05
女の子の家に上がるなんてことは何度もあるのに初めて踏み入れた名前の部屋に柄にもなく緊張していた。
「……――ここってこれでいいの?」
「あ、うん。それを代入すればいいよ」
真剣に数式を見つめていた目にドキリとして、思わず視線を逸らす。
淡いピンクを基調とした部屋は適度に女の子らしく、大人びた印象が強い名前には少し意外だった。
意外であって似合っていないなどでは断じてないが。
気休めに淹れてくれたコーヒーを飲み、不躾にならない程度に見回す。
ふと机に置かれた台本を手に取り捲った。
「それ……」
「ごめん、見ちゃダメだった?」
「……ううん、いいよ。臨也くんは内容をバラしたりしないでしょう?」
名前は微笑んでからまた視線を戻す。
そういえばこれはクランクアップが明日の月9ドラマだったか。
純愛ものに興味はないし、話す相手もいないため気にせず見続ける。
印刷の文字の他に手書きの書き込みがあり、名前の真面目さが伝わってきた。
「……、」
最後のシーン。最終回の終わる直前の部分。
臨也は不意に見つけたその二文字に固まってしまった。
「……ねぇ、」
「ん、なぁに?」
「ドラマとかでよく見かけるけど、キスシーンって抵抗ないの?」
「へっ!?」
弾かれたように顔を上げた名前の頬は仄かに赤い。
臨也の視線の先の台本を見てどうしてそんな質問に至ったか気付き、「えっと……」と口籠る。
年頃の少女らしい反応に何か思う余裕もなく、臨也は続く言葉を待った。
「抵抗ないってわけじゃないけど仕事だし。それにその、ファーストキスとか私はあまり気にしないから……」
女の子らしい照れを見せるのに言うことはシビアだ。
だんだん怒りに似た何かがせり上がってくるのを感じ、臨也は無意識の内に表情がなくなっていく。
「したことないの、キス」
「……ない、よ。彼氏とかいたことないもん。仕事だって恋愛ものは初めてだし」
「……そっか。じゃあ、」
そこからの臨也の動きは速かった。
名前の腕を掴むと押し倒し、身動きを封じる。
おそらくそれは苛立ちと嫉妬からくる感情だった。
好きな少女が自分をそういう目で見ていないと知った苛立ち。
好きな少女と『仕事』という理由で触れることができる相手への嫉妬。
互いの吐息がかかる距離に名前が真っ赤になるが、それでも臨也は優越感を抱けなかった。
焦燥のままにさらに近づけていく。
「俺がしたって構わないよね」
「いざ、んぅ」
口唇の柔らかさに誘われるように、深く深く喰らう。
合間に聞こえる荒い息遣いも気にならない。
ただ臨也は貪るように名前を求めた。
どのくらいそうしていただろうか。
しばらくしてようやく離した臨也は顔を埋め、名前を抱き締めた。
「いざやくん、なんで……」
「好きだからだよ、君が。俺は名前が好きなんだ」
先程の名残で舌足らずに自分を呼ぶ名前が愛しいと思う。
あの日、出会ったのが偶然だろうが運命だろうがどうでもいい。
大切なのは名前がここにいて、臨也が好きになったという事実だけ。
だから、どうか応えてほしい。
いつもの余裕なんて欠片もない頭で願っていると微かに聞こえた声。
「……ごめんね。私、臨也くんの気持ちに全然気付けなかった」
「、」
「好きって言ってくれて嬉しいよ。私も臨也くんのことは大切だと思ってるから。
だけどごめん。私は臨也くんと付き合えない」
“付き合えない”。
その返事は臨也の心を重く突き刺した。