一体なにが起こったのか、劉備はよく分からなかった。 「…っ」 「殿?」 趙雲を伴い遠乗りに出かけた帰りだった。 馬を休めるために湖のほとりで足を止めて草むらに腰を下ろしていた劉備は、左目に感じた違和感に眉をしかめた。 埃かなにかが目に入ったのだろう。 隣で気使う趙雲に大丈夫だと劉備は声をかけた。けれど、次の瞬間大粒の涙がぼろりと瞳から溢れてきた。 「痛…」 よっぽど入りどころが悪かったらしく、次いでちくちくと鋭い痛みが襲ってくる。 良くはないと知りながら拳でこすっても全く改善されない。 しかし、それでも大した事はないという事実に変わりない。 劉備は改めて趙雲に無事を伝えようとした。 趙雲は時折度が過ぎると思うぐらいに劉備を大切に扱う。 劉備だっていい年の男なのだからとは思うが趙雲はそれに関してだけは頑として妥協しない。 だから早く安心させなければと、劉備が紡ぐはずであった言葉は音の形をとることはなかった。 「…っ!?」 瞳をこすっていた左の拳をやんわりと戒められると同時に、生暖かいなにかがべろりと頬を這う。 いや、"なにか"なんて表現をしなくとも、劉備はそれの正体が分かっていた。 互いの鼻の頭が触れそうな距離に趙雲の顔があるのだから、頬に触れる"なにか"は、彼の舌なのだろう。 理解した瞬間、劉備の頬は朱に染まった。 「ち、ちち、趙雲!」 まなじりを舐められたところで漸く言葉を取り戻した劉備は、趙雲の肩を力を込めて押し戻す。 ぽかんと目を丸くした趙雲の顔は、まるで『なにか悪いことをしましたか』とでも言わんばかりで、劉備は軽くめまいを覚えた。 水辺でいななく馬の声がどこか遠くに聞こえる。 「お前は、泣いてる者の涙を舐める趣味でも、あるのか!」 「いいえ」 劉備にしては珍しく語気を荒げて言えば、趙雲はすぐに顔を横に振って今度は不思議そうに首を傾げた。 では今のあれはなんだったんだと劉備も首をひねりかけたのと、ほぼ同時だった。 「…殿の、」 湖の上を通り抜けた涼しい風が木々や草をざわめかせる。 そのせいで途切れた言葉に趙雲の顔をまじまじと見つめた劉備は、風に揺れる髪にも埋もれない強い視線に自分の心臓が変な風に高鳴る音を聞いた。 いまだ握られている左手が熱い。 「殿の涙、ですから」 それは理由になっていない。 そう心から思ったはずなのに、駄目ですかと呟きながら再び寄せられた趙雲の顔に、劉備はどうにでもなれと目をきつく閉じた。 本人は気づいていないけれど、趙雲が劉備に過保護なように、劉備も大概趙雲に甘いのだ。 目に入った塵の存在は、もはや劉備の頭の中から消えていた。 息がまともにできません (わたしはあなたに溺れたの) title by AC |