献帝の身柄を盾に権力を好き放題に振るう曹操が逆臣だと言いがかりをつけて命を狙う相手がその人なのだと、一目だけ見た者には分からなかっただろう。 衣服だけに留まらず、顔も手足も土と埃にまみれていた。 頭頂部で結った髪も随分前にほつれたのか、ばらばらになっている。 どう贔屓目に見ても、一軍を率いる身、ましてやあの曹操が執拗に牽制するに値する人間には見えなかった。 それでも趙雲にとって彼は、劉備玄徳は特別だった。 彼が身を汚しているのは逃げ惑う民を自ら助けに回っているからだと知っていたし、土埃程度に汚されても劉備という人間の徳にはなんの影響も与えないということも知っていたから。 だからこそ、危険な事は十分承知した上で民を逃がす為の殿を請け負ったのだ。 劉備にとって己を慕ってくれる民は、身を挺してでも守るべきものだと理解していたから。 だから、妻子が取り残されているという伝令に大きな動揺も見せず、むしろ努めて平静に振る舞い民への助力を続行したのも当然だと思えた。 それが彼の矜持だから、冷酷な仕打ちだなんて考えもしなかった。 けれど、だけれど。 「殿……」 知らせを耳にした時の、劉備の瞳。 目の前に立っていたから、趙雲にはよく見えた。 一人の夫として父として助けに向かいたい思いと、民を守る公人としての義務を果たすべしという思いが交錯して苦しげに揺れた、劉備の瞳が。 「っ…!」 劉備は『妻子を助けてくれ』なんて口が裂けても言わないし、誰にも命令を出さないだろう。 彼は君主としての自分を選んだのだ。 それならば、と趙雲は傍らの愛槍を握り締めると反対の手を口に当てて高い音を響かせるように吹いた。 途端、彼方から馬の蹄の音が響く。 美しい白い毛並みを風に揺らせ近づいてくる白馬。 趙雲は駆け出して愛馬と合流するとその背に飛び乗った。 劉備がなにも、言わないのならば。 「私が…っ!殿の手足となりましょうっ!!」 その日、長坂において趙雲子龍は主君の息子を胸に抱き一騎当千の戦いを見せ付けた。 恩を売るつもりも返すつもりもない、ただ助けると決めただけ (私のすべては貴方のために) title by 憂雲 |