門臨で来神時代
※ほんのり静臨要素を含みます










ねえ別れようか。互いに背中を預け合う体勢で折原はそう囁いたから、門田はその表情がいかなものであったかを探ることは叶わなかった。だからなのかもしれない。唐突とも言えるその囁きに、つっかえることも躊躇うこともなく、ああ、と答えられたのは。そしてあっけなく彼の口唇の隙間からこぼれ落ち、空気を震わせたその声は、なににも遮られず、折原へとまっすぐに届いてしまった。すぐに彼がそれに頷いたのが触れ合った背中越しにわかって、それを身勝手に悲しいなどと思う。互いの視界が一致していなくとも、背中越しでも、布を隔てていても、折原の些細な挙動を逃すことはない。そこには距離はなく、確かに折原はそこにいる。それを確かめようとするように手探りで指先をさまよわせれば、容易く冷たく薄い皮膚に辿り着くことが出来た。安堵とも言い難い何かを噛み締めながら、門田は、その骨の出っ張りばかりが悪目立ちする手の甲を撫で、そっと包み込むように握った。折原は何の反応も示さなかった。握り返すことも突っぱねることもしない。今度こそそれに安堵して、門田は折原の手の腹を撫でる。いつもナイフを握っているせいか、少し凹凸のあるてのひらだった。けれど肉は薄く、ごつごつしているわけではなく、男らしくも女らしくもない、奇妙な手だった。彼はこんな手をしていただろうかと門田は思う。そんなことすら、いままで知りはしなかった。こんなにも近い距離で、折原はこんなにも遠かった。けれど、手を握るには充分な距離であったはずなのだ。それでも、口づけを交わすには門田と折原は遠く、遂にその距離を埋めることは叶わなかった。折原の手は門田の手を握り返しはしない。だから安心して彼は折原の手を撫でることが出来た。このちぐはぐで、誰にも似ていないてのひらを。なぜなら、もうじきにこの手が自分のものでなくなることを、門田はあらかじめ知っている。





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門田と折原はいわゆる恋人という関係であったわけだが、誰かにそのことを打ち明けることも、人前でそんな素振りを見せることも、彼らは一切しなかった。それはふたりきりであっても同じことで、門田と折原は、肌を重ね合わせることも、口づけを交わすことすらも一度として行わなかった。それが果たして恋人と呼べる間柄であったかどうかは不明だが、それでも、ただいつも背中だけを合わせて過ごす時間は確かにふたりだけの秘めやかなものであったのだ。門田は静かに本のページを捲り、普段とは打って変わって寡黙な折原がその紙擦れの音に耳をすませる。そんな時の折原は、ふたりの共通の友人である岸谷や平和島(彼と折原の関係は友人とは言い難かったが)の前で口元を歪ませて言葉をまくし立てる平素の姿とはまったくの別人のようで、門田が感じたのは戸惑いでも優越感でもなく、そんな折原をただ愛しいと思うことだった。門田とふたりきりの時の折原は口を開くことも笑うこともめったにしなかったが、ただひっそりと、門田の広い背中にそれよりいくらかちいさな背中をもたれかけさせてくる彼が、門田は可愛くて仕方がなかった。背中を合わせてただじっと過ごす時間が門田も折原も心地良くて、それはまるでぬるま湯に浸かっているような安寧であった。そしてそれを最初に恋ではないと言ったのは、折原の方だった。俺たちのこれは、きっと恋ではないね。門田と折原は仮にも恋人同士であったからそれはおかしな発言であったはずなのだが、折原のその言葉はすとんと門田の中に落ち着いてしまった。正にそれは正鵠を射ていたのだろう。あまりに正しすぎて門田はなにも返せなかった。それは肯定の意しか含まれていないもので、折原はわかっていたとばかりに笑う。背中越しに伝わるその振動やからからと笑う声はふたりきりの時には珍しいもので、門田は余計になにも言えなくなってしまった。だから折原は言葉を続けた。けれど俺は、君とこうしている時間をとても愛しく感じるんだよ。なくしてしまうには惜しいくらいに。でも、恋じゃない。おかしいね。門田はなにも返せなかった。そこで、自分もだと、そう告げられたならばと、不意に思うことがある。自分も、そうした折原との時間をなくしたくなかったのだと。けれども、それを口にしてしまうことこそが喪失のための呪詛であるように門田には思えてならなかった。だから彼は最後まで口を噤み続けた。折原が困ったように笑い、ひっそりと告白する。けれど。それでも、俺は。ためらったような沈黙の後に、折原は言う。それでも、最初はね。俺は、確かに、君に恋をしていたにちがいないんだよ。背中越しにそう告げる折原に、門田は、ついぞなにも言わない。





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別れたはずのふたりが背中越しに手を握っているというのも、奇妙なものだと思う。恋人らしいことなどなにもしてこなかったくせに、その関係が終わった後に今更こうして手を握るなど。触れ合ったふたつの手は、まるで中学生の児戯のようだと門田は口唇の形だけで笑った。笑って、そうして、門田は折原と恋人になった日のことを思い出す。はじまりは折原の方だった。ね、俺と付き合ってくれない。彼はなんてことのない顔で門田にそう提案したから、門田は一瞬言葉に詰まってから、静かに理由を問うた。いきなりなんだ。呆れのような警戒のようなものを孕んだその問いかけに、折原は、やはりなんでもないことのように答えるのだ。そりゃあ、君が好きだからだよ。本気かそうでないのか、まるで遊びに誘うような浮ついた調子で彼はそう言うものだから、門田はどうせすぐに飽きるだろうと思って軽くそれに頷いた。普段彼がじゃれついてくる時のそれと何ら変わりないものにちがいないと、そう決めつけていた。ああ、いいぜ。付き合おう。果たして、折原はそれにどんな反応を返したのだったか。門田は、どうしてもその時の折原の表情を思い出せない。ただ、その代わりにひとつだけ思い出せるものがあった。門田と折原が恋人という関係になった次の日、折原はなにか恋人らしいことはしないのかと門田に問いかけた。なんだかいつもと変わらないよねえ、俺たち。門田の背でまどろみながらそう呟く折原に、門田は逆に訊ねる。恋人らしいことって、どういうことをすればいいんだ。その言葉に折原は少し黙って、真剣に考え込んでいるのかと思いきや、自分から言い出したことのくせに面倒になったのかひどく投げやりに答えた。例えば、手を繋ぐとか? きっとそれは折原なりの冗談だった。今ならそれがわかる。ただその時の門田はそれに妙に納得してしまい、なんのためらいもなく折原の手に自分のそれを重ねた。けれどいざ重ね合わせた途端、妙な気恥ずかしさのようなものが湧き上がり、門田はとっさに手を離したのだった。少しの間言葉を失って、門田は謝る。悪い。なにに謝罪しているのかわからないそれに、折原は笑う。どうしたのさ、急に。馬鹿にするでもなく、からかうでもない、静かな笑い声だった。だから余計に恥ずかしくなって、門田はそれきりなにも言えなかった。折原の笑い声が余韻を残して消え、彼は再び門田の背で沈黙する。自分ひとりでなにを勝手に焦っているのかと気まずさを覚える門田は、けれど、わずかに振り返った時に見てしまった。黙り込んだ折原の耳が、真っ赤に染まっているのを。そしてそれを見た門田が抱いたのは、紛れもなく、折原に対する愛しさだった。それが門田の、彼に対して抱いた最初の愛情だった。そしてきっとあれが、門田が折原に抱いた感情の中で一番恋に近いものであったのだと。門田はそう思う。そして、彼は想像する。もし、あの時にもう一度折原の手に自分のそれを重ねていたならば。折原が言う、恋人らしい行為を。あの時、手を、繋いでいたならば。もしかしたら。そんな期待とも後悔とも言えないなにかに、門田は自嘲する。そんなことを今更考えたところでなにが変わるわけでもないではないかと。あの瞬間でなければいけなかった。現にいま、こうして折原の手を握ってもなにも変わらないように。あの瞬間でなければ、門田と折原ははじめられなかった。例え今更折原の顔を正面から覗き込み、口づけたとしても、もうなにも変わらない。いざや。その名を呼び、いま、この手を掴んでいても。もう遅いのだと。なぜなら、門田は知っている。屋上の階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、折原の手がちいさく強張る。その足音と共に、聞こえる怒鳴り声。ああまたなにかこいつが悪戯を仕掛けたのかと、門田はどうしようもない気持ちで折原の手を強く握る。この歪で愛しい手の感触を忘れまいとするように、強く、強く。この手を握るのは、もうこれが最初で最後だとわかっていたから。最後まで握り返すことをしない折原の手に泣きそうな思いで安堵し、目を閉じる。なぜなら、門田は知っている。
近づいてくる足音に、もうじきにこの手が自分のものでなくなることを、門田は知っている。





あなたと恋ができない
20100627

顕季さま/ドタイザかカスイザで、切ないのとギャグ、どちらか

読みにくい上に勝手に静臨要素を含んでしまってすみませんでした……!(スライディング土下座)
どちらでもいいとのことでしたので、ドタイザと切ないを選ばせていただいたのですが、ドタイザ……?切ない……?な話になってしまって大変申し訳ありません……
気に食わない点などございましたら、いつでも書き直しますので遠慮なく仰ってくださいね!
顕季さま、素敵なリクエストありがとうございました^^