長かった船旅が終わり、約一ヶ月ぶりの地を踏む感触にノアは目を細める。

床が常に揺れていないだけで安心するものだ。
船酔いしない性質なので船旅が嫌いなわけではないが、地に足をつけている方がしっくりくる。


「もう夕方か……。まだ宿空いてるといいけど」


観光地ではないが、漁業産業が豊かで人の交流が深い街のため宿は埋まりやすいのだ。
そのことを知っているノアの足は自然と早くなっていく。

数十分後、頬を引き攣らせた表情のノアに頭を下げる受付の姿があった。


「申し訳ございません。当宿は只今満室となっておりまして……」

「……嘘でしょ、」


嫌な予感というものはとことん当たるものらしい。
最後の宿でも泊まることができず、ノアは途方に暮れた。

こうなったら酒場で一夜を明かしてもいいが、高確率で絡まれるのは目に見えている。
港町で野宿なんて真似もできるはずもない。

どうしたものかと悩むノアに背後から声がかかる。


「俺の部屋なら一つベッドが空いてるよ」


笑みの含まれたその言葉は普通ならナンパに聞こえるだろう。
だが、ノアはそんな軽いものではないと知っていた。


「……女と一夜を共にするなんてアンタの身分から考えればずいぶん軽率だと思うんだけど。下手な噂が立つと困るんじゃないの」

「今の俺はお前と同じ、旅人のようなものだからね。噂が立つこともないさ。……もちろん、手を出すこともしないから安心してくれ」

「アンタがそんな男じゃないことは知ってるし、信用はしてるよ。今までお手付きの娘がいるなんて聞いたこともないしね」


背は腹に変えられないと溜め息を零し、振り返る。

初めて会ったのは互いに幼い頃。
それから何の縁か、遠国だというのに顔を合わせる機会があるのだから不思議なものだ。
年が同じ彼の弟とはこの前で会ったのが初めてだというのに。

沈む夕焼けに照らされ赤く染まった彼――イザナ・ウィスタリアに対し、ノアは怪訝な表情を隠さない。
警戒と疑問が混ざったような顔を。


「ところで何でこんなとこにいるの。ここらに視察に来るような場所はなかったと思うけど」

「少しノアに話があってね、そろそろ帰る頃じゃないかと待ち伏せてたんだ。……詳しいことは中で話そうか。夕食もまだだろう?」


立ち並ぶ宿の中でも一番大きな建物の扉に手をかけ、エスコートする姿はさすがに様になっている。
一国の王子としては当然のことだろうけれど、城でもダンスホールでもない只の宿場での光景には違和感があった。

それに合わせて淑女然とするべきなのかもしれないが、ノアは「面倒」と言わんばかりのいつもと変わらぬ態度で扉をくぐる。


「つれないな」


でも、そんなところがノアらしいけれど。
背中に垂れる青髪が跳ねる様子を目で追いかけながら、イザナはくすりと笑っていた。