凝り固まった体をほぐすように大きく伸びをした劉備は、賑やかな雑踏に紛れながら嬉しそうに頬をゆるめた。
雑務に追われていたせいで町に来るのは久しぶりになっていたし、何をするにも何処へ行くのにも付いて来る護衛―趙雲の姿が隣にないということが劉備の気をいつもよりもずっと楽なものにしていた。

一国の主なのだから護衛をつけなければならないというのは理解できるけれど、劉備だってある程度は自分の身を守ることができる。
そもそも村で育った劉備は、民と触れ合うことが好きだった。
それなのに護衛を付けていかにも権力者ですという風に町を歩いてしまっては、どうしても民の態度は固くなってしまう。それはいただけない。

だから劉備は常に護衛を買って出る趙雲に見つからないようにこっそりと執務室を抜け出して、門番を強引に説き伏せて一人で町へやって来た。
涙目になりながら劉備を通してくれた門番のことを思うと胸が痛むけれど、普段よりも随分と快適な散策ができている今の状況に、劉備の心はいつもより浮き足立っていた。

「ふふん」

満足げに頬をゆるめた劉備は、風にのってやってきた食欲を刺激する匂いに足を止めた。
匂いの元に視線をやると、盛大に湯気をあげた饅頭が店先に並べられている真っ最中。
小腹がすいてきた頃合いを見計らって登場したような白い饅頭たちに、劉備の目は自然と輝やいた。

「あれは美味そうだな、趙う…っ」

わくわくと嬉しそうな顔で後ろを振り返った劉備は、思わず飛び出していた名前の最後の音を無理やり飲み込んだ。
煩わしいとさえ思って趙雲を置いてきたのも、つい今さっきまで一人は快適だと喜んでいたのも自分なのに。
無意識のうちに趙雲を呼んでしまった自分に劉備は驚きながら目を瞬く。
何故だろうかと首を傾げても答えは出てきそうにはなくて、劉備は釈然としない気分を変えようと饅頭屋へと足を進めた。

「らっしゃい!いま蒸しあがったとこだぜ」
「む。美味そうだな」
「やっぱ饅頭はできたてが一番旨いっ!ってわけでどうだ?」

威勢良く勧めてくる店主の馴れ馴れしさに、劉備は笑みを浮かべた。
普段味わえない扱いに落ちかけた気分が浮上してくる。
これが味わいたくて抜け出してまでここにやって来たのだ。

「そうだな。一つ…いや、二つもらおうか」
「まいどあり!」

笑顔で包み紙に手を伸ばす店主に、少し奮発した劉備も財布を取り出そうと懐へ手を入れる。
そこで劉備は、はたと気がついた。
懐の中になんの重みもないことに。

「……………」

それはつまり、財布を持っていないということで。
悲惨な事実に気づくのと同時にその理由にまで思い当たった劉備の気分は一気に沈んでいった。
暗い気持ちと気恥ずかしさがないまぜになった重い気分で劉備は口を開いた。

「…すまない主人…」
「ん?」
「財布を…忘れてきたようだ…」

気落ちした劉備の様子に、主人は深い追求はしないで毎日この時間ぐらいに焼き上がるからなと慰めのような言葉をかけてくれた。
その優しさに感謝しながら劉備は肩を落としながら店を後にする。
こみ上げてくるのはただ溜め息ばかり。

いつも後ろに付き従う趙雲が財布を用意していてくれたからなんて馬鹿げた理由で、財布を持ってでるのをすっかり失念していた。
財布を持って出かけるという当たり前の事すらまともにできなくなっている自分に対する驚きと失望に、立っている地面がぐらぐらと揺れているようだ。
自分はいつのまにこんなにも周りの人間に―特に常に傍らにいる趙雲に、依存して生きるようになっていたのだろうか。
人を使うことに馴れただなんて思いたくはない。
揺れる心で見上げた青空は先ほどよりも色が影って見える。
もう一度暗い息を吐き出そうとしたところで、劉備はぴくりと肩を揺らした。
一瞬だけ視界の端に映った見慣れた人影に体が勝手に反応する。
城を出てすぐの気分ならば背を向けて逃げ出していたかもしれない。
けれど、劉備の体は動かなかった。

「殿!」
「っ、趙雲…」

こちらに気づいたらしい趙雲の名前をつまりながらも呼べば、青年はほっとした表情で人混みをかき分けてくる。
心のどこかで劉備もまた安堵しているのだろうか。
趙雲の姿に安心感を抱いた劉備は、けれどすぐに黙って抜け出してきたことを思い出してぐっと眉を寄せる。
いくら穏やかな趙雲でも、小言のひとつは覚悟するべきだろう。
劉備は目の前に立った青年に気まずそうに視線を泳がせた。

「趙雲、その、」
「無事なようで安心しました、殿」
「え、あぁ、」
「本当に、よかった…」

心の底からそう思っている顔で微笑まれてしまっては、劉備の罪悪感の行き場がない。
いっそ叱責してくれればすっきりできたのに。
だからといって叱れというのも何か間違っている気がする。
なんだか釈然としない気分を抱えて押し黙る劉備に気づいていないのか、趙雲はふいに明るい声を上げた。

「殿」
「な、なんだ?」
「そこでちょうど饅頭が蒸しあがったようです。召し上がりませんか?」

それは劉備が今さっき買うのを諦めた饅頭で。
まるで見透かされているような趙雲の言葉に、またもやもやとする気持ちがわきあがってくる。
けれど、今は食べ逃した饅頭の方が劉備にとっては大事だった。
もごもごと口の中で何事か呟いてからぶっきらぼうに小さく小さく声に出す。

「…………食べようか」
「分かりました。行ってまいります」

すぐに笑顔で駆け出す趙雲の背中を見送りながら、劉備はくすぶる心中を吐き出すように大きなため息をついた。
どうやらは自分で思っている以上に趙雲に依存しているらしいことと、それをあまり嫌がってはいない自分の気持ちがどんな名前を持つのかを考えるのは先延ばしにしようとだけ、心に決めた。


いると鬱陶しい、いないと物足りない


(その気持ちの名前は、きっと)



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