かつてない電波文かつ、死ネタのような、そうでないようなものを含みます
苦手な方はご注意くださいませ










こんな夢をみた。

錆びた鉄の、噎せ返るようなざらついたにおいがしたのだった。
玄関の扉を開いた手が一瞬ドアノブを引きちぎらんばかりに力を込めたが、なんとかそれをやり過ごし、ドアノブを撫でるようにゆっくりと離す。空は既に星を散りばめた濃紺だったが、背中から射す月の光で薄ぼんやりと狭い玄関が照らし出されていた。そこに、仰向けになった男が倒れていた。いつになく真っ黒な姿に眉を顰め、引きずり出してやろうと脚を掴めば、ずるりとてのひらが滑り力なく脚が床に落ちた。開いて見下ろしたてのひらは赤黒く湿っている。試しに舐めてみれば、あの、錆びた鉄の味がした。慣れない味に眉根に皺を寄せていると、吐息のような呻きと一緒に、ふふっという笑い声が聞こえた。

「……こんばんは、××ちゃん。今日は月が×××だね、」

男の声は不明瞭でひどく聞き取り難く、ところどころ聞こえない部分があった。玄関の床に手をつき、男の口元に耳を寄せる。ふふっとまた笑い声が聞こえた。そばで耳を澄ますと、喉になにかをつかえたような不自然に濁った音だった。

「こんばんは、って言ったんだよ」

聞こえなかったのはそこではなかったのだが、わざわざ問い返すのも馬鹿らしい気がして口を噤んだ。どうせ大したことではないのだろう、繰り返された挨拶には返事を寄越さず、男の口腔内に指を突き入れ、喉の奥に詰まっていた血を掻き出す。はじめて触れた他人の口の中は、なんとも形容し難い温度と感触だった。内側は表面の人肌よりもずっと暴力的に熱くて、やわらかい。自分のそれで既に知っているはずのことに、ぞわりと背筋になにかが這い上がる感覚があった。
指を引き抜けば、ごぼっ、と男が詰まっていた血を吐き出し、激しく咳き込んだ。背が仰け反って苦しそうにひゅうひゅうと空気が抜けるような呼吸音を続けていたが、やがて落ち着き、長く細い息を吐き出した。ひどい声に変わりはなかったが、幾分ましになった声で「ありがとう」と男がくたりと力なく笑ってみせたので、急に毒気を抜かれたような気分になってしまった。
玄関のドアは開け放したままで、もし誰かが部屋の前を通り過ぎれば、まず間違いなく殺人未遂の現行犯として自分は通報されるのだろうなとぼんやり想像した。冗談ではない。それでも、なぜか男を組み敷いたようなこの体勢を起こすことの方がよっぽど億劫である気がして、ただ男の血の気の失せた青白い顔を見下ろしていた。ふふ、また、男の唇が軽やかな笑い声に震えた。

「もう、死ぬよ」

とびきりの秘密を打ち明ける子どものような、それでいてなんでもないような口調で男は言った。男の唇と頬は境界がわからなくなるくらいに青白く、どくどくと脈の音が聞こえてきそうな流れ滴る赤黒い体液は、どうしようもなくとめどなかった。なるほど、これは死ぬのだろうなと納得してしまい、そうか、死ぬのかと呆然と呟いた。嘘のようにそっけなく、他人が口にしたような声色だった。男は気にした様子もなく、そうだよ、死ぬんだよ、こちらもまるで他人事のような口ぶりで微かに笑ってみせた。
それでも、こちらを見上げてくる煌々とした透き通るような唐紅の双眸は、男の暗く赤黒い液体よりもよっぽど静かに燃え盛っている鮮やかな色彩だったから、本当に死ぬのだろうかと疑問に思ってしまった。まさか死なないだろう、だいじょうぶなんだろう、そう口元から急いて溢れた拙い問いかけに、男は困ったように笑って、だって、死ぬんだよと答えた。仕方ないさ、ちいさな子どもに言い聞かせるように呟くものだから、たまらなくなって、お前、おれが見えているかと、その色のない頬に指を這わせて静謐な瞳をぐっと間近で覗き込んだ。水分を張った膜がゆらゆらと揺らめいていて、本当に燃えているようだった。一瞬きょとりとまばたきをしたかと思えば、男はおかしくてたまらないというように、くしゃりと笑ってみせた。見えているかって、ほら、そこに、映っているじゃあないか。当然のように言ってみせるものだから、なんだか自分の方がおかしなことを言っているような気がして、そろそろと男の頬から手を離した。離した瞬間には、はたして男の頬があたたかかったのか冷たかったのか、もうわからなくなってしまっていた。

「そういえば、昔のね、たしか、こんな話があったような気がするよ」

死んでしまった女を、百年待つ男の話さ。女はやがて、百年経って、うつくしい花となって男の元へと帰ってくる。そんな話だ。
男は記憶を辿るようにそう言うが、自分にしてみれば聞いたことのない話だったし、なによりあまりに途方のない夢のような話でもあった。まさかおれにお前を百年待てというのかと、そう問いかけようとしたこちらの唇を遮るように、男が静かに口を開いた。でも、おれはきみに待っていてほしくなんかないよ。おれはきみになにもしてほしくなんかない。
男は嘯くが、じゃあどうしてここにきたのだと尋ねれば、すっと表情を消して「どうしてだろう」と真っ白な視線でこちらを見つめてきた。あんまりにも未知のことのように言うものだから、ほとほと呆れてしまって、おれはもうなにも言うことができなかった。ただじっと考え込む男の、めずらしく気難しい顔を見つめていた。そうしている間にも、床についたおれのてのひらや膝には男の赤黒い体液が滲んでいき、まるで色が流れ出て行くように、男の顔は白さを増していった。男に言われるまでもなく、ああこれはもう死ぬのだなとわかってしまった。男が待ってほしくないと言うように、おれだって、男を待ちたくなんてなかった。だって男は百年経っても帰ってこない。何度日が昇って落ちても、それを数えても、男は自分のところに帰ってなどこない。
どうしてだろう、わからないよ。諦めたように男は呟き、そっと息を吐いた。いやだなあ。駄々をこねる子どものように、けれど静かな口調で男は言う。いやだなあ。わからないことがあるのって、いやだなあ。泣くのかもしれないと思ったが、男はまさか泣いてなんかいなかったし、ためしに眦に舌を這わせてみても、やっぱりそこには少しの塩辛さもなかった。男はくすぐったそうに身をよじって、犬みたいだね××ちゃん、と笑った。よく聞こえなかったと促しても、男はもう、その言葉を言い直してはくれなかった。

「もうすぐおれは死ぬけれど、おれが死んでも、きみは、なにもしないでおいてね」

泣いたり、待ったりしてはいけないよ。まして笑ったりなんてしたら、化けて出てやる。冗談めかした口調で言い、男はすっと漣が引くように瞼をおろした。鮮やかな眼球を覆う白くゆるやかな曲線は、それきりぴくりとも動かず、鼻先が触れるほどに顔を近づけても、男はもうなんの反応も示さなかった。男にはもうおれが見えていなかった。ためしに一度名を呼んでみても、閑散とした夜の空気に溶け込んだそれに返事はない。もう死んでいた。
しばらくの間、そうして男の死に顔を見下ろしていたが、やがて、どさりと男の隣に倒れ込んで仰向けになり、開け放したままの扉の向こうに広がる月を見上げた。服や髪にねっとりと男の赤黒い液体が染みついていくのを感じたが、あんなにも熱かった男の体内から出てきたくせに、もう冷たいばかりなのが不思議でならなかった。それがひたひたと自分の身体と床を縫い合わせていくようだと思ったが、身体を起こす気にはなれなかった。
男は泣くなと言ったが、まばたきをすれば一筋だけ涙が頬を伝った。かなしくなどないのに、重みを持ったそれはおれの耳へと滴り、髪に絡まって、そうして床に広がる男の赤の中へと埋没した。次にまばたきをしても涙は流れなかった。もう何もなくなってしまったかのように、がらんどうの心地だった。誰の呼吸も聞こえない夜が更けていく。やがて白んでいく空を見送っても、それを百年繰り返しても、男は帰ってはこない。



 *

 *

 *



ようやく追い詰めた行き止まりの路地裏にふたり分の荒い息遣いが響き、日に当たっていないひんやりとした空気が服を通して肌に触れる。まだ学生が学校で授業を受けているような時刻だったが、ここだけ夜風でも吹いているかのようだった。長時間走り回って体温の上がった身体にはちょうど心地良い。

「………池袋には来るなって、何遍言えば、わかるんだ? なあ、臨也くんよお……」
「だから、ただ仕事で来ただけだって、言ってるだろ? ……もう、帰るところだから、さ……見逃してよ、シズちゃん、」

かれこれ二時間ほど走り回っていたせいか、互いに発する言葉は途切れ途切れでひどく聞き取り難かった。一定の距離を保ったまましばらく向かい合っていれば、やがて息が整ってきた。臨也はまだ浅く肩を上下させている。
そういえば、いまはまだ仕事中なのだった。次の取り立て先に向かっていたところで目立つ黒コートを見かけ、考えるより先に身体が動いていた。そうして気がつけばもうこれだけ時間が経っていたらしい。数時間前まで一緒にいた気のいい上司の苦笑を思い浮かべ、彼に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
今日は調子でも悪いのか臨也の呼吸はまだ整っていないようだったが、待ってやる義理もないのでそのまま距離を詰める。臨也がそれに合わせて後ずさるが、すぐに背中がコンクリートの壁にぴったりと張りついてしまった。悪足掻きもいいところだ。それでも臨也の表情は気丈で、ここに来るまでに散々酷使されたために刃こぼれのしているナイフを突き出してきた。
薄暗い日陰で正面から覗いた臨也の双眸は、赤く煌々としていて、透き通るような冷たい色であるくせに、それでいて燃えているかのように苛烈でもあった。吸い寄せられるようにして頬に手を伸ばす。呼吸は落ち着いたようだが、うっすらと紅潮しているそこは平常の人肌の体温よりは熱く、人間の内側よりはぬるくてやさしい温度だった。臨也はなにも言わない。とん、とナイフが胸に突き立てられたが、いつもよりずっと弱々しい力だった。痛みすらない。
なあ、お前、俺のことが見えてるか。不意に、なぜだかそんな馬鹿のような問いかけが口をついて出た。臨也は一度すっと表情を消して、それから、笑った。おかしそうにくすくすと笑い、そうしてこちらに手を伸ばしてきた。ナイフはいつの間にか地面に落ちていた。

「見えているか、って。おかしなことを訊くね、シズちゃん」

俺のサングラスを取り、遮るもののなくなった視界で、臨也がぐっと背伸びをして顔を近づけてきた。湖面を揺らすように、赤い瞳が煌めいている。ねえ、ほら、そこに映っているだろう? 軽やかに笑い、ベストのポケットにサングラスを引っ掛けた、その腕を引いて胸元で抱き留めた。黒々とした髪に顔をうずめれば、かすかに汗のにおいがした。布越しに触れるどこもかしこも、頬と同じにあたたかく、身体に回した腕に力がこもった。けれど、抵抗もなければ、罵倒もからかいもなかった。臨也はされるがまま、じっと腕の中で沈黙している。

「……ずっと、わからないことがあったんだ」

どれくらいの間そうしていたのか、やがて俺の肩口に額を当てたまま、臨也が吐息のような声を漏らした。俺はそれが嫌で、百年、ずっとそのことを考えてた。まるで夢か途方もないことのようだったが、俺は臨也の言葉にじっと耳を傾けた。そして百年という時間がどれくらい長いものなのだろうかと想像してみたのだが、まるで果てのない宇宙のように、それは茫洋としていて曖昧だった。けれど或いはもう、既にそれを知っているような気もするのだった。
ねえ、と臨也が静かな呼吸で呟いた。それと一緒に、俺の背中に、まるで偶然を装うような何気なさで回された腕があった。肩に臨也の息が掛かり、なまあたたかいそれが触れた場所に、ぱたぱたと冷たいなにかが降った。きっと臨也はまばたきをしたのだろうと、そう思った。
ねえ、シズちゃん。わからないのだと、いつだったかそう泣いているように呟いた声が、水の混じった音で笑う。

「俺と、百年生きてよ」





百年の孤独
20110109

夏.目.漱.石さんの『夢.十.夜』を参考に書かせていただきました