・
 ・
 ・
 ・
 ・



覗いたポストの中に入っていたのは、まるでその箱には似合わない、一輪の向日葵だった。
元々それほど大きくない品種なのか、てのひらで包める程度の花をつけたそれは茎の途中で折られ、十センチぐらいのこじんまりとしたサイズになっている。積まれた郵便物や広告の小山の上に、そっと添えるようにして置かれているそれには、明らかに造花ではない妙な生々しさのようなものがあって、思わず臨也はじっと目を凝らしてそれに見入った。植物も動物同様生きていると言うのは、なるほどこういうことを指すのだなと妙に納得してしまう。
しかし、果たして一体誰がどんな目的でこんなものをポストに投函したのか。臨也が仕事に出る前に郵便物をチェックした時には当然こんなものはなかった。マンションを出たのが昼の三時で今は夜の八時過ぎである。秘書である波江は定時の六時に帰ったとメールが入っていて、帰り際に確認した時点では特に急ぎの電話も郵便物も来ていないと報告する文章があり、そこには向日葵の花の話などなかったから、つまりこれは彼女が帰った六時から今の八時までの間に投函されたということになるのだろう。しかしそれがわかったところで何がどうなるというわけでもないのだが。
とりあえず不要な郵便物や広告をそのままダストボックスに落としながら思考を巡らすが、誰が何の目的をもってこんなことをしたのか、皆目見当もつかない。特に悪意も好意も感じないそれに、単なる悪戯かとも思うが、こんな可愛らしく他愛のない悪戯をするような人間にはとんと心当たりがなかった。さてどうしたものかと目に痛いような黄色を見つめながら悩んだ挙げ句、臨也はひとまずそれを自室に持って帰ることにした。
このままポストの中に放置して、そのまま枯れて腐ってしまっても困るのはどうせ自分なのである。それに、眺める分には愛らしいそれをあっさりと不要な郵便物たちと共にダストボックスに捨ててしまおうという気が起きない程度には、今日の臨也は機嫌がよかった。
今日は池袋で取り引きがあり、あの憎々しい仇敵との遭遇も覚悟の上で渋々とそこに向かったわけなのだが、今日は珍しくも、百回池袋に足を踏み入れれば百回遭遇する仇敵───平和島静雄に一度も出会うことなく、平穏に仕事を終え、無事帰路につくことが出来たのだ。珍しいどころの話ではない。それどころか奇跡と呼んでも何の誇張もない、およそ天文学的な確率である。
些か拍子抜けの感はあったものの、しかし幸運であったことには違いない。毎回こうなら助かるのにねえ、とスキップでもしたいような気分で今し方新宿まで帰ってきた臨也の機嫌はすこぶる良く、また取り引き相手の接待で微かに酒を含んでいたこともあり、今の彼は普段ならばまず抱かないであろう花でも愛でようかという殊勝な気になっていたのである。
軽い足取りでエレベーターまで向かう臨也の手の中では、向日葵の花が、その動きに合わせてゆらゆらと首を振って揺られていた。



 ・
 ・
 ・
 ・
 ・



「気味が悪いわ」

翌朝出勤してきた波江に昨晩のことを話せば、彼女は吐き捨てるようにそう言った。にべもない反応に肩を竦めながら、臨也は「でも、結構かわいいでしょ」と笑いかける。
そんな上司を胡散臭そうに一瞥し、波江は視線を彼の仕事用のデスクへと移す。パソコンや山積みにされた書類が置かれたそこには一輪の向日葵の花が水の入った透明なビンに挿されていて、昨日まではなかった、まるでこの男に似合わないそれに彼女はぐっと形の整えられた眉を顰めた。

「いくら可愛いからと言って、そんな得体の知れない薄気味悪いものを持ち帰って飾るなんて、あなた、馬鹿なのかしら」
「ひどいなあ、花に罪はないのに。女の人って花とかが好きじゃないの?」
「それは人によるわね。少なくとも、ポストの中に置かれていた、誰が入れたかもわからない花を好む趣味はわたしにはないけれど」

まったくもってその通りであった。
言い分は波江のそれの方が正当性を帯びていて、臨也は苦笑して「だろうね」と返す。しかし、かと言って今さら燦々と日差しを浴びるそれを捨てる気にもなれなかった。執着しているわけではない。花には悪いが、手折られたそれを水道水に浸けているだけではあまり長持ちはせず、すぐに枯れてしまうだろう。それを思うとここで放り出してしまうのはなんだか気が引けたのだ。まさかやさしさなどというものではないことは、本人が一番わかっていた。
だからそれまでは勘弁してやってよ、と未だ向日葵を睨み付ける波江に告げる。懇願するわけでもなく軽やかに告げられたそれには答えず、彼女はもう一度「薄気味悪い」と呟いて、それきり視線を向けようとしなかった。そんな彼女の過剰とも言える反応に臨也は「大袈裟だなあ」と目を瞬かせるが、それが了承の意であることはわかっていたから、もう何も言わずに、すっかり中断してしまっていた仕事に再び取りかかることにした。後に響くのは紙擦れの音や指がキーボードの上を跳ねる音ばかりで、会話はなかった。
首をもたげた向日葵が、ただそれをじっと見上げていた。



 ・
 ・
 ・
 ・
 ・



暑い夜だった。
八月に差し掛かったばかりの熱帯夜とも言える真夏の夜は、なかなか臨也を眠りには就かせてくれない。タイマー設定をしていたクーラーは既に切れていて、ひんやりとした空気は霧散してもうほとんど室内には残っていない。肌にじっと染み込むような熱気が絡みつくばかりだ。
ふと喉に不快感を覚え、臨也は水でも飲みに行こうとベッドから降り、フローリングにぺたりと足をつけた。素足の裏から伝わる、無機質な床の感触に反し、人肌のように生ぬるい温度にぞくりとする。まるで呼吸が聞こえてきそうな夜だと、冗談混じりに思った。
冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出して口に含めば、幾分か喉の不快感が和らいだようにも思え、臨也はようやく人心地がついたように深く息を吐き出した。
果たして今は何時頃だろうと壁に掛けられた時計を見上げようと顔を上げれば、不意に夜の薄暗い室内には似つかわしくない明るい色が目に入った。じっと目を凝らす。薄暗い室内にぼんやりと浮かぶ黄色のそれは、向日葵だった。瓶に挿された一輪の向日葵が、流し台のすぐ傍にひっそりと置かれている。
はて、事務所のデスクに飾っていたはずのそれがなぜここにあるのだろうかと首を傾げ、しかしすぐに「ああ」と得心がいく。確か、あまりに波江がこの花を嫌い不快感を表すものだから、彼女の視界には入らない方がいいだろうと思ってキッチンに移したのだった。確かに得体の知れなさについては否定出来ないが、一体なにをそこまで嫌う必要があるのだろうかと、臨也には甚だ疑問だった。薄気味悪い。そう吐き捨てた波江の表情には嫌悪感がこびりついていて、そしてその上にほんの少しの畏怖のようなものが塗り重ねられていたようにも思えたが、あれは気のせいだったのだろうか。基本的に表情に乏しい秘書の顔を思い出しながら首を傾げるが、矢霧波江という人物の性格を考えるならば、それは気のせいに違いなかった。
向日葵から視線を外し、時計を見上げる。時刻は夜中の三時を回ったところだった。そういえば明日──正確にはもう今日になるが──は朝から仕事の予定が入っていたことを思い出し、ペットボトルを冷蔵庫に戻して臨也は早々に寝室へと戻った。



 ・
 ・
 ・
 ・
 ・



はい終わったよ、そう言って救急箱を片づける新羅に礼を告げればその手はぴたりと止まり、そしてまるでそれがとんでもない馬鹿な発言であったかのように、彼は大きな溜め息を隠しもせずに盛大に吐き出した。それがあまりに呆れと疲労感に満ちたものであったから、臨也にはこの後にすぐに続くであろうここ最近ですっかり定番となってしまった台詞をあらかじめ予期することが容易で、ああまたかとこっそり胸中で溜め息を吐く。もちろん、新羅のようにあからさまにそれを吐き出すようなことはしない。そんなことをすれば更に面倒なことになると知っているからだ。

「君は性根はともかく頭は悪くないと思っていたんだけれど、それは僕の勘違いだったようだ。どうやら君には学習能力というものが欠如しているらしいね」
「やだなあ、単細胞のシズちゃんじゃあるまいし。あんな奴と一緒にしないでよ」
「再生能力があるだけ、まだ彼の方がマシさ、」

そう言って今し方腕に巻かれたばかりの包帯を新羅が悪戯につつく。痛い、とちいさく文句を零せば、彼は少しだけ機嫌を治したようにみいさく苦笑した。
けれどその丸くおおきな瞳には未だこちらを責めるような色が残っていて、臨也はそれから視線を外すようにうっすらと目を伏せる。視界に入るのは真新しい包帯の白と、それに触れる新羅の指先ばかりだ。

「いくらなんでも、最近多いんじゃないのかい」

窘めるような口調だった。
怒っているわけでも責められているわけでもないのに嫌に居心地が悪くて、臨也はわざとおどけたように笑って答える。

「俺にだって不調な時期ぐらいあるさ」
「夏だから?」
「夏だから」

鸚鵡返しにそう笑えば、新羅は「はあああ」と体内のあらゆるものを吐き出すかのような深い溜め息を漏らしてうなだれる。そしてそれをおかしそうに見下ろす臨也をちらりと恨めしそうに見上げ、ちなみに今日の朝食と昼食は、と訊ねる。何の期待もこもっていない声だった。だから臨也も何も繕うことなく、淡々と、平気で答えを返す。

「朝食はなしで、昼食はアイスコーヒー」
「いつもと同じだね」
「いつもと同じだよ」

言葉遊びにもならないお決まりの質問に、お決まりの返答。
だから学習能力がないのだと、新羅は顔を渋くさせる。

「無理に食べろとは言わないけれど、そんな状態で外をうろつけばどうなるかぐらい、いい加減学習しなよ。君に恨みを持つ人間なんていくらでも居るんだからさ」

それで襲われて毎回うちに来るのはよしてくれよ。
呆れと疲労感と、そして心配を滲ませた新羅の声に、臨也は薄く笑って肩を竦め、そのことに対してはもう何も言葉を寄越さなかった。
治療費は多めに振り込んでおくよ。彼の反論を許さない内にそう言い置き、夏でも着用しているコートに袖を通して帰る意を示す。そのままあっさりと向けられた背に新羅は何か言おうとした口を噤み、今日何度目かもわからない溜め息を吐いて、そして最後に一言だけ苦々しく呟いた。

「あんまり無茶してると、その内痛い目を見るよ」

───もしそうなっても、僕はその後の治療しかしてあげられないんだからね。

警告や脅しと言うにはあまりにも生ぬるいそれに、臨也は苦笑しながら片手を上げることで答え、もう一度礼だけ口にして新羅のマンションを後にした。



 ・
 ・
 ・
 ・
 ・



折原臨也は夏に弱い。
それは生まれもってからの彼の体質であり、毎年この時期になると、必ずと言っていいほど臨也は食欲の減退に伴って体調を崩しがちになっていた。中学時代からの腐れ縁である新羅はその度にあれやこれやと口を出してくるわけなのだが、体質などどうしようもないではないかと臨也本人が匙を投げてしまっているために、年々友人である闇医者の溜め息は深くなっていく一方なのである。
それだけならばまだ良かったものを、ここ最近では臨也の不調を狙って襲い掛かってくる人間が現れ始め、襲われる臨也は勿論、毎度その手当てに駆り出される新羅も堪ったものではなかった。みすみす痛めつけられるような事態には陥らないものの、やはりそこは本来とはコンディションに差があるせいか、ここ数週間なにかとかすり傷や生傷が絶えない。
だからと言って仕事を放り出して家に引きこもるわけにはいかないため、臨也はやや重い身体を引きずって外出しては、ちいさな傷を作って帰ってくる。それに対してなにも口を挟まない波江の態度は、むしろ新羅のそれよりも有り難かった。恋人以外のことはどうでもいい人間のくせに、こうやって新羅が当たり前のように世話を焼いてくるのが臨也にはどうしようもなく不慣れで、いっそ放っておいて欲しいと、そう思うのだ。けれど恋人以外はどうでもいいからこそ、新羅はそんな臨也の願望など叶えてはくれない。もうこれは習慣とも化していて、放っておいて欲しいと思いながらも、こうして無意識に新羅に頼る癖がついてしまっている自分にも嫌気が差してしまう。
自らの弱さを突き付けられているようだと思う。どうにもいろいろなことがやりにくくて、臨也は毎年夏が好きになれない。

帰宅すれば波江は既に仕事を上がった後で、臨也は誰もいない事務所兼自宅のマンションの床にぺたりと倒れ込んだ。フローリングは冷たく、押しつけた頬に伝わるひんやりした心地よい温度にほう、と息をつく。しかしそれは触れた箇所から臨也の体温とすぐに解け合ってしまい、彼は生ぬるくなったそこから顔を上げて不機嫌そうに鼻を鳴らした。
もぞもぞとコートを脱いで、ハンガーに掛けることもせずに無造作に床に放る。皺になってしまうなとは思ったが、立ち上がることすら億劫だった。明日波江にクリーニングに出してもらうよう頼めばいいだろうと思案しながら、臨也は包帯の巻かれた腕をさする。

「夏なんて早く終わればいいのに、」

誰にともなくぽつりと呟き、臨也は壁に掛けられたカレンダーに視線を向ける。八月の暦を記したそれには、目の眩むような鮮やかな向日葵畑の写真がプリントされていた。





八月の残滓 前
20100623