甲だけではなく指でさえもひどく傷ついていた。 「…傷みに、優劣などありません」 静かな趙雲の声は、劉備の心によく沁みた。 気づいた瞬間には、ぼろぼろと大粒の涙が次から次へと流れていく。 自分に泣く資格なんてない、と思っても止まらない、止められない。 「…っ…ふっ…」 「殿…」 声を出して泣き喚けばもっと楽になるだろうに、劉備はきつく唇を噛みしめていた。 趙雲はその体をそっと自分の胸の中に抱き込んでやる。 (体温を感じられる程、お側にいられるというのに) 溢れる雫を拭うことはできたって、劉備の涙を止めることは趙雲に出来やしない。 いや、趙雲じゃなくたって出来はしないだろう。 劉備がその腕で求めている人は、もうこの世のどこにもいないのだから。 (嗚呼、どうか) その悲しみをひとかけらだけでも軽くできるのならば自分なんてどうなったっていいのに。 そんな想いをこめて、趙雲は劉備の身体を抱きしめた。 一番近くにいるのに、一番遠い人 |