静臨で少し薄ら寒い話ですので、苦手な方はご注意くださいませ
ざく、ざく。
人気のない山中には、固い地面にシャベルを突き立てる音と、耳をつんざくような蝉の鳴き声だけが響き渡るばかりだ。額やこめかみに浮いた玉のような汗が、まだらに盛られた土の上にぽたりぽたりと落ちる。掘り返したばかりでまだ湿り気のある色の濃い土に同化して、その斑点はすぐに消えた。
年々地球温暖化とやらで気温が上昇している昨今だが、今日はとりわけ暑い。身体中の水分がすべて排出されてしまうのではないかというくらいに沸き上がる汗は止まらず、皮膚の上に浮かんでは拭う間もなく肌を滑り落ち、地面へと吸い込まれていく。頭上には木々が交差するように生い茂っていて陰を作ってくれているが、この蒸し風呂のような纏わりつく暑さの中では何の効果にもならない。
暑い、と何とはなしに呟いてみたが、吐息のようなそれは土を掘り起こす音に掻き消された。
「ねえ」
夏という季節にもこの鬱蒼とした山中の森にも似合わない、涼しげな声がした。ざくり。シャベルを地面に突き刺し、作業をする手を休め、顔を上げる。その拍子に汗が飛沫のように、また、ぽたぽたと地面に染み込んでいった。それを見送って、不機嫌さを隠しもせず低い声で返す。
「……んだよ」
「汗、すごいねえ。ちょっとは休んだら? 見てるこっちが暑苦しい」
「……手前のその格好の方がよっぽど暑苦しいんだよ」
吐き捨てるように告げれば、目の前の男は、臨也は、物語に出てくるチェシャ猫のようににんまりと口を三日月にして笑った。
俺と、掘っている穴を挟むような形で真向かいに腰をおろしている臨也は、常夏にも関わらずいつもの黒いコートを身につけ、暑さなどまるで感じさせない表情で俺を見上げている。臨也は地面に盛り上がった木の根に座っていて、コートの裾の白いファーが擦れて汚れているのがひどく気になった。しかし当の本人はまるでそれに頓着せず、一体何がそんなにおもしろいのか、人形劇を楽しむ子どものように時折身体を揺らしてこちらを眺めている。その度に裾が土の肌を撫で、また、汚れていく。
なにか返事を寄越してくるかと思ったが、臨也はそれきりなにも言わないので、シャベルを引っこ抜いて再び作業に戻る。ざくり。ざくり。首を前に突き出し、深くなっていく穴を覗き込んでは、臨也は楽しそうに、或いはうれしそうに、笑う。
携帯を開けば、ディスプレイには『不在着信七件』という無機質な文字が表示されていた。カチカチとボタンを操作していけば、『岸谷新羅』の文字が七列、やはり無機質に表示されている。段々と間隔が短くなっていく着信時刻の中で、一番最近のもの、最後の着信にのみ留守録が残っていた。携帯を耳に当てれば、平淡な女性の声の後に、聞き慣れた幼なじみの声が直接鼓膜に届いた。「やあ」という第一声は、もう既になにかを諦めたような、低く掠れた、それでいて重い響きだった。ひどく疲れたような声だ。少し心配になって「大丈夫か」と声を掛けようとして、これが通話ではなく留守録であったことを思い出して口を噤む。思えば、新羅の声は聞き慣れたものとして記憶に新しいが、彼と会話を交わした記憶を探ろうとして、それが随分前に遡らなくてはならないことに驚く。付き合いが長いからか、童顔の幼なじみの顔を思い浮かべることは呼吸をすることのように容易だったが、もう随分と長い間、直にその顔を見ていない気がする。そんなことを考えていると、少し間を置いてから「最近、どうだい?」という新羅の声が聞こえた。当たり障りのない言葉だった。しかしまさかこれを言うために七回も電話を掛けたわけではあるまい。じっと続きを待っていると、またしばらくの沈黙を挟んでから、新羅は意を決したように固い口調で、一文字一文字を噛み締めるように「静雄は、今年はどうするんだい」と問いかけてきた。首を傾げる。今年はどうするんだい、と突然言われても、その問いかけの主語が抜けていて意図が不明瞭だ。しかし新羅の口調は当然それが伝わっていると言わんばかりで、それが何度も繰り返されてきた習慣的な問いかけであるかのように答えを求めてくる。「強制は、しないよ。どっちにせよ僕と門田くんは例年通りだからさ。もし君の気が向いたら、また連絡をくれないかい?」そんな言葉で留守録は終わっていた。最後まで、俺には新羅の言わんとすることがわからなかった。淡々と流れる機械音に、携帯を耳から離し、電源ボタンを押す。そのままいくつか操作をして着信履歴を消去し、俺は携帯をぱたんと閉じた。気づけば、穴は随分深くなっていた。
穴の外からシャベルを突き立てるには些か不便だ。しかしこの蒸し暑い気候の中で狭い穴の中に入るというのは、なかなか気が進まない行為で、俺は知らず知らずの内に溜め息を吐いて地面に座り込んでいた。空はうっすら茜色に色づいていて、時間の経過を俺に知らせる。けれどまだ帰れない。この穴を掘らなければ、俺は帰れない。
「もう夕方になっちゃったよ、シズちゃん」
くすくすと臨也が笑う。
木の根に腰を下ろした臨也と、地面に座り込んだ俺の視線の高さはほぼ同じだった。汗でぐっしょりになっている俺とは対照的に、やはり臨也は汗ひとつ掻かないまま、楽しそうに身体を揺らしてコートの裾を汚す。この男の格好はいつだって季節を感じさせないが、この男曰わく、同じく一年中バーテン服を身に付けている俺も季節感は皆無らしい。しかし俺は今日はいつものバーテン服ではなく、Tシャツとジーンズという、至って普通の格好だ。この場においては、見ているだけで暑苦しくなるような黒コートを纏い、そのくせ暑さを感じさせない涼しげな表情を汗ひとつ掻いていない顔に湛えている、臨也だけが異質だった。シャベルを置いてただ地べたに座っているだけでも、俺のこめかみや髪の先から伝い落ちる汗は止まらないというのに。
やがて、空気を震わす大音量の蝉の鳴き声に、時折ひぐらしの声が混じりはじめた。その音に重ねるように、大しておおきくもないのによく通る臨也の声が「ねえ」と言葉を紡ぐ。
「それ、いつまで掘るの」
ほったらかしになっている穴と正面にいる俺を交互に見つめて、まるで歌うような、愉快そうな声色で臨也が問いかける。機嫌の良さそうな声だった。俺は素っ気なく答える。
「さあな」
「どこまで掘るの」
「……さあな」
にべもない俺の応答に、臨也は肩を竦めてふうと溜め息を吐いた。伏せられた瞳に合わせて、長い睫毛が白い頬に陰を作る。
「終わりの見えない労働ほど、神経を削るものはないよねえ」
かわいそうに、と微塵もそう思ってはいないであろう表情から告げられた言葉に、「そう思うなら手前も手伝えよ」と八つ当たり混じりに返す。反射的な、特に意味のない投げかけだった。冗談というわけではなかったが(そもそも俺とこの男は気軽に冗談を交わすような仲ではない)、少なくとも本気で手助けを期待した言葉ではなかった、それに、あは、と臨也が笑う。
「それは無理だよ、シズちゃん」
なんてことのない返事に、臨也の瞳を見つめ返す。伏し目がちだった柘榴の双眸を弓なりに歪めた臨也は、うれしくて溜まらないとばかりに俺を見つめて、だって、と笑う。
「だって、」
こうして集まるのは高校を卒業して以来だね、新羅はぼんやりと赤く腫れた目を柔和にしてそう薄く笑った。それが泣いたからなのか眠っていないからなのかはわからなかったが、どこか元気がないことだけはわかった。ちがう。どこか、なんて卑怯な言い回しだ。本当はそれが何故なのかくらいわかっている。門田がぐっと口を噤んで、耐えるように足元に視線を落としている理由も、わかっている。新羅はなにか言葉を探している素振りだったが、次第に諦めたように俯いた。俺もなにも言わなかった。
俺たちが来神高校を卒業して一年が経っていた。新羅の言う通り、個別に顔を合わせることはあれど、こうして揃うのは卒業式以来だった。
だが、揃う、という言葉をあてがうのは、ひどく奇妙な気分だった。本当はひとり足りない。きっとそれをわかった上で新羅もそう形容している。
「前の日にね、電話があったんだ」
俺と門田の視線が一気に新羅へと傾けられた。それに少したじろいだように服の袖をさすりながら、新羅は「セルティへ依頼していた仕事を、キャンセルする内容だったんだけれど」と申し訳なさそうに言った。まるで自分になんらかの非があるのだと自責するような響きだった。
「いつも通りの様子だった。でも、臨也が依頼をキャンセルするなんてはじめてだった。だから、」
「……もしかしたら、自分でもわかっていたのかもしれないな」
新羅の言葉尻を拾い上げて、門田は静かな口調で言う。俺はなにも言わない。再び訪れた沈黙の合間を縫って、蝉の鳴き声が響く。屋内に居るにも関わらず、生理的に浮かんだ汗が顎を伝い、ぽたりと落ちた。日焼けした畳に斑点が描かれるのを俺は茫然と見つめる。自分の身長分離れたそこに浮かぶ模様も、門田の声も、蝉の鳴き声も、なにもかもが遠くの出来事のように間接的に脳を揺さぶる。だからうまく飲み込めなかった。
「あいつは」。言葉に詰まった新羅となにも口にしようとしない俺の代わりに、俯いた門田が続ける。
「あいつは、自分がもうすぐ殺されることを、」
あらかじめ、わかっていたのかもな。
囁くような門田の声を掻き消すように、蝉が一層大きな鳴き声をあげた。
臨也の遺体を最初に見つけたのは、矢霧という秘書だった。
朝いつも通りに事務所に出勤した彼女は、普段の定位置であるデスクに居ない臨也を訝しみ、真っ先に奴の自宅スペースにある寝室へと向かった。ノックをする。しかし返事はない。引き返してキッチン、リビング、バスルームなどを徘徊するが、臨也の姿はどこにもない。出掛けたのか、と彼女は結論付け、普段通りあらかじめ指示されていた仕事に取り掛かった。そうこうしている内に正午になり、彼女は昼食を作ろうとキッチンへ向かった。しかし冷蔵庫の中にはろくな食材が入っておらず、彼女は万が一すれ違いになった時のことを考え、臨也に買い物に出るという旨を伝えるために電話を掛けることにした。朝、仕事に取り掛かる前にも事務所から一度臨也に電話を掛けたが繋がらなかったので、今回も出ないだろうとは思っていた。留守録に残しておけばいいだろうと考えつつ、玄関へと向かいながら臨也の番号を呼び出す。しかしコールボタンを押したところで、玄関に臨也の靴があることに気がついた。なんだ、居るのか。溜め息を吐いて彼女は元来た廊下を引き返す。臨也が居るのなら直接言えばいいし、なにより雇用主の怠慢を咎めなければならない。臨也がマンション内に居るのならば、それは、まだノックしたまま扉を空けていない寝室に違いなかった。
ノックをしても起きなかったのは今朝実証済みだったので、コール音を鳴らしている携帯はそのままにして、寝室へと向かう。案の定、寝室からは臨也の携帯の着信音が聞こえた。近づくごとにその音は大きくなっていく。寝ている間に寝室に入ると機嫌を損ねる男なので、彼女は携帯で呼び掛けながら臨也が起きるのを待つ。しかし携帯の着信音は鳴り止まない。寝室の扉の前で彼女は眉を顰める。
ぶつりと着信音が止んだ。寝室は今朝と同じようにしんと静まり返る。彼女が電源ボタンを押して通信を切ったからだ。直接起こすしかないようだと、彼女はドアノブに手を掛けた。届いていないとはわかっているが、一応声を掛ける。「入るわよ」。がちゃり。そして、扉を開けた。空蝉 前
20100818~20100828