「いい風が吹くものだな」 背後からかけられた声に、窓枠に腰かけて外を眺めていた甘寧は、大仰に肩を揺らしながら慌てて振り返った。 随分とぼんやりしていたようで人の気配に全く気付いていなかった事と、もう一つ。 甘寧の記憶に間違いがなければ、いま聞こえた声の主はこんな場所にいていい人間ではない。 その、はずなのに。 「やぁ、甘寧殿」 振返った先、思いのほか近い距離で穏やかに微笑んでいたのは、甘寧の思った通り蜀の主である劉備玄徳その人であった。 「なん…劉備………っ殿…」 思わず普段通り敬称を付けずに名を呼びそうになるのを、ぎりぎりのところで思いとどまる。 これまでと違い、今の劉備は倒すべき相手ではない。孫呉の重要な同盟相手であり、礼を尽くさねばならぬ人であるのだから。 とはいえ言いなれぬ言葉は口になじんでくれず、「劉備殿」という語感の悪さに甘寧の顔は自然としかめっ面になってしまう。 その間に甘寧の隣までやって来て窓枠に手を置いた劉備は、面白そうな顔をしながら甘寧の顔を見上げてくる。 「呼びやすいように呼んでくれて構わないぞ?」 そう言われたからといって、はいそうですかと頷けるほど甘寧は馬鹿ではない。 眉間に寄せる皺を一つ増やしながら、どうしたんですか劉備殿と名前を強調しながら問いかければ、劉備は短い笑い声をあげた。 「いや、すまない。少し呑みすぎてしまってな。酔い覚ましに風に当たろうと思って出てきたのだが、道に迷ってしまったらしい」 言うほど酒に呑まれているようには見えないが、人目を避けて宴会場から離れた場所にいた甘寧の下にまでたどり着いたのだから、素面の顔の下は相当酔っているのかもしれない。 先ほどの不躾な言い分も、そのせいなのだと思えば納得がいく。 しかし、いくら同盟国との宴の席だとはいえ、一国の主がそこまで酔ってしまっていいのだろうか。自国の領内ならばまだしも、ここは呉の居城である。 逆の立場なら、孫権は節度をわきまえて酒を嗜むはずだ。 いくらなんでも気が緩みすぎだろう。 言葉にするには憚られるそんな考えが、表情には素直に出てしまっていたらしい。 甘寧の顔を見つめていた劉備は、少し困ったように微笑んだ。 「良くはないのだと思うのだが…こんなにも穏やかな気持ちで過ごせる酒宴は随分と久しぶりでな、つい」 確かに、劉備の言うとおりだ。 この大地に生きる人間のなかで、いったい何人が想像しえただろうか。 鼎立した三国が手を取り合う日が来るなんて、まるで夢のような時代を。 その立役者となったのが孫呉であること、自分も大望の一翼を担っていたということ、熱い思いが甘寧の胸にたぎる。 けれどそれは一瞬のことで、すぐに腹の底のほうからひやりとした不安が這い上がって来て胸の高揚を掻き消してしまう。 最後の戦が終わってから幾らかの時が経つが、甘寧はもう何度もそんな不確かな気分に苛まれていた。 「甘寧殿は、宴席に戻らないのか?随分と前から席をはずしているようだが…」 「俺は…」 初めは、劉備と同じように宴を心から楽しんでいたのだ。 檀上で杯をかかげる孫権の姿を心から誇らしく思ったし、用意された酒も料理も非常に美味しかった。 普段よりもずっと明るく騒がしい呉の面々に幾度も腹を抱えて笑ったし、蜀の人間とも酒をかわしながら話してみれば思いのほか盛り上がって愉快だった。 それなのに、ふと宴席を見回して皆の穏やかな笑顔を目にした瞬間、いつもの冷たい不安が襲ってきてしまったのだ。 なんとか取り繕おうとしてみたもののそんな器用な真似が出来るはずもなく、甘寧は適当な言い訳をつけて宴を抜け出して人気のない場所にやってきのだった。 「甘寧殿…?」 「…」 これまでその不安を、甘寧は誰にも話そうとはしなかった。 弱みをみせるのが嫌だとか、馬鹿にされそうだからなんて理由ではない。 長い戦の終わりに幸せであろう皆の気持ちに、水を差してしまうのは嫌だった。 だから、誰にも言わずに自分ひとりでけりをつけようと心に決めて、こうして不安に抗っていたというのに。 何故だろうか、静かに見上げてくる劉備の穏やかな眼差しに、甘寧は胸の内をすべてさらけ出したくなってしまっていた。 「…俺、は」 それでもまだ躊躇いに歯切れの悪い甘寧の言葉を、呆れることも急かすこともなく劉備は待ってくれている。 たったそれだけのことで、甘寧の不安に覆いかぶさっていた重い蓋は、驚くほど簡単にどこかへ飛んで行ってしまった。 「生まれてこの方、ほとんど荒事としか縁がない生活送ってきたんだ。なんかあれば喧嘩だ、戦だって、それが普通で当たり前だった」 「私も、似たようなものだ」 「だけどよ…これから先、平和な時代ってやつが来るんだろ?誰も争ったりしなくても、笑ってみんなが暮らせるようになるんだ」 「ああ」 「それはいいことだって分かってる。そのために俺だって戦ってきたんだ。いいことなのは間違いない。けど、だけど、その時俺は、一体なんの役に立てるんだろうって考えちまう」 「甘寧殿…」 「っ、なんか、怖いんだよ。頭使う仕事なんてからっきし駄目で腕っぷししか自慢がないのに、平和な世の中でさ、できることなんてあんのかって、思ったら…」 いつの間にかきつく握りしめていた拳にそっと触れた熱に、甘寧の体がびくりと震える。 話している間逸らすように外にやっていた視線を劉備にやれば、先と変わらぬ瞳が甘寧を見つめていた。 「なにも、恐れることなどありますまい」 「なに、を根拠に…!」 あっさりと返ってきた言葉に、甘寧の頭はかっと燃え上がった。 結局、国を率いる立場の劉備と将の一人である甘寧とは考えが違うのか。 理解してはもらえないのかと、振り払いそうになった手のひらを、けれど劉備は離さない。 逆に力を込めて握られて、甘寧は困惑しながら身を固くした。 「そういう風にこれからを考えられる甘寧殿だからこそ、平和な世に必要だと私は思う」 「なん…」 「誰よりも、こんなにも、平和な世のことを考えているのだろう?そんな人が、なにもできないなんてこと、絶対にありえないのだから」 「…!」 やっぱりなんの根拠もないんじゃないかと、拗ねるように考える自分がいるのを自覚しながらも、甘寧は力を抜いた。 改めて意識をやった劉備の手のひらは、剣を握り馴れているのだろう、硬く厚くざらざらとしていて決して触り心地がいいとは言えない。 けれどそれは、甘寧をひどく安心させた。 「また…その、話、聞いてくれるか?」 「私で良ければ、いくらでも」 微笑む劉備の顔を直視できなくて俯きながらも、囁くようにありがとなと呟いてみる。 ひどく小さな声だったけれど、きちんと劉備まで届いてくれたらしい。 優しく力のこもった手の温度に、甘寧は何故か泣きそうになっていた。 君色に染まる心 title by 瑠璃 |