「おかえりなさいませ、兄上!」 玉座へ続く扉を開け放ったと同時に耳に飛び込んできた声に、スコルピオスは顔をしかめた。 権力を誇示するかのごとく無駄に広く豪奢な広間には、二人分の人影しかない。 スコルピオスの記憶にあるここは、いつだって多数の兵士が整然と並んでいたはずなのに。 ここに来るまでの間に蓄積された違和感が、一気にふくれあがる。 なにより、広間の真ん中で気安そうに両手を広げている男―スコルピオスの腹違いの弟であり、大国アルカディアを統べる王。それどころか、神託に『世界を統べる王となる』と告げられた、スコルピオスがこの世で最も憎む人間、レオンティウス。 彼が顔を輝かせながら自分を出迎えるなんて事、あるはずがないのだ。 そのうえ「おかえり」なんて、運命の紡ぐ縦糸がねじ切れてしまったとしか思えない。 「兄上?」 スコルピオスは首を傾げた弟から、彼の隣に跪いて顔を伏せている男へ視線を移した。 レオンティウスが生を受けてから片時も傍を離れずに付き従う忠臣、カストル。 彼の兄であるポリュデウケスは話の分からない男だったが、カストルは違うはずだ。 そうでなくとも、不可解な弟と会話をするよりずっとましに思える。 「以前から抜けた奴だと思っていたが、お前の仕える主はとうとう頭がいかれたのか?」 「陛下を侮辱する言葉は控えていただきたい」 「侮辱?事実を言っているだけだろうが。国を守る責務を放棄し、ろくに抵抗もせず反乱の首謀者を招き入れる男だぞ!」 「…っ」 スコルピオスがラコニア軍を率いて反乱を開始した当初、アルカディア軍の攻勢は凄まじいものだった。 スコルピオスにとっては忌々しい存在でしかないレオンティウスだが、民衆からの支持は厚かった。 勇者デミトリウスの子にして、雷神の血を受け継ぎし者。その上、あの神託がある。 誰もが羨むような境遇にありながら、レオンティウスは決して驕れることのない清廉潔白な青年へ成長した。 そんなレオンティウスを民衆は慕い、だからこそスコルピオスへの反発は自然の成り行きだったと言えよう。 だが、それはほんの僅かの時間だった。 戦場が首都に近づくにつれて、アルカディアの軍勢は規模も勢いも失っていった。 何か考えでもあるのかと侵攻をゆるめ探ってみても、伏兵の気配はもちろん、どこかに援軍を頼んだ様子もない。 ここ数日は剣を鞘から抜くこともなかった。 大した消耗もなく首都へたどり着いたスコルピオスを迎えたのは、静寂に包まれた都だった。 気配はすれども形は見えない。誰も彼もが、建物の中でひっそりと身を隠している。 それは王城でさえも同じ有様だった。それどころか、城内には気配すらほとんど感じられない。 渋る将兵を黙らせて一人で見知った城内を進みながら、スコルピオスはまさか、とすら思った。 まさかレオンティウスに何がしかの事故が起こったのではないか、と。 レオンティウスが王を続けるに相応しくないとなれば、次の王位継承者はスコルピオスだ。 そうであれば、無抵抗にスコルピオス率いる反乱軍を受け入れるのにも一応は納得がいく。 だが、その予想は外れた。レオンティウスは今もしゃんと背筋を伸ばしてスコルピオスの目の前に立っている。 では何故反乱軍にあらがわなかったのか。 納得できる理由など、どこを探してもない。 無理やりにでもひねり出すならば、レオンティウスの頭がおかしくなったとしか考えられない。 高圧的なスコルピオスの言葉に、カストルは俯いたまま小さく身を震わせている。 「兄上は面白いことを言われますね。私はどこもおかしくありませんよ?」 無言を貫く忠臣に、いっそ憐れみすら覚えかけていたスコルピオスは、首を傾げるレオンティウスに侮蔑を込めた視線をやった。 「では、正気でこの国を私に明け渡すと言っているのか」 「はい」 何の迷いもなく答えるレオンティウスは、確かに気がふれた様には見えない。 雷に似た色をした瞳も、記憶にあるのと変わらずに真っ直ぐスコルピオスを見つめている。 「ですが、明け渡すというのは正しくありませんね。元々ここは兄上の所有物なのですから」 「なに…?」 「私が生を受けるまで、父上からこの国を譲り受けるべきは兄上とされていました。私はただの仮の主。兄上が王として即位されるのが正統な流れでしょう」 「きっさま…っ!」 湧き上がる激情のまま、スコルピオスはレオンティウスの胸ぐらを掴んでいた。 いまのレオンティウスの話は、スコルピオスが常日頃考えていることであった。 だが、それをレオンティウスが言うのはおかしい。間違っている。 一体誰のせいでスコルピオスが玉座から突き落とされたと思っているのだ。 「世界の王になると神託に選ばれた身で、よくそんなことが言えるものだっ!私を憐れんででもいるつもりかっ!!」 「違います、兄上」 「では何故っ!玉座を捨てるなんて馬鹿な真似をするっ!」 「そんなもの、一度として望んだことはありませんから」 喉元に刃を突きつけられたかのような寒気を感じるひやりとした声だった。 今まで一度も聞いたことのない声に、スコルピオスは知らぬうちに息を飲んでいた。 「神託は絶対。私自身そう信じて、みなに言われるがまま王となるべく生きてきました。けれど、ある時ふいに気づいたのです。なぜ人は運命に従わねばならぬのかと。胸の深くに本当の望みを押さえつけてまで、どうして従わねばならぬのかと。在るがままに、為すがままに生きることのなにが悪いのか、と」 「本当の…望み?」 「いつまでも、兄上のお傍に。ただ、それだけです」 レオンティウスは、穏やかに微笑む。 何事をも怖れず揺るがず、全てを慈しんでいるように見えるのに、どこかが決定的に歪んでしまっている。 ここに至って、スコルピオスはようやく気付き始めていた。 「反乱軍を率いているのが兄上だとは思わず、攻撃を加えてしまったのは本当に申し訳ないと思います。ですが、今はもう問題ありません。この国のすべては兄上に従います。反対する者たちは、みな冥府へ旅立ちました」 ヒュドラに捧げるための巫女を取り逃したという報告を受けたときから、スコルピオスは言い様のない違和感に苛まれていた。 見えざる者の手が、運命の紡ぐ糸に支配されたこの世界を引っ掻き回しているような、奇妙な感覚に。 これまでは気のせいだと言い聞かせてきたが、その感覚に間違いはなかったようだ。 雷神の加護を受けし槍で奪ってきた多数の命を悼んでいた男が、己の手の汚れをこんなにも嬉々として話すなんて。 世界も人も、なにもかもが狂っている。 だが、それがなんだというのだ。 「くく…っ…はっはっはっは!!」 「兄上?」 「ははっ!レオンティウス!貴様は私に仕え、私のために冥府の門を開く覚悟があるのだな」 「はい。兄上の望む通りお使いください」 「そうか…。くくく…っふはははは!!!」 たとえどれだけ狂った世界でも、自分が全てを手に入れれさえすれば他はどうでもいい。 第一王子の座を奪われた時から、スコルピオスの望みはそれだけなのだから。 いずれ見えざる者の介入によって破綻してしまうであろう世界でも構いやしない。 突然の哄笑にも身じろぎもせず微笑むレオンティウスを間近で見つめながら、スコルピオスは改めて高らかに宣言した。 「世界の…王になるのは、この私だっ!!」 かみさまの死んだ世界で |