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目を覚ました時に頬に触れていたのは、すべらかで、人の皮膚よりいくらか素っ気なく冷たい感触だった。清潔な真白のシーツに顔と身体の半分を沈ませている自身の状況に、ああ確か体育の時間に倒れてしまったのだったかと臨也は淡々と記憶を辿る。乾いたグラウンドの地面に頭から倒れたからか、後頭部には切り傷のようなちいさな痛みがあった。そっと指で触れてみれば、剥き出しの肉の感触と、そこをちりっと焼かれたような痛みが走り、反射的に臨也は眉を顰める。
───炎天下に晒されての運動などするべきではなかった。
夏休み明けの体育などサボってしまえばよかった。そう後悔するがもう既に後の祭りだった。
しかし、気まぐれなど起こすものではないという後の教訓くらいにはなるだろうか。保健室の、僅かに染みの浮いた白い天井を見上げながら、臨也はそんなことをつらつらと考える。衝立代わりのカーテンが邪魔をして時計を見上げることも出来ず、かと言って起き上がってまでそうする気にはなれず、臨也は際限ない思考に身を任す。新羅が知ればまたうるさく言ってくるだろうかだとか、もしかして倒れる寸前に一番傍に居た門田が自分を運んでくれたのだろうかだとか、考えるのはそんな他愛のないことだ。
他に人の気配が感じられない室内に、どうやら此処には自分しかいないようだと、臨也は汗の絡まった前髪を掻きあげながら息を吐く。くぐもったように耳に届く外の喧騒からして、今はまだ授業中なのだろう。歓声や笑い声、教師の怒鳴り声、笛の音、そのどれもが水中から耳をすませているかのように遠く曖昧に響く。
まだ少し重い頭に、もう一度眠ろうかと寝返りを打つ臨也の頬を何かやわらかなものがするりと撫でる。なんだ、と思う間もなく視界を彩った黄色に彼は目を瞬かせ、それに手を伸ばした。
それは、向日葵の花びらだった。
臨也の頭のすぐ後ろに置かれていたのか、手折られた一輪の向日葵の花がぽつりとシーツの波に浮かんでいる。手の中に収まるような花は彼の頭の中のイメージにある向日葵という花よりも幾分かちいさくて、そういえば校舎の傍にある花壇にこのような花があったような気もするなとおぼろげな記憶を辿る。普段意識して見ることもない光景は、思い出そうとしても酷く漠然としていて、明確な答えは得られなかったが。
それの茎を摘んで、顔の上に持ち上げて意味もなく揺らしてみる。はて、一体なぜこんなところにこんなものがあるのか。恐らく誰かが意図して置いていったものなのだろうが、臨也にはその理由は計りかねた。

「……何なんだろうねえ、」

計りかねるが、しかしさして重要な問題ではないだろうと考えて臨也はそれを元の位置に戻す。寝起きで頭がぼんやりとしていたせいもあるのだろう。自分が昏々と眠りに就いている間に誰かが枕元に立ってこれを置いていったのかと思うとぞっとしないが、この花の存在以外になにも変わった点は見当たらないのだから、気にする必要もあるまい。臨也はそう考え、開け放たれた窓から吹き込む風の心地よさに、先ほどそうしようとした通りに瞼を下ろした。このまま放課後までぐっすり眠れそうだと、幾分か楽になってきた体調に安堵しながら眠りの気配に身を任せる。
しばらくしてから、するりとまた何かが頬を撫でた気がしたが、恐らく風に揺られた向日葵の花びらの仕業だろうと思い、臨也は気にも留めずにゆっくりと意識を手放していった。



次に目を覚ました時に目の前に居たのはすこし怒った顔をした新羅だけで、向日葵の姿はどこにもなかった。彼が小言を口にする前に向日葵の花を見なかったかと問えば、お花畑でも見るぐらいに重症だったのかと皮肉を返され、臨也は口を噤んだ。彼が黙り込んだのをいいことに、君は自覚が足りないだの何だのと医者ぶった口調で説教をはじめた新羅の小言を聞き流しながら、あれはきっと夢だったのだろうと臨也はぼんやり考える。そして心配して様子を見にきた門田に連れられて帰宅し、腹を空かせた双子たちに飛びつかれた頃には、臨也はもうすっかり向日葵の花のことなど忘れてしまっていた。




暑い夜だった。
熱帯夜にどろりと溶け込んでしまいそうな微睡んだ意識は、しかし身を捩った次の瞬間に走った関節の痛みに一気に覚醒を促される。臨也は小さく唸りながら、節々から鈍い痛みを訴える身体を起こして暗闇の中で瞬きを繰り返す。次第に暗い視界にも慣れてきたところで、臨也はようやく此処がリビングであることと、自分が新羅のマンションから帰った後そのまま床で眠ってしまったことを思い出した。通りで身体が痛むわけだと眉を顰める。
近くに捨て置かれてあるコートのポケットの中を手探りでまさぐって携帯電話を取り出し、時刻を確認する。夜中の一時前だった。続いて何か緊急の依頼や連絡が入っていないかを確認し、それらがないことに、とりあえず安堵の溜め息を吐く。
今日はいくつか済ませておきたい仕事があったのだが、こんな状態ではそれは無理だろう。諦めの溜め息を吐きながら、臨也は床に縫いつけられているような身体の重みを引きずってよろよろと寝室まで向かい、ベッドの手前まで来たところで、遂にぷつりと糸が切れたようにベッドへと倒れ込んだ。ぼすん、とその衝撃を殺し、自身の身体を受け止めたやわらかなベッドに沈みながら、臨也はうつらうつらと途切れそうな思考を巡らせる。

(……なに、か、)

何か、夢を、視ていたような気がする。
だが、それが何の、どのような夢であったのかはまったく記憶になく、臨也は布団に顔を擦り付けるようにして首を傾げる。何か夢を視たことはおぼろげながら記憶にあるのに、その内容だけが綺麗に抜け落ちていて、どうにもすっきりとしない。お世辞にも寝心地が良いとは言い難い固いフローリングに寝転がって視ていた夢なのだから、あまりいいものではないのだろうとは思うのだが。
夢の内容は、それを視ている人間の環境や状態をある程度反映することがあるのだと言う。寝ている間に身体を激しく揺すぶられていると、地震の夢を視ることがあるというような例がある。目覚めが最悪であったことからも、その例と同じように、きっと自分が視ていた夢は、自身にとってよくないものであったに違いないと、臨也は思う。覚えていなくて正解だと。
そこまで思考を連ねたところで、うつ伏せの体勢でいることに息苦しさを覚えて、臨也はぐるりと身体の向きを反転させた。微かな胸への圧迫感から解放されると同時に視界に映ったものに、ふと、既視感を覚えた臨也は目を細めて“それ”を見つめる。

それは向日葵の花だった。

ベッドの横に備え付けてあるキャビネットの上に、瓶に挿された一輪の向日葵が置かれている。夜の闇に決して同化しない、目を瞠るような黄色に、臨也は怪訝な顔をする。はて、キッチンの流し台に飾っていたはずのそれがなぜここにあるのだろうかと首を傾げ、しかしすぐに「ああ」と得心がいく。確か、波江が食事の用意をする際、この花が視界にちらつく度に不快感を表すものだから、彼女の視界には入らない方がいいだろうと思って寝室に移したのだった。
気持ち悪い。この花を目にする度、彼女はしきりにそう口にする。一体なにをそんなに毛嫌いするのだろうかと甚だ疑問に思いながら優秀な秘書の顔を頭に思い浮かべる。しかしその焦点が象を結ぶ前にどっと睡魔が押し寄せ、その思考を最後に、臨也の意識はゆっくりと深淵へ落ちていった。



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突然後ろからぽんと肩を叩かれ、臨也は思わずびくりと身体を揺らした。
ここが池袋という場所であるからか、臨也の頭に真っ先に思い浮かんだのはこの地を主体とする仇敵の存在だった。まずいな、と冷や汗が背筋を伝う。
昨晩はフローリングで寝てしまったからか疲れがあまり取れず、今日は朝からことさら体調が悪かった。しかしどうしても外せない池袋での仕事があったため、こうして人気の少ない道を選んでこっそり帰ろうとしていたのに───。
しかし、そこで臨也ははたと気がつく。よくよく考えてみれば、かの仇敵がこうして暢気に自分の肩など叩いて挨拶してくるだろうか。常ならばまずどこからともなく自動販売機やらゴミ箱やら標識やらが飛んでくるはずである。そうでなくとも、臨也はここ最近ほとんど彼に遭遇していない。今までは池袋に来るたびほぼ百パーセントの確率で自分を見つけていた静雄の姿を、思えば随分と長い間見ていない気がする。
はて、いつからだったか───と記憶を辿ろうとしたところで、いつまでも臨也からの反応がないことを訝しんだのか、後ろから怪訝そうな声が聞こえた。

「おい、臨也? 大丈夫か、お前」

聞き慣れたその声に、臨也は辿ろうとした記憶の糸を手放して振り返る。
そこには、眉を顰めて自身を見下ろす同窓生が立っていた。

「あれ、ドタチンじゃん」
「あれじゃねえだろ、どうしたんだぼんやり突っ立って……。あとその呼び方はやめ……、」

そこで彼──門田は不自然に言葉を切り、ぐっと眉間の皺を深いものにした。そしてそんな門田の様子に不思議そうに目を瞬かせる臨也の腕を掴んで、建物の陰まで引っ張って行く。
日射しが遮られたやや暗い陰のところに臨也を立たせ、門田はもう一度「大丈夫か」と先ほどの言葉を繰り返した。ようやく門田の問いかけや彼の少しばかり怒ったような様子に得心がいった臨也は、真剣な彼の表情に苦笑する。

「心配性だなあ、新羅もドタチンも」
「お前がそんな顔色してるからだ。顔、真っ青だぞ」
「大丈夫だって」

そう言っておどけたように肩を竦める臨也に、門田ははああと溜め息を吐いて「お前は……」と呆れたように頭を抱える。

「お前の大丈夫は当てにならねえんだよ」
「酷いなあ。もっと俺を信じてよ」
「……そうしてやりたいところだが、前科があるからな、」

そう言って溜め息を吐く門田に、臨也は「前科?」と首を傾げる。はてなんのことだろうかと記憶を辿ってみても思い当たる節はなく、視線で門田に問いかけてみれば、彼はその意図を正しく汲み取り、眉間に皺を寄せた。

「……覚えてないのか? 高校の時に、お前熱中症で倒れたことあるだろ」
「そうだったっけ?」
「そうだったんだよ。二年の夏休み明けくらいに、……確か、体育の時間だったか」

お前、その後も放課後まで保健室で寝たまま過ごしたんだぞ、と当時のことを思い出すように、頭を捻りながら門田は告げる。だがそう言われたものの、臨也にはやはり記憶にないことだった。情報屋という職業柄、自身の記憶も含めた情報の取捨選択には徹底したところがあり、臨也の中では必要なものとそうでないものとの区分が明確になっている。恐らく門田の言うそれは、臨也にとって後者に当てはまるものだったのだろう。それを進言すれば、「それは覚えておかなきゃならないことだろうが」と呆れたように頭を叩かれてしまった。

「痛いよ、ドタチン。弱ってる人間になんてことすんのさ」
「弱ってるって自覚があるんなら大人しく休んでろ。……向こうにワゴン停めてるから、」

新宿まで送ってやる、と言う門田に、臨也は一瞬なにを言われたのかわかっていない赤ん坊のようにきょとんと目を丸くする。しかし一瞬後にはその意味を言葉通り理解し、苦笑した。

「いいよ。本当に心配性だなあ、大丈夫だって………って、ああ。俺の大丈夫は信用してもらえないんだっけ?」

そう言ってけらけらと笑う臨也に、門田は困ったような、怒ったような顔をする。それが遊びに出掛ける娘を心配する父親のそれのようで、臨也は一層おかしくなって、ふふっと笑みを深める。そんな臨也の様子に、やがて厳しかった門田の表情が呆れの滲んだものになり、「その様子なら大丈夫そうだな」と溜め息混じりに肩を竦めた。それでもまだ彼の双眸にはどこか躊躇いと心配の色が微かに残っていて、臨也は少し困ったように小さく呟く。

「今度はまるで娘の夜遊びを渋々許可する甘い父親のようだねえ、」
「……何か言ったか?」

上手く聞き取れなかったのか、怪訝そうに首を傾げる門田に臨也はにっこりと笑いかけ、「なんでもないよ。それじゃあね」と言い、踵を返した。しかし不意に思い出したように、臨也は首だけで門田を振り返る。

「あ、そういえば、言い忘れてたけど、ありがとうね」
「……? 何がだ?」

突然の感謝の言葉に、とんと心当たりがないとばかりに不思議そうに目を瞬かせる門田に臨也は薄く笑う。

「わざわざ心配してくれてありがとうって言いたかったのさ」
「……お前が言うと、嫌味に聞こえなくもないな、」
「本当に信用ないなあ。これでも、昔からドタチンには本当に感謝してるんだよ。俺、ドタチンには昔から素直だったろ?」
「……どうだかな、」

はぐらかすような口調だが、これに関しては心当たりがないこともないのか、門田は照れたように首を撫でる。気恥ずかしげに反らされた視線が何よりもの証拠だった。その反応がおかしくて、臨也は立ち去ろうとしていたことも忘れたように、身体ごと門田へと向き直って言葉を連ねる。

「それに、高校の時に倒れたっていうのもドタチンが運んでくれたんでしょ? そんな物好きなお人好しは君くらいだろうし」

いま思えば、あの頃からドタチンは俺のお父さんみたいなところがあったよねえ。からかい混じりにそう続けようとした臨也だったが、首を撫でていた手を止め、少し驚いたように自分を見つめる門田にすっと言葉を止める。どうかしたのかと不審そうに眉を顰める臨也の視線に、門田はハッと目を瞬かせる。そしてどこかばつが悪そうに「そうか、覚えてないんだったな」と小さな呟きを零した。意味の解し難いその呟きに、臨也はますます眉間の皺を深いものにする。

「ドタチン?」
「……あー………いや、まあ、そうなんだが……」

少し迷うような素振りを見せてから、「実はな」と言い難そうに門田が発した言葉の内容に、臨也は不審そうだった顔をみるみる不機嫌なものへと変えていった。



頭がずきずきと痛むのは、果たしてこの暑さのせいか、それとも先ほど聞いた門田の話のせいだろうか。恐らくそのどちらもだろう、臨也はそう結論づけて重い足取りで駅を目指す。
結局最後まで臨也を気遣っていた門田を心配性だと揶揄したものの、確かに今の自分は相当酷い顔色をしているだろうと想像出来るくらいには、臨也の体調の悪さは顕著なものだった。乾いているはずのコンクリートの地面が、まるで粘着質な液体に浸されているかのように臨也の足を縫い留める。一歩一歩踏み出すことさえ、とんだ重労働のように億劫だ。
聞かなければ、よかった。そう思う。門田の話のことだ。頭を抱えながら臨也は壁に手をつき、日照りから逃れるため、そして静雄に遭遇しないため、路地裏の日陰を選んで歩く。
その時、ざり、というなにか固いものと荒いものが擦れたような摩擦音が聞こえた。

「………」

ああ、間違ってしまった。不意に臨也はそう思った。
思い返せば、今日、臨也はいくつかの選択を誤った。まず、仕事があるからといって、体調に無理をきかせて池袋の地を踏んだこと。門田に柄でもなく昔のことについて訊ねてしまったこと。そして、帰路に人気のない路地裏を選んでしまったこと。
近づいてくる数人の人間の足音に、ナイフを取り出そうとポケットに手を伸ばす。しかし幾分感覚の鈍い指先がそれに触れる前に突きつけられた無機質の冷たい感触と、それとは裏腹に全身を焼くように駆け巡った衝撃に、「だから夏は嫌いなんだ」と臨也は舌打ちをひとつ零して、すっと意識を手放した。





八月の残滓 中
20100810

静雄さんが空気過ぎてすみません……