静臨前提でまさかの津軽×臨也です

◎おおまかな設定:ある日突然池袋も新宿も情報屋の仕事も捨てて、田舎で隠居生活を送りはじめた臨也さんとそのお世話係的な津軽さん、ノミ蟲探索のため日本列島絶賛横断中の静雄さん










泣いているのかと問いかければ「泣いてない」と返し、しあわせかと問いかければ、「勿論しあわせさ」と笑う人だった。彼は呼吸をするように嘘を吐く人だった。けれどそのどれもがたわいもない、およそ責めることも出来ない些細なものばかりで、おれは嘘を嘘と知りながらいつもただ頷くだけだった。そしてそんな俺に、彼は目を細めて笑うのだ。君のそんなところが、俺はとても好きだよ。
彼は、呼吸をするように嘘を吐く人だった。

庭に花を植えたいと言ったのは俺だった。
彼が買い取った一軒家はとても古くて、廊下は板を踏むたびに鶯張りのような音を立てていたが、広さだけはまるで高級な日本家屋のようだった。はじめてこの家に越してきた時、まず俺と彼が行ったのは埃まみれになっていた膨大な数の部屋を掃除することで、丸一日かけてふたりで家の隅々を這い回ったものだった。その時に一匹の鼠を捕まえた。外で猫か鳥にでも襲われたのか、片方の耳が不自然に欠けていた。尻尾を摘んで彼の元に持って行けば、彼はびっくりしたような顔をして、それから「逃がしてあげな」と笑った。俺は言われた通り縁側にしゃがみ込み、庭へとその鼠を放してやった。それまで水中でもがくように手足をばたつかせていた鼠だったが、突然地面に放されて驚いたのか、一瞬硬直した後、慌てたように走って縁側の下に潜り込んでしまった。それを見送ってからふと庭先を見渡せば、そこはだだっ広い空き地のようだった。なまじ広いだけに何もないそこはひどく閑散としていて、俺は不意にこの大きすぎる家と、それに見合わない彼の少なすぎる手荷物を思い出して、急にもの悲しくなってしまった。俺の荷物は元々なかった。ずっと縁側でしゃがみ込んでいる俺を不思議に思ってか、どうしたの、と覗き込んできた彼に、俺は「庭に花を植えたい」と提案した。彼はしばらく何も言わなかった。怒らせてしまっただろうか、とそっと様子を窺えば、彼は笑っていた。「君が自分から何かをしたいと言ったのは、これが初めてだね」いけなかっただろうかと訊ねようとしたが、思いのほか彼がうれしそうに笑っていたので、俺はなにも言わず、それじゃあ明日一緒に種を買いに行こうかと言う彼に、ただこくりと頷いた。
次の日、俺たちは買ってきたさまざまな種類の花の種や苗を、また丸一日かけて庭いっぱいに植えた。

この家に彼とふたりで暮らすようになって、そろそろ一年が経とうとしていた。都会とは勝手が違うこの場所では最初はなにかと不慣れなことも多かったが、それにもすっかり慣れてしまっていた。ただ、慣れないそれさえ楽しんでいた節のある彼は、少しつまらなさそうだった。
ここに来てはじめての春が終わり、梅雨が明け、二度目の夏が巡って来ようとしていた。


「……おはよう、」
「おはよう」

彼のまだ眠そうなとろんとした瞳は、彼が昨日鍋で煮込んでいた苺ジャムの熟れた色を彷彿とさせ、今日の朝食はトーストにしようかと思いながらぼんやりと献立を考える。蛇口を捻ればホースから噴き出す水の勢いが弱まり、ちょろちょろと水を垂らすだけになった。種類や位置もろくに考えずに植えた花たちは庭に無造作に咲き誇り、少し不格好ながらも、あの寂しげだった庭を彩っていた。もう少し考えて植えればよかったねと彼は言ったが、その表情は満足そうなものだったことをよく覚えている。そして、次に種を植える時には気をつけないといけないなと言えば、一瞬くしゃりと泣きそうに顔を歪めて「そうだね」と答えたことも。
今しがた撒いたばかりの水が花びらから滴り、濡れた表面はきらきらと太陽の光を反射しておもちゃの宝石のように輝いている。この、朝の煌めく景色が俺は好きだった。瑞々しい草花の香りを吸いながら下駄を脱ぎ、少しばかり濡れた足をそのまま縁側へと乗せれば、それを咎めることもなく彼は「毎朝精が出るね」と言って、幾分高い位置にある俺の髪を撫でた。眼前に翳されている自身の頭上へと伸びる青白い腕は、血管が透けて見えていた。
出来るだけそっとその腕を引いて、朝食にしよう、と告げて台所へと向かう。彼は黙って頷き、後に続いた。ぺたぺた、ぎしぎし。素足で軋む廊下を踏み鳴らす音だけが、早朝の家内に響いていた。

―――君は、これから俺の世話係ね。
そう言って俺に役職を与えた彼だったが、食事を作るのも洗濯をするのも、掃除をするのも、ゴミ出しをすることでさえ、彼は均等に当番を振り分けた。俺が毎日必ず行っていることと言えば花の水やりぐらいで、この一年間、それだけは当番制ではなく完全に俺の仕事として与えられていた。
彼は頭が良く、聡明で、器用な人だった。家事が不得手なわけでもなければ、体調を崩しがちというわけでもない。彼に世話係というものが必要だとは思えなかったが、それでも彼には時折ひどく無防備で無頓着な瞬間があり、そうした時ばかりは、俺は自分の存在に安堵する。

「俺は半分でいいよ」
「駄目だ」

それが、例えばこんな時だ。
彼は要求をはねのけて食パンを二枚トースターに差し込んだ俺を、拗ねたように口を尖らせながら見上げてくる。だが、食べようと思えば食べられるのにそれを不精しているだけなのだということは知っているから、俺だって妥協などしてはやらない。トーストが焼き上がるまでの間に冷蔵庫で冷やしていた苺ジャムと、昨晩作っておいたポテトサラダ、卵を取り出し、ケトルで沸かしたお湯をインスタントのティーパックを入れたカップに注いで温めておいたフライパンに卵を割り入れる。本当は洋食よりも和食の方が好きなのだが、如何せん、和食はなかなかどうして作るのが難しいのだ。その点、彼は和食でも洋食でもなんでも美味しく作ってしまうので、俺はそろそろ本気で自分の役職というものについて見直したいと常々思っている。
フライパンに蓋をし、焼きあがったトーストを皿に乗せ、もう一枚取り出した皿の隅にポテトサラダを盛り付ける。色がついた紅茶のカップからティーパックを取り出し、目玉焼きをフライパンから皿に移す。出来た、と言って席につけば、彼は「ご苦労さま」と言って笑った。

「いただきます」
「いただきます」

向かい合って手を合わせる。
ひんやりとした瓶の蓋を開けると、密閉されていたそこから反動のように広がった甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。先日近所の人がくれた山盛りの苺を、とてもふたりでは食べきれないということで彼が苺ジャムにしたものだ。スプーンで掬ってトーストの上に乗せれば、熱に溶け込むようにどろりと焼き目のついた表面に広がっていった。

この田舎の町に住む人々は、みんな与えることが好きだった。畑の近くを通りかかればそのまま野菜を持たされることもあるし、留守中に家の前に果物が入ったビニール袋が置き去りにされていたと思えば、それが近隣の住人からのお裾分けだったことが次の日にわかったりもする。この間も、清潔な白のセーラー服に身を包んだ垢抜けない少女が、籠いっぱいに摘まれた苺を持って家を訪ねてきたばかりだった。たくさんとれたから、と俯いていた少女の頬は、彼女の襟から胸へと垂れたスカーフのように赤くなっていた。燦々と降り注ぐ日差しを受け、長い睫毛が頬に影を落としているのを上から見下ろす。
不意に、廊下の奥からぎしりと乾いた木目が擦れる音が聞こえた。彼の足音だ。
少女はなにかを探すように伏し目がちの丸い瞳を忙しなく辺りに巡らせていたが、奥から彼が出てきた途端、弾かれたように玄関を飛び出して行ってしまった。上下する薄い肩と、揺れる長いおさげが波のようだった。それもあっと言う間に見えなくなる。

『おやおや』

きし、とすぐ後ろで音がした。振り返れば彼が立っていて、その口元はにやにやとあまり良くない笑みを浮かべていたから、俺はげんなりとしながらも渡された籠と中身を見せる。また随分とたくさん貰ったね、彼の瞳は明らかなからかいの色を含んでいる。それにしても、と続ける声はどこか弾んでいた。

『今の女の子、顔、真っ赤だったね。かわいいなあ』
『……それは、』
『まったく、君も罪な男だよねえ』

きしし、と笑いながら彼が肩を小突いてくる。俺は言い返そうとして、しかしすぐに諦めて溜め息を吐き出した。
彼は頭が良く、そして聡明で器用だったが、時折どうしようもなく鈍感な人だった。





野ばらの庭 前
20100910

title by is