来神時代で静→臨っぽいです
青春ラブコメを目指したのにどうしてこうなった










「あ、」

教師の声など無視した授業中のざわめきの中で、その小さな呟きを拾ったのはほとんど奇跡だった。
忌々しいことに俺の斜め前の席に座っている臨也は、黒板に板書された文字をぼんやりと眺めながら、そのままなにかを考えるように小首を傾げている。口は「あ、」と呟いたまま薄く半開きになっていて、そのまま数秒間沈黙していたかと思えば、明らかに板書の文章とは異なった文字の羅列で埋まっているノートを閉じ、なにを思ったか急に椅子から立ち上がった。
それにぎょっとしたのは俺だけではなく、近くに座っていた奴らも訝しげに臨也を見上げていた。その視線や「折原?」という呼びかけなど意に介さないまま、奴は極々自然な足取りで教室を出て行ってしまう。授業終了まではまだ半時間ほど残っているにも関わらず、だ。「あ、」という呟きからほんの数十秒間の出来事だった。臨也がいなくなったことに、教科書と黒板に交互に視線を遣っている初老の教師は気づかない。
最初の内はそんな臨也の奇怪な行動になにやら囁き合ったり首を傾げていたクラスメートたちも、次第に各々の作業に戻っていく。雑談する奴、携帯をいじってる奴、真面目に授業を受けてる奴。後ろを振り返れば、少し離れた席にいる新羅と目が合った。どうやら新羅も臨也の一連の行動を見ていたらしく、呆れたような顔で肩を竦めている。
前に向き直れば臨也の机には閉じられたノートと筆記用具が散らばっている。便所かとも思ったが、教室から出て行った臨也が向かった方向には階段しかない。鞄はそのままだし、授業に飽きて屋上にでもサボリに行ったのだろうか。
そこまで考えて、はっとする。

(……なんで俺があのノミ蟲のことなんざ考えなきゃなんねえんだ、)

別にあいつがどこで何をしようが俺には関係ない。それに俺は本来は真面目に授業を受けていたのだ。考え事をしている間に遅れた分を取り戻そうと、シャーペンをノートに滑らせる。
だが、これからサボりに行くにしてはどこか浮き足立った、なにか新しい遊びを思いついた子どものような、あの呟きが耳に残って離れない。

「……チッ」

舌打ちをしながらふと窓を見やる。
すると、見覚えがありすぎる後ろ姿がふらふらと校門へと向かっているではないか。

「……………」

臨也の机に視線を戻す。
ろくに片付けもされていない机の上の筆記用具。フックにかけられたままの鞄。───ああ、うぜえ。
俺は書きかけのノートを乱暴に閉じて、筆記用具ごと鞄に詰め込む。そして数分前に臨也がそうしたように、席を立ち上がって教室を出て行く。ただし、自分の分と奴の分の鞄を持って。
教室を出る直前に目が合った新羅は、俺を見て笑っていた。それに肩を竦めて、階段へと向かう。教師はまたひとり生徒が抜け出したことには気づかなかったのか、しゃがれた声とチョークが黒板を叩く音が止むことはなかった。





臨也はすぐに見つかった。
校門のすぐ手前にあるバス停のベンチにひとり座って、ぼんやりと空を眺めている。その視線は動かないままだが、俺がいることには気づいたのだろう、奴は頭上を仰いだままゆるく唇の端を持ち上げた。

「や、シズちゃん。いけないなあ。授業を抜け出して、こんなところで何をしてるのかな?」
「……てめえこそ、」
「俺? 俺はね、突然降って湧いた素晴らしくも甘く魅力的な欲求に忠実に従っている真っ最中だよ」
「ああ?」

まったく何を言っているのか理解出来なかった。
眉を顰めて低く唸った俺に、臨也はようやく視線を向ける。柘榴の色をした双眸はちょうど童話に出てくる猫のような三日月だ。にんまり、とでも形容するのがしっくりくる笑みを浮かべて、臨也が問いかける。

「……で? シズちゃんは? まさか、わざわざ授業を抜け出してまで俺を追い掛けてきて、喧嘩しにきたわけじゃないでしょ」

君は本当に行動が読めないから嫌いだよ。
拗ねたような口調で、けれど表情は相変わらずの笑みをかたどったまま、臨也は足をブラブラと揺らす。小学生か手前は。そう言ってやろうとして、あまりのくだらなさに口を噤んだ。

何をしにきたと問われても、正直困る。
そんなものは俺が知りたい。こんな中途半端に授業を抜け出して、わざわざ大嫌いなこいつを追い掛けてきた理由なんて。
ただ、きっと、そうだ。今日はたまたま運が悪かった。それだけのことなのだと思う。
本来なら、周囲の喧騒に掻き消されて聞こえる筈もなかったこいつの呟きを拾ってしまった。そのせいだ。運が悪かったとしか言いようがない。
俺は臨也の問いかけには答えず、黙って奴の鞄を差し出した。

「……なに?」
「鞄。忘れてただろ」
「うん? あー、うん、ああ……。……ん? ありが、とう?」
「なんで疑問系なんだよ、」

散々頭を捻りながらおずおずと告げられた礼に片眉を吊り上げながら、ひとり分のスペースを空けて臨也の隣に座る。
そんな俺と自分の鞄を交互に見つめながら、臨也はしばらく警戒する猫のようにこちらに探りを入れていたが、不意に諦めたようにまたぼんやりと空を見上げ始めた。つられるようにして、俺も宙を仰ぐ。
そこには雲ひとつない快晴の青空が広がっていた。





それから互いに黙ったまま、数分後に到着したバスにふたりして乗り込んだ。平日の昼前であるせいか、俺たち以外には老人が数人座っているだけで車内は酷く閑散としていた。誰もが無言のまま、ガスの排泄音を轟かせてバスが発進する。
このバスがどこに向かうものなのか、臨也がこれに乗ってどこに向かうつもりなのか、俺にはまったくわからない。
当たり前のように後についてバスに乗った俺に、なにを言うでもなく好きにさせていた臨也は、相変わらずぼんやりと窓の外を眺めている。いつもはその口が閉じている瞬間があるのかどうかすら怪しいくらいにうるさいこの男が、今日は奇妙に静かだ。普段からこうであればまだマシなものをと思う反面、落ち着かないのもまた事実だった。
ただ、空いている場所ならいくらでもあるにも関わらず、隣合って座った互いの肩が、バスの揺れに合わせて時折擦れ合うのがすこしおかしかった。





「あ、」

一時間ほど経った頃だった。
授業中に聞こえた、あの呟きが不意にまた臨也の唇から零れる。今度はより明瞭に、はっきりと。
臨也が降車ボタンを押し、それから間もなくしてバスが停車する。料金を払う段階になって、今日は持ち合わせが少なかったことをふと思い出す。結構な時間走行していたわけなのだから、値段もそれなりの筈だ。顔を渋くした俺とその理由に気づいた臨也が、にやりと笑って、指に挟んだ万札をひらひらと揺らす。
ああ、憎たらしい。
しかし車内で殴りかかるわけにもいかず、さてどうしたものかと頭を捻らせている内に、臨也は飄々とその万札を両替して清算を済ませていた。ふたり分のバス賃だった。
まるで自然な流れで行われたその一連の動作に呆然としていると、下から臨也の声がした。

「なにやってんの、シズちゃん。早く降りないと運転手さんに迷惑だよ」

いつの間にか下車していた臨也のその言葉に、慌ててバスから降りる。
その直後に空気が抜けるような音を立てて扉が閉まり、排泄音と共にバスが走り去っていく。その方向とは逆向きに、臨也は歩き出した。
その背を追いながら、あー、と唸る。

「今度、ちゃんと返すから。まあ、その、……ありがと、よ?」
「なんで疑問系なの、」

おずおずと礼を口にする俺に、からからと、臨也がおかしそうに笑う。仕方ないから俺もつられて小さく笑った。俺とこいつが喧嘩もせずに笑い合っているなんて、明日は隕石でも落ちてくるんじゃないかと、少しだけ真面目にぞっとする。
ひょこひょことふざけたような足取りで進む臨也の後ろを歩きながら、ふと周囲を見渡した俺は思わず足を止めた。

「……臨也、」
「なに?」
「ここ、どこだ?」

見たことのない街並みや景色に戸惑いながらそう問いかける俺に、しかし、臨也はただにんまりと笑うだけだった。





どこにも行けない 前
20100504