剣刻 夢(4/4)


 廊下に紙が落ちていた。袖ほどの大きさの麻の紙。
 拾い上げて見てみると、一枚の絵だった。墨の濃淡のみで描かれた、日の本の山河の景色だ。所々に広くとられた余白は厚く積もった雪のため。

「山から伐り出された木が流されてる。・・・木曾かしら」

 雪塊がぼろりと崩れて溶け込む川へ、男衆が一本、また一本と木材を流していた。流された木材が岩にぶつかり飛沫を上げる。威勢のいい男たちの声と山川の音とがぶつかり合っていることだろう。
 さすがにお上手だ。これだけですでに飾ってよいように思うのだが、描いた本人はとるに足らないものと思って部屋に捨て置いたのだろう。それが部屋を出ていく人の裾にでも引っかかり、廊下に出たか。

「──ん? と、いうことは・・・」

は障子を開けようとして、手を止めた。耳を澄ます。物音はなく、念のため「探幽様・・・?」と声をかけたのにも応答はない。誰もいないようだ。
 爪を噛ませるほどの隙間を空けて、絵を返しておいた。端から見たら何をしているんだと思うことだろう。情けないようだが、こうするしかなかった。
 そこは探幽の仕事部屋だった。
 ○○は探幽が屋敷にいようといまいとここにだけは入らないことを硬く約束させられていた。落ちていた絵のように描きかけのものがあるらしく興味をそそられるのだが、見せられるような物はないからと、探幽から許しをもらえることはなかった。
 時刻は昼を過ぎていた。創作に入るとろくに食事もとらずに部屋から出てこない主人を呼びに来たのだが、その主人がいない。おそらくは行き詰まってか気分転換にふらりと外出したのだろう。一言言ってくれればいいのに。まったくもう。
 居間を通りかかると、ちりんちりんと鈴の音がした。普段探幽が使う座布団の上に、丸くなって寝転がっている女の子がいる。
 頭の上のほうに黒い耳、お尻に黒い二本の尻尾を持つ、猫娘だ。座布団からはみ出た頭が持ち上がったり揺れているのは、座布団の角についた房を噛んだり引っ張ったりしているためらしい。

「珠ちゃん、ここにいたの」

 声をかけると、ぱたたん、と尻尾で畳を叩いて返事をした。
 他の二人はどうしたのか聞くと、面倒そうに首だけ動かして、探幽様についていったと言う。「あたしだけお留守番なのよ」と、ぷいっとした。

「そういえば、今日は叉梵ちゃんがつまみ食いに来てないなって思ってた。・・・すぐに帰ってくるよ、お父さんたち」

 頭を撫でてやったり、今日も可愛いね、綺麗な毛並みだねと言って褒めていると、

「むむむ、何よう、そんなんで騙されないんだからんにゃごろん」

 と文句をたれていたが、顎下を掻いてやるのが効いたのか機嫌を直してくれたようで、喉をごろごろ鳴らしてうっとりと眠りはじめた。膝を枕に使われて身動きができなくなり少し困ったが、不思議と悪い気はしないものだ。
 猫と猫又の違いはなんと言っても二又の尻尾だけれど、これは一本の尻尾が二本に分かれるのだろうか、それとも新たに生えてくるのか。
 聞いたところで眠る黒猫は耳をわずかに動かすだけだった。


◇◇◇◇◇◇


 ○○が江戸の奥絵師、狩野探幽と祝言を上げてから、はや一月が経とうとしていた。
 どこから話が飛んできたのか性急に決まった縁組で、ろくに顔合わせもせずトントン拍子で祝言の運びとなった。そのせいで夫となる人の顔を間近で見たのは、お披露目の場にて、金屏風の前、座る際に裾を踏んで危うく転げそうになり、思いがけず頼もしい手に支えられたときだった。

「・・・大丈夫ですか」

「あ、ありがとうございます・・・」

 耳触りのよい問いかけにこたえて顔を上げ、しかしすぐに伏せてしまった。頬が熱くなるのを感じた。

(お雛様みたい・・・)

 齢二十三歳の奥絵師の美貌は江戸に広く知れ渡っていた。○○も聞き及んでいたし、嫁入り云々の話が出てから女たち──あるいは男──の視線が痛い気がしていた。なので気構えてはいたのだが。
──まさかこれほどとは。紋付き袴の装いも惚れ惚れするほどだが、自分と衣をかえても着こなしそうな、女人的な麗しさだった。
 これは幸か不幸か。心の隅で悔しい思いがある。夫が妻より綺麗ということがあるか。一生に一度の白無垢が、その絹の輝きが、ぼやぼやとくすんでいくような。

(私が霞むではないの・・・)

 当たったはずの富くじを、○○はちょっとだけ不満に思ったのだった。


◇◇◇◇◇◇


 以来、同じ屋根の下に寝起きしている。婚儀を上げた翌日から探幽は忙しなく、たいてい部屋に籠っているか、今日のように外に出て写生なりしているらしい。
 らしい、というのは、ほとんど姿を見かけないからだ。部屋は立ち入り禁止だし、外出に付き添うこともなく、日頃はひっそり奥様をしている。
 それに探幽には三匹の使い魔がいた──鉄鼠の繋々、影鰐の叉梵、猫又の珠。みな画霊と呼ばれる妖怪たちだった。絵から生まれたあやかしだという。 
 ある時探幽が紹介すると言って、畳に広げた絵巻物をみせてくれた。
 三匹の絵に名前が添えてあるのを○○は読み上げた。

「しげしげ」

「つなづなです」

「……また……んん?」

「さぼんです」

「しゃぼん?」

「さぼん」

「たま」

「はい。・・・お前たち、出てきなさい」

 探幽が呼びかけ、それに応じる声がしてこの三匹たちが出てきたときは、事前に聞かされていたとはいえ、腰を抜かしそうになった。ぺらぺらの紙からぽんぽんと、喋って動く生き物があらわれるのだから。
 ○○が驚きから抜け出せない間にみんなは挨拶を済ませて──○○は生返事を返していた──なにやら探幽ににまにまと笑顔を向けていたが、一睨みされて沈黙した。

「探幽様・・・すごいですね」

 眼光の鋭さにではなく三匹に向けて手をたたいて、あやかしたちの髪や耳や鈴や尻尾やヒレなどを撫でてみたりなどした。本当に手でさわれることに感心しているうちに、くすぐり合いになった。みんな可愛かった。
 彼らは探幽の子どもたちであり、世話係であり、雑用係だった。あやかし使いが荒いと愚痴をこぼすこともあるが、よく探幽を慕って働くので、この子達が側にいれば特に不自由はないようだった。


◇◇◇◇◇◇


 西の空に日が傾く頃、三名は帰ってきた。
 伝言もなく出掛けたのだから、こういうときはお土産があるものだと期待して待っていたのだけど、へろへろになった繁々と叉梵が玄関に倒れこんだのを見ては、そんな催促は冗談でもできなかった。
 とりあえずご飯を食べさせたり、風呂を焚いたり、着替えさせたりのてんてこ舞いをくりひろげても、探幽だけはどこ吹く風、悠々堂々、ゆったり食事と風呂を済ませて仕事部屋に行った。
 人心地つき、お疲れさまの饅頭を繁々に出しつつ叉梵の口にも放りこんでやりながら、何があったのか聞いてみれば、昼間に使いがやってきて、画霊退治の依頼をされたらしい。
 山深いところにある寂れた神社に出たそうで、その退治に行ったのだが、おもに道行き探幽の足場となって支え補助して進行を助けるのが、問題の妖怪と戦うより辛かったと、二匹とも遠い目をして語ってくれた。夕日は彼らのために沈み、烏は彼らのために鳴くかのようだった。
「あたし行かなくてよかったにゃ・・・」
 風呂上がりのほかほかになった繁々の、怪我の手当てをしてやりながら、珠がこっそり呟いていた。


◇◇◇◇◇◇


 ほの明るく灯りの漏れる障子は、空の月にも照らされていた。夜目にはかえってまぶしいくらいだ。

「みんな、今日は早めに休ませましたので」

 障子の向こうに告げると、「そうですか」と返ってくる。「繁々は遠慮したでしょう」とも。
 ○○はくすりと笑った。その通りだったからだ。

「こちらのお部屋の、灯りの心配などをしてました。布団に押し込んでも起き上がろうとするので、しまいには一緒に寝てやるぞと脅して、なんとか説き伏せてきたところです」

 たらふく食べた叉梵は大きくなったお腹をさすりながらすぐにすやすやと寝付いたし、珠は昼寝もしたのにどうしてそんなに寝ていられるのか謎だが、素直に丸まった。二匹に繁々を挟んでもらうと、変わった形の川の字になった。
 その様が想像できたのか、ふっと笑う気配がある。

「探幽様も、ご無理なさらないでくださいね」

「ええ。適当なところで切り上げますよ」

 そう言いながら結局は気が済むまで籠りきりなのだろうな、と予感する。

「・・・前から聞きたかったんですけど」

 去り際に漏れたのは、不満だったか、わがままなのか。探幽と自分以外に誰もいないことが、聞きやすくはさせた。

「どうして私はお部屋に入ってはならないんですか?」

「・・・それは・・・」

「ただいるだけでも駄目ですか? 邪魔しませんから」

 見たかった、絵を描くところを。描かれた絵を。

「お昼に、絵を拾いました。木曽の景色が描かれていて」

「・・・見たんですか、あんなものを」

 しかめた顔が見えるような声音だった。心に残った雪と墨は、たとえ作者が不出来と思っても、無価値とは思えなかった。一度見てしまえば、もっと、もっと、と求めてたくなった。
 たっぷりの沈黙があった。
 不躾だったか。自分が思うよりずっと、絵師の繊細なところに踏み込んでしまったのかもしれない。
 空気が重い。謝って離れたほうがいいか。
 口を開こうとして、ややくぐもった声がためらいがちに聞こえた。

「あなたがいると、仕事にならないので・・・」

 なるほど。
 それを聞いてなんとなく満足したので、「ふぅん・・・」といってその場を離れた。


◇◇◇◇◇◇


 狩野探幽という人は、朝は遅めに起床し、食事のときも何をするにしても起きてる間はずっと、一日中、絵のことを考えているようだった。疲れないものかと思うのだが、そうしているのが好きなのだろう、苦ではないようだ。
 登山した日でさえ夜遅くまで休まないので、○○がうとうとと夢うつつの境にいて布団にくるまり、せめて寝室に来られるまではと、冴えた月光に静かに白む衝立の山水画を眺めながら夫を待つも、いよいよ瞼が耐えかねるころになって、ようやくかすかな墨の匂いが香ってくる・・・。


◇◇◇◇◇◇


 探幽様が行灯に火を灯していた。
 今夜は月夜だったのに・・・と、ぼそりと呟いたつもりの声が、夜の澄んだ空気に響く。探幽様は少しだけ意地悪にほほえまれた。

──諦めてください。

 布団を持ち上げられると夜着の隙間に冷気が入り、肌を這うのがこそばゆい。
 探幽様の色の白い肌が灯りに浮かび上がる。消してと言っても許してくれない、そういうところはどうかと思う。

──月明かりでは物足りなくて・・・怒りましたか?

 きかれて、どう答えてやろうかと半分寝惚けた頭で思案していると、枕の横に手が置かれる。

──○○さん・・・

 綺麗な顔が落ちてくる。
 手を伸ばし、垂れ髪の根元に指を差しいれる。ひんやりとした髪の毛が、さらりと頬に触れる。
 男の重さを幸せに思う。


◇◇◇◇◇◇


 清らかな朝の光が、閨に満ちていく。
 起きたときに見る彼の寝顔が、朝のひそかな楽しみだった。寝ているときは力が抜けて、柔らかに緩んでいる。それを見ていると、ああ、よく眠ってらっしゃる、と思ってほっとできた。
 仰向けから心持ち体をこちらのほうへ向けて、腕は片方を腹の上、もう片方の手は軽く握られて顔の近くにあった。形の良い唇が薄く開かれ安らかな寝息が聞こえる。
 前髪は乱れて柳眉が見える。細くしなやかな柳の葉。瞼はほのかな血色をおび、その質感は花びらに似ていた。
 目尻に一筋、よくよく見なければわからない程度に落としきれてない朱色の紅が残り、だけどそれすら婀娜の感があるのだ。

(いい色なんだよね、探幽様の紅・・・)

 元が美人なので必要ないようにも思われる化粧は、彼にとってどんな意味があるのだろう。目尻に引かれた紅の色は、夢の中で見ても鮮烈に再現される。筆の扱いはお手のものだからか、この人の化粧はいつも綺麗だった。

 ずっと見ていたいと毎朝願う。なのに毎朝、鐘が鳴る。寺の方角が恨めしい。起きる意味がわからないが起きなければいけない。
 仕方なし、後ろ髪引かれる思いを残して布団から抜けだしかけたところで、後ろにぐいっと倒れた。勢いのわりに軽い衝撃を背中に感じ、気づけば腕の中にいた。

「た、探幽・・・様」

 びっくりした。いつの間に起きたのか。というか、もしや、起きていたのか?

「・・・どこに行くんです」

 不機嫌そうな声が聞く。

「どこって、もう朝なので・・・」

「まだいいでしょう」

「ご、ご飯の用意とか」

「いりません」

「あなたはいらなくても」

 腕の力がどんどん強くなっていく。香りもふんわりと濃くなる。

「一緒に寝てください。一人だと寒いんですよ。もう少しだけ。ね?」
 なんと蠱惑的な誘いだろう。私だってここにいたい。だがきっと、これには抗わなければならないのだ。お腹をすかせた三匹が待っているはず。

「叉梵ちゃんが柱を食べるかも・・・!」

「暴れさせておけばいいんです」

「私まで寝坊助だと思われてしまいますから!」

「つれませんね。○○さん、僕の妻でしょう?」

「そうですけど・・・」

「僕が風邪をひいたら、あなたのせいになりますね」

「・・・」

 押し問答のうちに反論も思い浮かばなくなって、なんだかだんだん、何もかもどうでもよくなってきた。
 これは、そうだ、膝に猫が乗ったのだ。だからとらわれて動けない──そういうことにしよう。
 抵抗をやめて身を委ねると、背の君は満足げに笑っていた。


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