「小十郎さーん!」 畑の外から元気いっぱいに叫びながらぶんぶんと手を振る前田の風来坊の姿に、手伝いに駆り出され畑の草むしりにいそしんでいた伊達軍の兵士達はぎょっと目をむいた。 いつからかよく伊達領に顔を出すようになった前田慶次は、竜の右目である片倉小十郎をとても慕っていた。 堅物としか言いようのない小十郎と常に陽気でお気楽な慶次では水と油ではないかと首をひねる者もいたが、慶次は奥州に来る度に「小十郎さん、小十郎さん」と月を負う背中を追いかけるのだ。 鬼とも言われる人になんて大胆な行動を、と誰もが思った。 そのうち殴られる、いや叩き切られるかもしれないなんて噂が飛び交い、仕舞にはいつ慶次が小十郎を追い回さなくなるか賭ける者まで出始めた。 それほどに、慶次がまとわりつき始めた時の小十郎は目に見えて機嫌が悪かったのだ。 それでも子供のような青年は諦めもせずへこたれもせず、雨にもまけず風にもまけず奥州にやって来るたびに暇さえあれば小十郎にちょっかいをかけていた。 これは本当に殺られるかもしれないと、部下達が本格的に小十郎の堪忍袋の緒を心配し始めた頃だった。 唐突に、小十郎は慶次に対して向けていた強烈な嫌悪感やら威圧感を消してしまった。 その理由が諦めからなのか慶次が飽きるのを待つことに決めたのかは定かではないが、とりあえず慶次の命は保証されたらしいと何人もの伊達の兵が胸をなで下ろした。 当の慶次はそんな事があったとは露知らず、変わらず一心に小十郎を追いかけている。 はじめは無視をしていた小十郎も、時が経つうちに簡潔な言葉や動作でそれに答えるようになっていった。 桜を纏った客人がやって来る度に見られるいつもと少し違う副将の姿は、客人と共にいつしか伊達軍の密かな名物になっていた。 だが、今回は訪問の時機が悪かった。 一週間ほど前に奥州筆頭が単身で城を抜け出してしまっていたのだ。 理由は彼が生涯の好敵手と決めた甲斐の虎若子と剣を交えるため。 直ぐに悟った小十郎は怒涛の勢いで主を追いかけ拘束し連れ戻したが、その怒りは尋常ではなかった。 道場の真ん中に正座させた政宗に一日中くどくどと説教をほどこした小十郎は、政宗が放り出していた仕事に盛大に割り増しして彼の目の前に積み上げた。 「これを終わらせるまで外には出しません」 そう言い添えて。 うげぇと悲痛な叫びを上げた奥州筆頭は否応なしに執務室に籠もることとなった。 再び逃げ出さないようにと目を光らせる右目と共に。 慶次が遊びに来たのはそんな修羅場の真っ只中だった。 いつもなら政宗への挨拶もそこそこに小十郎の元へ向かう慶次だったが、執務室から漂う異様な雰囲気にさすがに空気を読んだようで、城下町で買い物をしたり伊達の兵と手合わせをしたりと比較的静かに大人しく過ごしていた。 そして今日の朝ようやく、執務室の扉が開かれた。 不眠不休でぶっ通し働かされたと弱々しく恨み言を呟いた政宗は覚束ない足取りで自室に向かい布団に倒れこんだ。 付き合っていた小十郎も当然そうなるだろうと誰もが思ったが、竜の右目は睡眠不足でいつもより鋭い眼光を振りまきながら城を出て行ってしまった。 向かった先は、彼が端正込めて面倒を見ている野菜たちのもと。 水やりなどの簡単な世話は部下に命じてやらせていたが、やはりどうしても気になっていたらしい。 心配して付いてきた兵士に軽い仕事を頼んだ小十郎は、重なる葉の様子を見たり土の具合を見たりと久しぶりに触れる野菜に少しだけ頬を緩めた。 その時だった。 「小十郎さんっ」 耳聡い風来坊が、朝っぱらというのに元気いっぱいにやって来たのは。 動物のように尻尾が生えていたなら千切れんばかりに振っているだろうと思えるほどに喜びに溢れた顔。 向けられる相手が面倒見のよいと評判の鬼ヶ島の鬼だったならば、わしわしとあやすように頭を撫で回してくれたかもしれない。 だが、実際に向けられているのは片倉小十郎だ。 しかも相当に気が立っている。 (おいおい大丈夫か…) 普段の理知的な小十郎でさえ持て余し気味の風来坊を、疲労が頂点に達している小十郎が受け止められるかと問われたら否としか答えようがない。 今の小十郎にとって、前田慶次は煩わしい存在でしかないだろう。 それなのに慶次はいつもと変わらず―いや近くにいたのに会えなかった時間があったから余計に―はしゃいでいる。 畑の中にまで突撃してきていないのがせめてもの救いかと思うが(以前それでしこたま怒られていた)、差し引きしても零にはならない。 これは遂に我慢の限界がくるのではないか。 雑草を片手にした兵達が同じ思いにとらわれたのとほぼ同時に、小十郎が動いた。 小十郎を宥める声は上がらない。上げられない。 それなのに慶次は近づく小十郎に余計に喜びを露わにする。 肩に乗っている小猿はとうに小さな体をふるふると震わしているというのに。 「久しぶり、小十郎さん!」 はじけんばかりの笑顔で言った慶次の襟を、小十郎の左手がぐいと引き寄せた。 「南無三…」 誰かが呟く。 が、予想していた殴打音も悲鳴も上がらない。変わりに慶次の「ふがっ」という情けない声が畑に響いた。 小十郎の唇で、己の唇を塞がれたために。 「………………………………」 目の前の光景なのに信じられなくて、誰もなにも言えなかった。 その間にも口づけはどんどんと深くなっているようで、小さな喘ぎを漏らす慶次の顔は見る間に赤く染まり小十郎の着物の端を摘む手は震えていく。 二人の顔が離れて小十郎が手を襟から離した瞬間、慶次はへなへなと地面に座り込んだ。 「続きは後でしてやるから大人しくしてろ」 そう言い放った小十郎に、首まで真っ赤にした慶次は涙目でこくこくと頷く。 確認した小十郎は何事も無かったように元の位置に戻って畑仕事を再開したが、声をかけられる者など、一人もいなかった。 in the soup(苦境に会う) title by AC |