「最近のお前さんは、いつにもましてふやけた顔をしているねえ」
「ふやけた顔、かい?」

どんな表情なのか確かめようとでもいうのか、己の頬をぺたぺたと触りだした徐庶の素直な反応に、ホウ統は胸の中でおやおやとひとりごちた。
その僅かな間で、徐庶は『ふやけた』と言われる原因に思い至ったらしい。ためらうような素振りを見せながらも、もしかして、と小さく呟く。

「劉備殿の下で働けているからかもしれないな。なんだか毎日、すごく幸せなんだ」

目を細めて顔をほころばせながら少し恥ずかしそうに徐庶は言う。心の底から言葉の通りに思っているのだと誰が見ても分かる程に、徐庶の全てが幸せだといっているようだ。
ホウ統は今度こそおやおやと声に出した。

「しかし、理由はそれだけじゃないだろう」
「え…」

疑問形ではない確信を持っているようなホウ統の言葉がなにを指しているのかしっかりと汲み取ったらしく、徐庶の顔が僅かに引きつる。
ふやけた顔をしながらも、蜀の頭脳を担う一人であるのだから当たり前だ。
それなのに知らぬふりを貫き通そうと視線をさまよわせる徐庶を、ホウ統の鋭い眼差しは逃がさない。
直ぐに諦めたように、徐庶は両手を上げて降参の意を示した。

「士元、どうして分かったんだ…?」
「そりゃ、見てりゃ分かるよう」
「そっ、そんなに分かりやすかっただろうか?」

そりゃあ、色恋沙汰に疎そうな張飛が「徐庶が兄者を見る目は好きな奴ができたばっかの生娘みたいだな」なんて似合わない科白を言ってしまうぐらいには分かりやすかった。けれどそれを見るからに狼狽している徐庶にそのまま伝えるのは酷だろう。
ホウ統は親友思いの男だった。

「…お前さんとあっしの付き合いは、長いからねえ」
「そ、そうか…」

ほっと安堵の息を漏らす徐庶に、ホウ統の良心は痛まないでもない。しかし、そんなことを気にするぐらいなら初めからこんな似合わぬ話を持ち出したりはしないのだ。
ホウ統は改めて確認を取るために、徐庶をじっと見つめながら口を開いた。

「それで、元直。お前さんは劉備殿をお慕いしているって事でいいんだね?」
「改めて言葉にされると、なんだか照れるな」

頬を掻きながら言う徐庶に、ホウ統は呆れの色を滲ませてそんな年でもないだろうにと呟く。あははと返す徐庶がきちんと自覚しているのか大層疑問ではあるが、ホウ統は本題に入ることにした。

「そこまで思っているのなら、劉備殿に気持ちを伝えてみたらどうなんだね」

その言葉が耳に届いただろう瞬間、すとんと徐庶の顔から表情が消えた。
出会った頃から変わることのない鳶色の瞳がホウ統を真っ直ぐに見つめている。
その眼差しは短くはない付き合いのホウ統でさえ初めて見る、驚くほどに静かなものだった。

「それはないよ、士元。絶対にね」

決して力を込めているわけではない。それに声音は常と変わらぬ穏やかなものなのに、徐庶の言葉はずしりとホウ統の腹の底に落ちていく。

「…どうしてだい?」
「言っただろう。劉備殿の傍にいられるだけで、俺は本当に幸せなんだ。今のままで、この先ずっといれたらいいと心から思っているんだよ」

徐庶の言葉ひとつひとつが、ホウ統の中に溜まっていくようだった。
だから、問いかけへの徐庶の答えは彼の心からの言葉なのだと、ホウ統は理解せざるを得ない。

徐庶は自分よりも他人を尊重する男だ。自分が損をしたとしても、それで最善の道が拓けるのなら自己犠牲だって厭わない。
けれど、今回のこれは違う。

「思いを伝えてより幸せになる道もあるんじゃないかい…?」
「そんなことはないさ。だって、俺はこれまで生きてきた中で、今が一番に幸せなんだから」

徐庶は自分を犠牲にしているつもりはないのだろう。ただ純粋に、今このときが最上なのだと信じて疑っていないだけだ。
だからこれ以上は望まない。いや、望むことすら考えない。
それは彼の性格のせいなのか、大事なものを取りこぼすばかりだったこれまでの経験のせいなのか。
敏いホウ統でさえ判別はできなかった。

(これは、思っていたよりも複雑かもしれないねぇ…)

胸中で嘆息を噛みしめられているとも知らずにどうかしたのかいと首を傾げる親友の姿に、ホウ統は本日三回目のやれやれを小さく吐き出した。






それとほぼ同じ頃、ホウ統とは臥龍鳳雛と並び称される孔明も、片割れと同じ様な心境に陥っていた。

「孔明、私が徐庶に気持ちを伝えることは絶対にないよ」

優しい瞳で断言する劉備に、その胸の内を言い当てられて顔を朱に染めて慌てていた面影はかけらもない。
孔明が徐庶に告白しないのかと口にした途端、劉備は恥じらいをどこかになげうって、静かにゆるりと首を横に振ったのだ。

「ただ傍にいてくれるだけで得られる幸せがあると私は知っている。だから、今のままで十分なのだ。いや、むしろ今以上はないのだと思う」
「殿…」

慈愛に満ちた笑みを浮かべる劉備に、無理や我慢をしているようなそぶりはちらとも見えない。劉備の言葉が紛れもない本心であるというなによりの証拠だ。
現状が己にとって至福なものだと納得して満足しているから、劉備は徐庶との関係を変化させることを望まない。
それは秘めやかで慎ましい、一途な思いだった。

「…殿はもう少し欲を持たれても良いのでは、と思います」
「不可能だと分かっているのに現状維持を永遠にと望んでいるのだぞ?人並み以上に欲深い人間だよ、私は」

そう劉備は言うけれど、打ち明けられた思いのどこが欲深いというのだろうか。
孔明は歯がゆい焦燥感に苛まれる。
けれど、物腰の柔らかである主が、その胸の内に何ものにも屈さず己の信念を貫く強い意志を秘めていることを孔明はよく知っていた。
どれだけの言葉を尽くせば劉備の考えを変えられるのか、孔明には検討もつかない。

(参りましたね…)

春の日差しのような暖かな微笑みを浮かべる劉備にかける言葉が見つけられなかった孔明は、羽扇でそっと口元を隠して湧き上がる嘆息を無理やり飲み込んだ。






劉備と徐庶の二人が揃っている姿を見た者は、よほどの鈍感でない限り彼らがそれぞれを思いあっていることをすぐに察することができた。
劉備が徐庶に見せる笑顔は誰に向けるものよりも優しく、徐庶が劉備を見つめる眼差しは甘くとろけるようなものだったからだ。
それなのに当人たちはお互いの気持ちに全く気付く気配もなく、ただ漢室と民のためにと日々邁進していた。
その努力と蜀の皆の力を合わせることで三国が争う時代は終わりを告げた。これからは、劉備の元で平穏な時代が訪れるのだ。
ならば劉備だって、彼のために身を砕いてきた徐庶だって幸せになってもいいはずだ。
二人をよく知る者の間で、背を押してやろうという話になったのは当然の流れであった。
だから劉備と徐庶の二人に近い位置にいて、頭も回る孔明とホウ統が探りを入れることになったのだ。しかし。

「元直も殿と同じ考えでしたか…」
「元直の話を聞いていて嫌な予感はしたんだがねぇ。まぁ二人らしいと言やあ、二人らしいんだが」

それぞれの目標との会話を終えた孔明とホウ統の二人は、孔明の自室で額を付き合わせていた。その口から漏れるのは重たいため息ばかりだ。
まだどちらか一方が素直に思いを伝えようと前向きでいてくれたら話は違っただろう。
だが見事に二人揃って明るく後ろ向きであった。
言い分は分からないでもないし、当人たちが今のままを望んでいるのならば部外者に口を出す権利はないと分かっている。
それでも、と孔明は思う。

「…私は、殿と徐庶に今以上の幸せを得て欲しいと思っています。たとえ、余計な世話だと罵られようと」
「お前さんだけの願いじゃないよ。あっしも同じさ」

相手は強敵だが諦めるわけにはいかない。誰にだって等しく、好いた相手と思いをかよわせる幸せを手に入れる資格があるのだから。
孔明とホウ統は目を見合わせてこくりとひとつ頷きあった。


泡沫的恋愛理論


title by 瑠璃





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