※やや暴力的描写を含みます










六、

例えば臨也がこのまま二度と目を覚まさないとして、俺がそれを悲しいなどと思うはずがない。
俺にとって奴はずっと殺してやりたい存在で、実際に何度もこの手で殺そうとしてきた。奴に対するすべてに手加減などはなかった。殺意も、暴力も、憎悪も。持てるだけのすべてを抱えて、それらをぶつけてきた。お前なんか死んでしまえと、いつだって思っている。出会った瞬間から、何年も、いまに至るまでずっと。
だから、目の前で物言わず眠る男の細く儚い首を、いっそ締め上げてやろうと思ったことが、一度もないわけではなかった。
その行為を実行することは、きっとひどく容易いことであったはずだ。何年間も抱えてきた願望が、いっそあっけないほどの容易さと虚しさで達成される。手加減なく殴りつけても、骨を折って自由を奪っても、あの憎たらしい笑みを絶やさずにナイフを振り回してきたこのしぶとい男が、こんなことで本当に終わるのかと疑念を抱くほどに、それは、簡単なことであったはずなのに。

『恐らく複数の人間に集団でリンチされたんだろうね。臨也が大多数相手とは言えそう簡単に引けを取るとは思えないから、薬も嗅がされたんだろう。……臨也を恨む人間はいくらでもいるからね。本人たちが直接手を下したか、もしくはそういった人間に雇われたプロの犯行かもしれない。何にせよ、執拗に痛めつけられたみたいだよ、』

俺を呼び出して臨也の眠るベッドまで連れてきた新羅は、その治療が施されたばかりの臨也の顔を見つめながら至極冷静にそう言った。
新羅の言う通りだ。この男は今までにいくつもの恨みを買ってきて、なおかつ質の悪いことにそれを自覚もしていた。それを十二分に理解した上での生き方だった。自業自得だと、言ってしまえばそれだけのことだ。
ああほらこれが散々人を貶めてきたお前への罰だと、いっそそう嘲笑ってしまえればよかったのに。

『……僕はさ、静雄。君がいまの臨也を見て、もしかしたら彼を殺そうとするかもしれないと、そう思っていたんだよ』

けれどその様子だと大丈夫そうだね。
腐れ縁の友人はおどけたように、そしてどこか安心したようにそう言う。
そう思っていたのならなぜ呼んだりしたのかと問えば、新羅はふっとその口元に薄い笑みを湛えて、少し躊躇うような声で逆に問いかけてきた。

『静雄。君はまだ、臨也がすきかい?』

疑問の形をとっていながらもそれはどこか確信めいた響きだった。
答えられずに沈黙する俺に新羅はひとつ頷いて、「だから君を呼んだんだよ」と回答になっていない返事を寄越して、そうしてそれきりだった。



学生時代、俺の中の折原臨也に対する歪な感情に、真っ先に気づいたのは岸谷新羅だった。
顔を見れば殴りたくなる。声を聞けば耳からざわりとした不快感に襲われる。視線など合った日には、もう既に殴りかかった後だ。日に日に膨れ上がっていく臨也に対する際限ない苛立ちに、なんとかこれを鎮める方法はないかとほとんど愚痴混じりに新羅に零したところ、彼は「それは君が臨也に恋をしているからじゃないのかい」とあっさりと言ってのけたのだ。
思わず手にしていた牛乳パックを握りつぶし溢れた中身で手をべたべたに濡らす俺に、しかし構わず新羅は淀みない口調で語りはじめたのだった。


(君が臨也の姿を前にした時に感じる苛立ちの半分は、君自身の無意識下のジレンマによるものが原因だろうからね)
(もちろん半分は、君が純粋に臨也を嫌悪することによるものだろうけど)
(……ふふ、矛盾してる?)
(けれど君が臨也をすきだというのも嫌いだというのも紛れもない事実さ、)
(愛憎は表裏一体だとよく言うだろう?)
(でも、裏と表であるからこそそれらは決して交じり合わないし、融合もしない)
(だからそのジレンマに君は苛立つ)
(厄介だねえ)
(恋とは往々にして一筋縄で行かないものだけれど、君のはとびきりだ)
(……ああ、だけど)
(それでも、静雄、君は、)


(君は、あの折原臨也に、恋を、してしまったんだね、)





恋をしていた。

いまもそうだ。愚かな恋をしている。ずっと、恋をしている。
そして同時に憎んでいる。ずっと、変わることのない憎悪を抱いている。細い肢体を壊れないように抱きしめながら、その蠱惑的な口唇に噛みついて、そこから「お前なんか死んでしまえ」と呪詛を植えつけてやりたい。そんな衝動をずっとくすぶらせている。
だから俺はいつまでも生ぬるく手をこまねいていて、いっそ一思いにその脆い首をへし折ってやることも、頼りなく細い腕を掴んで引き寄せることもできずにいるのだ。振りかざしてきた拳も吐き捨ててきた罵倒の言葉も、すべてが本物だった。本気だった。けれどそれだけじゃない。それだけの感情ならば、きっと、もっと幸せだった。

だから、目を覚まさない包帯だらけの姿を前に、いっそ殺してやろうかと、そう思ったのだ。

俺以外の誰かの手によって、このまま静かに眠るように息を引き取らせるくらいならば、いっそこの両手で殺してやろうかと。それをするならば正にこの瞬間だと、そう思ったのだ。それが憎悪からくるものなのか、独占欲からくるものなのかはわからない。あるいは解放されたかったのかもしれない。俺はもう、この無惨なまでに歪んだ感情から逃げたかったのだろうか。

目を覚ます兆しさえない臨也の元へ毎日通う理由が、彼の生と死のどちらを望んだ上での行動なのか、もう俺はそのことについて考えるのをやめてしまっていた。





七、

今日の取り立て先は、一ヶ月ほど前にテレクラで一気に十数万を注ぎ込んだ無職の男のアパートだった。
錆びたドアの向こうから出てきた男はまだ昼間であるにも関わらず明らかに酒気を帯びていて、室内に立ち込める酒の臭いが玄関口からもありありとわかった。不快なそれにトムさんと顔を見合わせて眉を顰めていると、男は突然なんの前触れもなく、「あんた、平和島静雄か?」とほとんど呂律が回っていない口調で問いかけてきた。

「……あ?」
「金髪にサングラスとバーテン服つったらよお、なあ、あんた、平和島静雄だろ」

男のこちらを眺め回すような不躾な視線に、びきりと嫌な音を立ててこめかみに青筋が浮くのを感じる。
そんな俺を見て一体どう思ったのか、男はただでさえアルコールで赤くなっていた顔を更に紅潮させて、興奮したようにまくし立てはじめた。

「まさかあんたが取り立てにくるとはな、思ってもいなかったよ! けどな、あんたは俺に感謝をするべきなんだ、取り立てなんてしてる場合じゃない……。なあ、どうだいあんた、心当たりがあるんじゃないのかい? ここ最近、平和に過ごせていただろう? へへ……、実はな、それは俺のお陰でもあるんだぜ、へへ……」
「……なに言ってんだ手前」

意味のわからないことをべらべらと喋り立てる男の様子に、沸々と苛立ちが募る。一体この男はなにを言っているのだろうか。酔っ払いの妄言をまともに聞いてやる義理などないが、なぜか俺に向かって必死になにかを訴えかけてくるこの男の浮ついたような目が気になって仕方がなかった。酔っ払いの脈絡のない言動だと、言ってしまえばそれだけの話だが、その奇妙に歪んだ双眸がひどく気に障る。
男はごくりと生唾を飲み込むと、それまでの興奮したような口調とは打って変わって、ひっそりと秘密ごとを打ち明けるような小声で「俺が殺したんだ、」と呟いた。
穏やかではないその言葉にトムさんが俺になにか耳打ちする。だがその声はよく聞こえず、彼がなんと言ったのかはわからなかった。ドロリと濁った瞳と、それに反して、テストで満点を取った子どもが親に誉めてもらおうとするような期待と満足感に満ちた静かに喜色ばんだ声。
ずっと言いたかったことをようやく吐き出せる、そんなよろこびを滲ませて、男は自身の浮ついた様子を恥じるように目を伏せながら、ひっそりと告白した。

「俺が、折原臨也を殺したんだ、」



頼まれたんだ、折原臨也を殺してくれって。誰かは知らないけど、金と薬をくれて、成功したらもっと金をやるって言われてさ……。
薬で動きを封じれば簡単だからって言われたけど、やっぱり不安だろう? 何せ相手はあの折原だ。もししくじったら報復されるに決まっている、確実に仕留めなきゃならない……。
だから、仲間を呼んだんだ。何人だったかなあ……二十人ぐらいだったかな。ああ、きっとそれぐらいだ。
一気にバッドで殴りかかって、押さえ込んで薬を嗅がせた。それからは簡単だったよ! あの折原臨也も、ああなったらただの人だな。
……ああ、けれど、あの男、呻き声ひとつあげないんだ。殴っても蹴っても、やめろとさえ言わない。気持ち悪いだろ?
だから、じわじわと痛めつけてやったんだ。
拷問みたいなやり方でさあ……。気を失わない程度に何度も殴ってやった。ああ、けど首を絞めながら胸と腹を蹴り上げた時には、さすがに苦しそうに咳き込んでたけどな。でも、やっぱり呻き声ひとつあげやしなかった。だからまた殴ってやった。傷口を何度も蹴った。そうしたら突然ぱったり意識をなくしちまってさ。ああ、死んだなと思ったよ。俺は人が死ぬ瞬間をはじめて見たが、存外あっけないもんだな。死ぬのは一瞬だ。
本当は死体を海に捨てるつもりだったんだが、血だらけで気味が悪くなったからそのまま置いて帰ったんだよ。人気のない路地裏だったから、鴉にでも食われたかな、へへ……。
……なあ、俺は今までこのことを誰かに言いたくて仕方がなかったんだ。さすがにおおっぴらに「俺がやったんだ」なんて、言えないだろう? どっかから洩れたら警察に捕まっちまうし、俺のこの素晴らしい英雄的な行為を理解出来る奴なんて、そうそういないだろうさ。
でもよ、平和島静雄。あんたなら、俺の行いがいかに素晴らしいものであったか、わかるだろう?
俺は知ってるんだぜ。いや、この街で知らない奴なんざいないだろうよ……あんたが折原臨也をずっとぶっ殺してやりたいと思ってたことを。
あいつがいなくなって精々しただろう? 幸せだろう? それは、なあ、俺のお陰なんだ。俺があんたを救ってやったんだ。
ああ、そうさ。

俺が、折原臨也を殺したんだ。

………それでさ、本題はここからなんだよ。ああ、大事なのはここからだ。もう折原のことはいい。
報酬にもらった金は、仲間と分けたら大した額じゃなくなっちまってよお……。ちょっと遊んだらすぐになくなっちまった。テレクラだってちゃんと払えると思ってたんだ。本当さ。
なあ、おかしいだろ。俺は素晴らしいことをしたはずなのに、どうしてあれっぽっちの金しか入らないんだ。俺の行いを思えば、あれっぽっちの借金は帳消しにされて当然だろう、でも他の奴らにはそれがわからないんだ……。けどあんたはわかってくれるだろ。
だから、なあ、平和島静雄。
ここはあんたの平穏な生活に一役かった俺の行為に免じてさ、支払いは見逃してく、



男の言葉は最後まで続かず、そこから先は蛙がひしゃげたような声に掻き消された。
みしみしと男の頭に食い込む自分の指を他人ごとのように見つめて、このまま力を入れれば頭蓋骨が粉砕されるだろうなと、やはり他人ごとのように思う。俺の手を引っかきながら、言葉にならない声をあげて男が喚く。宙に浮いた男の足がばたばたと暴れるのが不愉快だった。掴んだ頭部をそのまま染みの浮いた壁に叩きつける。罅が入ったそこにずるりと赤い血が塗りつけられ、男が床に崩れ落ちる。前のめりになった身体を掬い上げるように足で蹴り上げる。一度宙に浮いた身体が重力で再び床に落下する。男が吐瀉物を撒き散らす音と嗚咽を漏らす音が聞こえる。血塗れになっているであろう顔を床に伏したまま、もぞもぞと自分の身を守るように丸まって震える男の背を見下ろして、俺は自分の胸がどんどんと冷えていくのを感じていた。この感情は、日頃抱く怒りの中のどれでもなかった。ただひたすら静かに、心のどこかが素知らぬ顔で冷えていくばかりだ。

ああ、お前、こんな奴にやられたのか。

淡々と、ここに居ない男に向けてそんなことを思う。
いっそ笑ってしまいそうだった。なにに対してかはわからない。いまだがたがたと震えながら嗚咽を零してぶつぶつとなにかを呟いているこの男に対してか、こんな男に無様にも殺されかけて一ヶ月も眠ったままの臨也に対してか。それとも、そのどちらに対してもひどく残酷な気持ちにさえなれる自分にだろうか。
男に背を向け、それまで黙っていたトムさんに今日は早退させて下さいと頭を下げる。彼は「ああ」と神妙な顔で頷き、そして、いつか俺に「願掛けでもしているのか」と問いかけた時と同じ表情を浮かべながら、ふらふらとアパートを後にする俺を見送った。





スカボローの市で
待っている 2
20100601