静→(←)臨
臨也さんがほとんどいません










一、

折原臨也が死んだ。

そんな噂が、水を零したカーペットに広がる染みのようにじわじわと広まりはじめたのは、年もそろそろ明けると街がざわめく十二月の中頃のことだった。やれクリスマスだの、やれ大晦日だの、やれ新年だの、話題とイベントには事欠かない世間に小さな斑点のようにこびり付くそれは、ともすれば軽やかな風のように掻き消えてしまいそうなひどく希薄で頼りないものだった。年が明ければそんな噂もぱったり消えるだろうねえ。噂の渦中にある彼と中学からの同窓生である闇医者はそんな風に言う。実体を持たない言葉の上の人物は、すぐに人々の中から消え去ってしまうものだ、と。そういった意味では、なるほど折原臨也が死んだというのは正しい事実なのだろう、と。それは無責任で無神経な発言であるようにも聞こえるが、それでいて、まるで臨也を挑発して彼からの反論をじっと待つような切々とした響きだったと、少し疲労の滲んだ童顔の横顔を思い出す。皮肉にすらならない、消え入りそうな呟きだった。落ち込むくらいなら言わなければいいのに。そんな風にも思ったが、まさか口に出せるはずもなかった。ただ黙ってその場の沈黙をやり過ごす。それが、雪がちらつく十二月の中頃のことだった。




二、

端的に言うならば、世間で死んだものとされている臨也は新羅の自宅に居た。
小さな顔の半分を覆う酸素マスクと、病的に白い腕に繋がれた管。至るところに巻かれた包帯が当初に比べると少しずつその数を減らしていることに、いつもふとした瞬間に気づく。そしてそれと同時に、この状態が随分と前から継続されたものであることを思い知らされるのだ。

一ヶ月だった。
池袋の路地裏で血まみれになっていたらしい臨也を、セルティが見つけて自宅に連れ帰り、新羅が慌てて治療を施し、そして「折原臨也が死んだ」という噂がどこからともなく広まりはじめてから、一ヶ月が経っていた。
一体なにを思ってそうしたのかはわからないが、新羅が「家に臨也がいる」と俺に連絡を寄越してきたのがそれから三日後のことだった。だが、これは好機だと勇んで一発殴りに来たら、当の本人はベッドの上で死んだように眠っていて、新羅もセルティも葬式の最中のような顔で(正確にはセルティには首から上がないので想像なのだが)出迎えるものだからとてもではないが殴りかかることなんて出来るはずもなかった。
あの時はまだ臨也の身体は全身が包帯だらけだった。頭や首や腕に巻かれた包帯は、青白い奴の肌よりもよっぽどくっきりとした健康な色で、ひどく目がチカチカした覚えがある。頬には大きなガーゼが貼られていて、更にその上に酸素マスクを重ねていたものだから臨也の顔はほとんど見えなかった。ガーゼが取れたのは俺が来てから一週間後のことだった。
死に際ぐらいは見届けてやろうと毎日仕事帰りに新羅の家に寄るのだが、この一ヶ月、臨也はずっと死んだように眠り続けて、死んだように生きている。
点滴で生命活動を維持している身体はまるで骨と皮だけのようだ。以前から細い男ではあったが、それでもここまで脆くはなかった。果たして本当に生きているのかと疑問に思って一回り細くなった手首を掴んでみれば、確かに微細な脈が感じられた。その時の、落胆とも安堵ともつかない感情は今でも言葉にしようとすると霧のように霧散して曖昧なものになる。ただ、眼球が異様に熱くなって、一筋零れ落ちた雫の生ぬるい温度だけが今でも明確なものとして記憶に残っていた。




三、

今日もまた、俺は飽きもせずにいつものように新羅の家に寄って、変わらない臨也の顔を見つめる。
真っ白な病室、真っ白なシーツ、真っ白な包帯。青白い肌。黒く垂れ下がった髪。毎日変わり映えのしない光景。
変わるのは、臨也の包帯の数ばかりだ。

(……いや、あともうひとつ、)

あと、もうひとつだけあったなと、思う。

大嫌いで殺してやりたいほど憎い相手だとは言え、さすがに意識不明の人間の隣で煙草を吸うのははばかられたので、なんとなく本数を減らしていた。ら、いつの間にか禁煙状態になってしまっていた。依存というものはこんなにも呆気なく断ち切れるものかと呆然としたのは記憶に新しい。意図してやったことではないのに、もう随分俺の身体からは煙草の臭いがしていない。
願掛けでもしているのか、と言ったのはトムさんだった。それが世間話をする風でもなく、からかう風でもなく、ひどく憐れむような顔だったことを思い出す。臨也が生きていること、俺が毎日そこに通っていること。そんなことは知らないはずなのに。仮に臨也が生きていることを知っていたとして、俺が願掛けなんてものをするなど、誰が想像するのだろうか。
なにかを我慢すれば、望みがひとつ叶う?
そんな馬鹿な話があるはずがない。あっさりと断ち切れてしまった煙草の代償に得られるものとはどれほどのものなのだろうか。それは、およそ俺が知る人間の中で最も最悪なこの男の命と等価値なのだろうか。

(俺は、こいつに生きていて欲しいのか?)

自問してみても、答えを得てしまえばなにかが壊れてしまいそうで、俺は思考を閉じる。
やり切れない思いに、消えた煙草の臭いを思い出そうとしてもその輪郭はひどくおぼろげだ。
ただ、代わりに、この室内に立ち込める消毒液の臭いばかりがねっとりと絡みついて離れない。


ねえシズちゃん。
君はどうして死なないんだろうねえ。化け物だからかな。でも、化け物だって不死身じゃない。どうにかして君を殺す方法を見つけられないかなと思って、今日は君にプレゼントを持ってきたんだよ。受け取ってくれると嬉しいなあ……。
うん? 見てわからない? 煙草だよ、煙草。今まさに君がその口にくわえている、た、ば、こ。そして君を殺す殺人兵器さ。
……………。
あはははは! 毒なんて仕込んでないよ。馬鹿だなあ、シズちゃん。だって君が毒なんかで死ぬはずがないじゃない。何種類も試したけど駄目だったんだ、俺はもうとっくに毒殺という方法に戦力外通知を送っているよ。
いつ試したのかって? 別にいいじゃない、いつでも。気づいてなかったのなら、まったくの無害だったわけだし。あーあ、悔しいなあ。
……そう、だからね、俺は君を殺す手段としてこれをプレゼントしにきたんだよ。毒は駄目だったけど、内側からの攻撃の方が有効そうだし。
だから、ねえ、シズちゃん。
たくさん煙草吸って、早く死んでよ。
もし君が肺ガンで死んだら、俺はありったけの花を抱えて、笑いながら葬列に並んであげるから。
ねえ、シズちゃん、………。


憎たらしい声が蘇って、言い返してやろうと息を吸った瞬間、その声はあっさりと消えてしまう。駆り立てたすべてを一瞬で置き去りにするように、一切のものを鮮やかなまでの潔さで捨て去って。消える。
目の前でベッドに横たわる臨也は、変わらず死んだように眠ったままそこにいる。

「─────……、」

耐え切れなくなって、俺は病室を飛び出した。
リビングにいた新羅がなにかを言っていたが、俺は構わずに玄関を突き破るようにして外へと駆け出す。頭の中でぐるぐると思考が迷走する。
折原臨也が死んだ。そんな噂が広まって一ヶ月が経った。世間は新しい年を迎え、新羅が言った通りにそんな噂は少しずつなりを潜めていった。代わりのように「折原は外国に高飛びした」「いや、ずっと新宿に引きこもっている」「田舎でひっそりと暮らしているらしい」、そんなくだらない噂が、不意に思い出したように人々の口にのぼる。そのどれもが曖昧で不明瞭で、そしてでたらめだ。
俺は少し離れたところで立ち止まり、新羅のマンションを遠目に見上げる。誰も知らないのだ、あそこで折原臨也が死んだように眠っていることを。俺と、新羅と、セルティ以外は。誰も。
時折顔を合わせてはなにか訊きたそうな顔をする門田たちや、サイモンも、来良のガキ共も。彼らだって知らない。なにも変わらないこの街の住人の、誰もが知らないのだ。

『静雄。臨也は、もしかしたら、もうこのまま目を覚まさないかもしれない。まだそうとは決まったわけじゃない。そして、医者として、友人として、僕はそうさせたくない、』

あの、薄い皮膚から伝わる血の通う感触。体温。

『……でも、それが有り得ることなんだと、可能性のひとつとして、覚えておいてね』


あの細い手首の生きている鼓動を、誰も知らない。





四、

(真っ白な病室、真っ白なシーツ、真っ白な包帯。青白い肌。黒く垂れ下がった髪。毎日変わり映えのしない光景、)

日に日に減っていく臨也の包帯の数。消えた煙草の臭いの代わりに、日に日に増していく、死のにおい。
それだけが日々の変化として、どこに行くとも知れない明日をひっそりと手招きしている。





五、

「ごめんね、俺は君を恋人にはしてあげられないよ」

最悪のタイミングだった。
午後からの授業をすべてサボり、今の今までずっと屋上で惰眠を貪っていた俺の耳に届いたのは、俺にとってこの世でもっとも耳障りで腹立たしい男の声だった。ちょうど日陰になっているこの位置からはその姿は見えないが、距離はそれほど離れていないのだろう、起きたばかりでぼんやりとした頭にも、その声ははっきりと鮮明に響いた。
───折原くん、は、他に好きな人がいるの?
嗚咽まじりのか細い女の声がそう問いかける。
他に好きな人がいるどころかそいつは全人類(ただし俺はそれに含まれない)を好きだ愛してるなどと声高にのたまうような変人だ、と忠告してやりたくなるのをぐっと堪える。
偶然だとはいえ、男女の告白の場面に立ち会ってしまったというのは、とても気まずく、罪悪感を拭えないものがある。しかもその告白されている相手が、自分のよく知る相手……どころか毎日殺し合いを繰り広げるような天敵であり、その歪みに歪みきった性格を嫌というほどに知っている俺からしてみれば、そんな男を好きになってしまった相手が不憫でならない。
この男は腹立たしいことに男女共に人気があり度々告白を受けているらしいのだが、それを片っ端から跳ね除けている。と、新羅が言っていた。実際どんな風に断りを入れているのかは不明だが、この男のことだからきっとえげつないやり方で相手を踏みにじっているにちがいない。俺が知る折原臨也とはそういう男だ。
そして今まさに、自分がその場面に立ち会おうとしているのかと思うと逃げ出したくもなる。しかし声がする方向から考えて彼らは入り口の付近にいるらしく、ここから地面まで生身でバンジージャンプでも行わない限りこの場を去ることは不可能だろう。
臨也に罪悪感など感じるわけもないが、相手の女子生徒に対する立ち聞きをしてしまっているという申し訳なさから耳を塞いでみるが、大した音量ではないのによく通る声は、それをすり抜けて俺の鼓膜にまで到達する。

「いないけど、」
「じゃあ、わたし折原くんに好きになってもらいたいの。いまは好きじゃなくてもいいから、恋人になって。そうしたら、」
「悪いけど、俺は君と恋人にはなれないよ」

必死に縋りつくような声を遮って、ひどくそっけない声色で臨也がぴしゃりと言う。
想像していなかったそれに思わず目を瞠る。てっきり、あの人を馬鹿にしたような胸くそ悪い笑みを浮かべ、飄々とした口調で長々と理屈をこねくり回し、理解したくもない歪んだ博愛で相手を嘲笑うように突き放すものだと思っていた。彼は、こんな凍えるような声をするような人間だっただろうか。はじめて聞くそれに、自分の中のどことも知れない場所がきりきりと軋む。
きっと、いま臨也の顔はとても冷たく平淡なものなのだろう。その表情が、視線が、容易に脳裏に浮かび上がる。そしてまるでそれが直接俺を射抜いているかのような錯覚に陥るのは、きっと、俺もまた彼女と同じだからだ。俺もまた、彼女と同じ感情をこの男に対した抱いているから、それがやましくて、こんな錯覚を引き起こす。
俺は君と恋人にはなれないよ。冷えた色をその端正な顔に湛えた臨也が、俺に向かってつまらなさそうにそう告げる。

「どうして、折原くん。どうしてそんなこと言うの」

より一層涙まじりになった彼女の悲痛な声に、俺は耳を塞ぐ手に力を込める。それはもう罪悪感などではなく、もっと利己的で、自らの保身に走ったものだった。
───聞きたくなどない。
けれど俺のこの両耳は、臨也の声をなにひとつ洩らすまいと、そのすべてをはっきりと捉えてしまうのだ。
どうして。その問いかけに、残酷なほどに冷えた声は答える。

「それは、君が───」

君が。






そんな、随分と昔の夢を視た。





スカボローの市で
待っている 1
20100522