そういえばもうお昼の時間だよね。
そう言って臨也が立ち寄ったのは小さなコンビニだった。
バスを降りてから更に半時間ほどが経っていて、その間に俺がわかったのは、池袋の喧騒からは考えられないような静かな街並みからして恐らくここはもう東京ではないか、東京の端の端ぐらいだろうということだった。それだけだ。特に役にも立たない情報に過ぎない。
自動ドアをくぐれば、レジで雑誌を読んでいた店員らしき男が顔を上げ無愛想な声で「いらっしゃいませ」と呟き、また視線を雑誌へと戻した。どうやら完全にやる気がないらしい。店内には俺たち以外に客はなく、スピーカーからは少し前に耳にしたような気がする女性アーティストの歌が流れている。
とりあえずパンを数個(あまり見たことがない種類だった)と紙パックの牛乳(本当は瓶がよかったがそこまで高望みはすまい)を手にレジへと向かう。あからさまに面倒くさそうな様子でレジ打ちをする店員に金を渡し(バス賃は払えなかったがこれくらいの金はある)、乱雑に中身が詰められた袋を受け取る。
後ろを振り向けば、紅茶のペットボトルとカロリーメイトを持った臨也が興味深そうに店内を見渡している。およそ高校生男子の昼食とは言い難いそれに眉を寄せ、俺は手近にあったおにぎりを二つ適当に掴んで臨也に差し出し、目を丸くしながらもそれを受け取ったのを確認して一足先にコンビニを後にする。ちらりと店内を振り返れば、臨也は、てっきり棚に戻されるかと思っていたそれらをそのままレジに差し出して清算をしていた。
「紅茶とおにぎりの組み合わせってどうなの?」
「……るっせえ」
「しかもこれ、……なに? キムチ納豆おにぎりと、こっちは……甘辛ハチミツきんぴらごぼうおにぎり? 斬新過ぎて逆に一昔前とかに流行ってそうな感じだよね」
文句を言う割には楽しそうに包みを開く臨也を、そっと眺める。
いつの間にか俺と臨也は横に並んで歩いていた。甘辛ハチミツきんぴらごぼうおにぎりをとりあえず一口かじって沈黙している臨也のつむじが見える。
本当にこれはなんだろうと思う。
あの、平和島静雄と折原臨也が、こうして並んで飯を食いながら歩いているなんて。
これは本格的に地球滅亡の危機が迫っているのかもしれないと、小さく身震いした。そんな俺を臨也が顰めっ面で見上げている。けれどその眉間に皺が寄っているのは、なにも俺を訝しんでいるからだけではないのだろう。
「……美味いか? それ」
「すごく美味しいよ。人類の画期的発明とも呼ぶべき、正にこれからのおにぎり界のホープだね。シズちゃんも食べてみる?」
「いや、いい」
「……けっ、死ね甘党ヤンキー」
「手前が死ね、ノミ蟲」
そんな会話を交わしながらも、俺たちの間には拳もナイフも飛び交わない。
俺は紙パックの牛乳の封を開けて、ストローを挿す。口に含んだそれは、少しぬるくなっていた。
「あ、」
本日三度目のそれだった。
俺が四つ目のパンを食べ終えたところで臨也はそう呟き、なにかを見つけたのだろう、小走りになってトントンと駆けて行く。再びその後ろ姿を追う形になりながら、俺はゆったりとした足取りで歩を進めた。
臨也の背中が少しずつ小さくなっていく。
結局辿り着いた場所は、なんてことのない。だだっ広い海だった。
シーズンではない、しかもこんな真っ昼間から砂浜を歩く馬鹿はもちろん俺たちふたりしかおらず、それどころか、地域住民の手入れが行き届いているのだろう、周囲にはごみひとつ見当たらなかった。なまじ広いだけに、それがひどく寂しいもののようにさえ感じた。
臨也はここに来たかったのだろうか。授業を不意に抜け出して、短くはない時間をかけて。臨也は、ここに来たかったのだろうか。
スニーカーに砂が入るのに舌打ちをしていると、数歩先には臨也の鞄とスニーカーと靴下が捨てられていた。更にその数歩先では、臨也が素足で砂の上を歩いている。その足の裏が不規則で曖昧な足跡をいたずらに残すが、まだらな砂の盛り上がりや凹みは、すぐにそれとわからなくなった。
もちろんそれを拾ってやることなどせず、ぽつんと置き去りにされたそれらの脇をすり抜ける。
「……こんなとこあったんだな」
情報収集が得意で趣味だというこいつが、またその関連で知った穴場かなにかなのだろう。そんな意味を込めての言葉だった。
しかし臨也はそんな俺の言葉に同意と感嘆を込めた声で頷いた。
「本当にね。思ったよりいい場所が見つかってよかったよ」
「お前、知っててここに来たんじゃねえのか」
「まさか、」
見たことも聞いたこともない土地だよ、と臨也が笑う。潮風に煽られて短い前髪が翻り、丸い額が晒されている。
「とりあえずどこか海に行きたかったんだけど、いやあ、無事辿り着いてよかったよ。とりあえずバスから海が見える場所を探して、適当に歩いてたんだけど、本当に着いちゃうもんなんだね」
「……それはあれか、最悪の場合、どこにも辿り着けないまま迷子になってたって可能性も、」
「少年は冒険心を忘れちゃいけない生き物だよ、シズちゃん」
おどけたようにそうあっさりと肯定され、俺は随分と久しぶりにこの男を殴りたくなった。
まさかとは思っていたが、臨也は突然ズボンの裾を膝下まで捲くし上げたかと思うと、そのまま波打ち際に走って行ってしまった。果たして奴がそんなキャラだったのかどうかは犬猿の仲である俺には不明だが、今日の奴は明らかにどこかおかしいので(普段からおかしいが今日は特に輪をかけて、という意味だ)、そういうことにしておく。
さすがにそこまで付き合う気にはなれず、俺は波が届かない場所に立ってぼんやりとその姿を眺める。
ばしゃりと塩水が跳ねて、しかし臨也はすぐに首を傾げた。
「……シズちゃん、」
「なんだよ」
「水冷たい。飽きた」
「………」
ばかだこいつ。
そうあからさまに思いながらも言葉にしなかった俺は、ひょっとしていい奴なのかもしれない。そんなことを思いながら溜め息を吐く。
臨也はつまらなさそうに鼻を鳴らしながらこちらに歩いてこようとして、はたと立ち止まった。ひたひたと水の浅いところで足踏みをしながら、眉根を寄せる。
「シズちゃん、タオル持ってない?」
「あ? 持ってるわけねえだろ」
「じゃあハンカチ」
「俺は女子か」
憮然として答える俺に、臨也は一瞬前までのつまらなさそうな表情を一変させてけらけらと笑う。
良くも悪くもころころと表情が変わる奴だと思った。しかしその一瞬後には、いや、ころころなどという可愛らしい表現が似合う奴ではないかと思い直す。
「あー、そういうの男女差別って言うんだよ。ていうか別に男が持っててもおかしくないでしょ、」
「じゃあ手前は持ってんのか」
「うん。鞄に入ってるからさ、取ってきてくれない?」
濡れたままだと砂がついちゃうから、と臨也が片足を上げてバランスを取りながら笑う。そのまま倒れて濡れ鼠になってしまえと念を送るが、無駄に器用なこいつがそんなへまをする筈もなかった。
俺は後ろを振り返り、離れた場所にある臨也の鞄を数秒見つめてから、波打ち際ぎりぎりまで踏み込む。そして臨也の襟首を引っ付かんで、ちょうど米俵でも担ぐようにその身体を肩に担いだ。結局、甘辛ハチミツきんぴらごぼうおにぎりを何とか食べ切って、あとのキムチ納豆おにぎりとカロリーメイトには手を付けなかった身体は、見た目通りひどく軽い。
そのままテトラポットのある方向──臨也の鞄やらスニーカーやらが捨て置かれている方向とは逆方向だ──に向かって歩く。人ひとり分の重みが増え、先ほどよりも深く足が砂に沈む。どんどん砂が入り込んでくる感触に、これは一回靴を脱がなければならないなと思った。
臨也は暴れることも喚くこともしなかったが、恥ずかしいのか悔しいのか、猫のようにガリガリと爪で背中を引っ掻いてくる。布越しのそれは少しくすぐったかったが、ナイフを突き立てられるよりはマシだと考えることにして、構わずテトラポットを目指した。
「……おら、」
折れそうな腰に手を添え、テトラポットの上に臨也の身体を降ろし、足に砂が付かないように座らせる。すると少しむくれたような顔があって、俺は思わず笑ってしまった。
「……海に放り投げられるかと思った」
「ああ、その手があったか」
惜しいことをしたな、と半ば本気で呟く俺に、臨也が肩を竦める。
「ていうか、俺鞄取ってきてって頼んだんだけど」
「誰が手前の頼みなんざ聞くか。ちょこまかされても鬱陶しいから、せめて乾くまではそこで大人しく座ってろ」
「……ふん、シズちゃんのくせに生意気」
早く乾かそうとしているのか濡れた足をぶらぶらと揺らす臨也に、手前は小学生かと言おうとして、そういえば数時間前にもそんな言葉を飲み込んだなと思い出す。臨也はまた、バス停でそうしていたように、黙って空を見上げ始めた。
バスの中でもやたらと空ばかり見ているなとは思っていたが、あれは海を探していたのだなと納得する。いつもはあれほど狡猾で計算高い折原臨也にしては、随分無計画で行き当たりばったりだ。スリルは楽しむがあまりリスクを好まないこいつが、そうまでして何がしたかったのかと言うと、「とりあえずどこか海に行きたかった」ときた。
らしくないな、と思う。
臨也も、そんな臨也にのこのこと付いてきた俺も。
そんな風に考えていると、今更この沈黙が何だか耐え難いもののように思えてきて、俺はもごもごと口を開いた。
「……乾いたらとりあえず荷物取りに行けよ。まあ、誰も盗む奴なんざいねえだろうが、」
「はいはい。別に盗られて困るもんもないけどね。……あ、靴は盗られたらさすがに困るかな?」
あはは、と笑って、臨也が視線を空から俺に戻す。
足はまだ乾いていない。
「……ね、シズちゃん。ここで君にひとつ、絶望的なお知らせをしようか」
「ああ?」
もったいぶるような口調に顔を顰める。
臨也はまるで邪気のない笑みで(それが逆に恐ろしい)、すっと俺の背後を指した。その軌道の先には臨也の荷物以外なにもない。この海で、俺と臨也は本当にふたりきりなのだと不意に思った。
「俺の今日の所持金は諭吉さん一枚でね。ああ、バス賃払った時のあれね、覚えてるでしょ。そう、あれ。で、その残りで俺は昼食として、最近お気に入りの紅茶とカロリーメイト、それからシズちゃんチョイスのおにぎりをふたつ予定外に購入したわけだ。俺はあの素晴らしい味を是非とも池袋にも広めたいと深く思ったね、貴重な体験をありがとう。───でさ、時にシズちゃん。コンビニには大体レジのところに募金箱が置かれてるのを知っているかな? あれ、配置が絶妙だよね。少額のおつりが返ってきた時なんかはさ、ついつい入れちゃうよね、うんうん、わかるよ、わかる」
いままで比較的おとなしかった分を取り戻すように憎たらしい口調で一気にそうまくし立てた臨也のその言葉に、俺は嫌な予感しかしなかった。
その答え合わせをするように、臨也が目を細める。
「だからさ、俺もついつい貢献しちゃったんだよねえ」
「……いくらだ、」
大体予想はついているものの、若干上擦ってしまった声でそう問いかければ、臨也は、にんまりと口を歪めて。
「財布に入ってた分全部」
「………」
正直、なんと返すべきか困ってしまった。
とりあえず俺たちは自力で帰れる手段を無くしてしまったらしい、ということだけははっきりと認識する。それも、この男の気まぐれとしか言いようがない行動によって。
しかし、情けないことに帰りの運賃や方角は臨也に任すしかない俺が、果たしてそれに文句を言ったり怒ったりしていい立場なのだろうか。
少しの間悩んでから、俺は恐る恐る問いかける。
「……どうすんだ、その……帰りは」
「少なくとも交通機関は使えないね。それと俺は当てずっぽうでここまで歩いてきたから、どこでバスを降りたのかすら覚えてないよ。ここはまったく知らない土地だからね」
「………」
「まだコンビニがあった辺りにはちょっとは人影もあったけど、この海に近づくにつれてそれも減ってきたし、見たところ民家も見当たらない。得意の情報収集でこの苦境を乗り越えたいところだけど、俺今日は家に携帯忘れてきちゃったんだよね」
「………」
「もしシズちゃんの携帯貸してもらえるなら、それでなんとか出来るかもだけど」
促すような視線に素直に従うのは何だか癪だったが、他人ごとではないので制服のポケットから携帯電話を取り出す。
しかし俺は開いたそれをすぐに閉じ、乱雑にポケットに戻して、溜め息を吐きながら首を横に振った。
「……電池切れだ」
「ありゃ、残念」
さほど残念ではなさそうにそう言って臨也が肩を揺らした。乾いたかどうかを試しているのか、男にしては白い足の指先が、砂浜の表面を撫でている。
「携帯電話の普及が激しいこの時代、公衆電話は絶滅危惧種だからね。誰かに連絡も取れない」
まだ陽は高く、押しては返す波は日光を反射して煌めいている。
足が完全に乾いたことを確認した臨也は、砂浜に降り、事も無げに言う。
「どこにも帰れなくなっちゃったねえ、シズちゃん」
俺の脇を通り過ぎて、臨也は軽い足取りで荷物を回収しに行く。遅れて、俺もまたその三歩後ろをついて歩く。
鞄の側にしゃがみ込んだ臨也は、その側に立ったままの俺を見上げ「もうどこにも帰れない」ともう一度言って、仰向けに倒れた。
俺もまたその隣に腰を降ろし、そういえば砂を取り除き忘れていたことを思い出してスニーカーを脱ぐ。そして逆さまにしたそれからパラパラと落ちる砂を見つめながら、俺は、このまま帰らなければ幽は心配するだろうかと、そんなことを考える。
ああ、けれど。
『もうどこにも帰れない』
けれど、俺は、臨也のその言葉が嘘だと知っている。
いくら知らない土地だからと言って、無駄に記憶力だけはいいこいつが、一度通った道を簡単に忘れるわけがないのだ。この海を後にしたなら、臨也は一度も間違わずにあのコンビニにだってバスを降りた場所にだって戻れる。きっと公衆電話だとか交番だとか、そんなものだってちょっと探せばすぐに見つかってしまう。それにいくら金がないとは言っても、口が上手いこの男のことだ、言葉ひとつで車を捕まえそのまままっすぐに自分の望む場所に連れて行かせる、ぐらいのことは簡単にやってのけるかもしれない。
もしかしたら、募金箱に有り金を全て突っ込んだというのも、携帯電話を家に忘れてきたというのも、嘘なのかもしれない。
そこまではわからないが、でも、こいつが言った「帰れない」という言葉が嘘なのだということだけは知っている。いくら俺が単細胞と言われていようと、それくらいのことは少し考えればわかるに決まっている。そして、臨也はどうせそこまで見透かしているのだ。
帰れないなんて嘘だ。
数時間後にはもう、俺たちはそれぞれの家に帰って、それぞれいつも通りの生活を送っている。
こんなどことも知れない場所までやって来て、いつもの自分たちらしかぬやり取りを交わしたことなどあっさりと忘れて。
俺たちは日常に帰る。
「……帰れないなら、」
「うん?」
「俺は胸くそ悪い手前とここでずっと過ごさなきゃなんねえってことか」
「そうなるかもね。この広い海に、俺とシズちゃんのふたりだけだ。吐き気がするね」
そんな風に、そんな言葉でたのしそうに笑うなよと叫びたくなる。
知っているくせに、と、理不尽に責め立てたくなる。
俺がお前の言葉が嘘だと知っているように、お前もまた俺の嘘を知っているんだろう、と。
俺は臨也に気付かれないようにポケットの膨らみをそっと撫でる。そこには今朝充電したばかりの携帯電話が沈黙していて、その無機質な感触が無言で自分を叱責しているような錯覚に陥り、途方もない自己嫌悪に襲われる。
身体からふっと力を抜いて臨也と同じように仰向けに倒れれば、陽の光であたためられた砂が生ぬるく、まるで人肌のようだと思った。
ちらりと隣に視線を遣れば、砂を髪に絡ませた臨也が薄い瞼を下ろしている。もう彼は空を見上げてはいない。
そしてそんな臨也を見つめながら、俺は、意味のない、もしもの話について考える。
もしもここが東京どころか日本ですらない、誰も知らないようなどこかの孤島だったなら。
それがもう絶対にどこにも行けないような閉鎖的な空間で、本当にあらゆる退路と手段が断たれてしまっていたのなら。
それでもまだ臨也が、こうして、隣で「もうどこにも帰れないね」と、笑っていてくれるのなら。
俺は、きっと。
どこにも行けない 後
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