「その怪我、どうしたんだ」

劉備の言葉に、書簡を取るために伸されていた孔明の手がぴたりと止まった。
腕を伸ばすのに邪魔な長い袖を捲ったそこには、真新しい赤と青の入り混じる痣がくっきりと残っている。
痣に注がれる伺うような視線を受け止めた孔明は、緩慢な動作で劉備に顔を向けてから、にこりと微笑んだ。

「私の不注意です。殿が気になさるほどのことでは…」
「そんな答えはいらないよ、孔明」
「……」

普段よりも幾分か低い、不満をありありと表した声音。
けれど本当に、ただ棚の上にある荷物を取ろうとして、予想外にその荷物が重たいために転んでぶつけたというだけの話なのだ。
孔明の不注意が生んだ結果であるから、わざわざ子細を伝える話ではない。
そう判断して、孔明はもう一度笑みを作って口を開いた。

「本当に、何でもないので」

がしゃん。

頬を掠めて飛んで行った何かが壁に当たって割れる音がした。
ゆるりと振り返ったそこにあったのは、壁の一面に歪に描かれた黒い模様。
となれば、劉備が先ほど投げつけたのは墨の入った硯なのだと孔明は結論づけた。
当たらないように投げたのだろうが、ほんの僅か軌道がずれて孔明の顔に当たっていれば、額が割れていたに違いない。
そんな暴挙をしでかした主に視線を返した孔明は、瞬間痛ましげに眉を寄せた。

普段の穏やかな彼からは想像もできないほどに、荒々しい雰囲気。
それなのに、その体は何事かを恐れるかのようにがくがくと震えている。
青ざめた顔の中で、大きく見開かれた瞳の焦点はあっていないようだった。

「嘘だ嘘だうそだうそだっ!」
「殿、」
「五月蝿い嘘ばかりつくお前は嫌いだっ!そうやって私の知らない間に怪我をして、」

突然の大きな怒声を抑えようと、孔明は劉備に向かって手を伸ばす。
両手で自分の頭を抱えながら叫んでいた劉備は逃れるように一歩後ずさったが、孔明の手が、その腕についた痣が視界に入った瞬間、目の前の腕を握りしめていた。

「…お前を傷つけていいのは私だけだ。そうだろう?」
「っ…勿論、そうですとも」

ぎりりと腕を握る拳に力がこもる。
つい先日できたばかりの痣はただでさえ痛むというのに、そこに更なる刺激を与えればどうなるか。
答えは単純で、劉備も分かっているはずなのに腕にかかる力には容赦などひとかけらもなかった。

「ならなんなんだこの怪我はっ!この痣はっ!私はしらないこんなのしらない」
「すみま…せん」
「五月蝿いっ!」

腕を掴むのとは反対の手が、孔明の首を捉えた。
力任せに気道が押さえされた苦しさに孔明はくはと息を漏らす。
けれど劉備の力は全く衰えず、むしろ強くなっているようだった。
しかめられた孔明の瞳に映るのは、白いといっていいほどに血の気のひいた、悲痛な表情を浮かべる劉備の顔。

「お前だって、口ばかりなんだ、どうせ私を置いていくんだ」
「殿、」
「みんな、私のいないところで死んでいくんだ、私を置いていくんだ」

消え入りそうなほどに小さく震える声に、孔明は己の首を掴む腕に弱々しく手をかけた。
涙に濡れる瞳が孔明の顔をじっと見つめる。
孔明は苦しい息の中、劉備を安心させるように無理やり笑みを作った。

「殿、私は違います」

ぱちりと劉備が瞬いて、孔明の首が解放された。
足りない酸素を補うように、孔明は肩を揺らしながら激しく息を吸う。
劉備はそれをじっと眺めてから、にっこりと微笑んだ。

「それならば…お前が傷つくのは、私のせいだけだろう?」

その通りです。

痣の上に、赤い血が流れる。
劉備の爪が孔明の皮膚に食い込んで、裂けたから。
孔明はそれを見ながら、最愛の主にそっと手を伸ばした。


血溜まりで産声。(ハローぼくの狂気)


狂ったのは、この人なのか、或いは、

(わたし)


title by ニルバーナ



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