「静雄、君にお願いがあるんだ」

嫌な予感しかしなかった。

そんな風に直感的に顔をしかめた自分は間違ってはいないはずだ。
目の前の、笑顔だけは一見穏和で誠実そうな同級生は、しかしなかなかどうして油断ならない人物ではある。彼、岸谷新羅が「お願い」などというものをする際、その九割九分九厘は彼と同棲しているらしい女性に関することなのだと、静雄はこれまでの経験からよく知っていた。そして彼がその女性に骨の髄まで惚れ込んでいて、彼女に関するすべてに対する強情さや粘り強さがいかに屈強なものであるか───静雄は、嫌というほどに理解していた。
つまり新羅の言うところの「お願い」とは、懇願や頼みなどという謙虚なものではなく、ほぼ「命令」や「強制」といったものに近いそれなのである。
恋する男の力には底知れないなにかがあり、齢十六にして池袋最強説がまとわりつく平和島静雄でさえ、その力の前では為す術がないのだった。

「……なんだよ」
「了承してくれたんだね? ありがとう静雄! ああ僕は幸せ者だなあ君という素晴らしい友を持つことが出来て!」
「いいからさっさと言えよ」

まだ了承していないだとか素晴らしい友じゃなくて便利な友の間違いじゃないのかだとか、言いたいことはたくさんあった。あったのだが、静雄はそれをこの男にぶつけ、放課後で人の少なくなった教室に机と椅子その他もろもろの台風を巻き起こしてやりたくなる衝動を堪えて至って素っ気なく答えを促す。
そんな本能に対して精一杯の忍耐力で対抗する静雄に、しかし、嬉しそうに笑う新羅が口にした「お願い」は、その努力のすべてを水の泡にしてしまうものだった。

「あのさ、今日これから君の家にお邪魔させてもらいたいんだ!」

「……………………あ?」

数オクターブは低くなった、地を這うような静雄の声。しかし新羅は気づかない。
目の前の友人のそんな著しい変化に気づかない彼は、そのまま興奮を隠せない様子で静雄に向かってマシンガントークをぶっ放す。まだ教室に残っていた数名の生徒は、静雄の表情とそのこめかみにしっかりと浮き上がっている青筋を見てそそくさと避難をはじめた。
ふたりきりになった閑散とした教室と、その空間に冷え冷えと満ち溢れる殺気に、だが、やはり新羅は気づかない。

「今日はなんとセルティが僕に手作りの晩ご飯を振る舞ってくれるんだ! それでね、作ってるとこ見られるのは恥ずかしいから、出来上がるまでは帰ってくるなって言われててさ。まったく照れ屋なんだからセルティは………まあ、そんなところが可愛いんだけどね!」
「………」

めきっ。

静雄が腰掛けていた椅子の足がひしゃげる音がした。
新羅は───気づかない。

「それで、今日はまだ暫くは家に帰れないんだ。今日は半日授業だったから早く授業が終わって時間が結構空いてしまってね。けれどセルティの手作りご飯が待っているのに喫茶店やファーストフード店で時間を潰すなんて言語道断だろう? そこで考えたんだけどね、せっかくだし、この千載一遇の機会に兼ねてから一度は招待してもらいたいと思っていた君の家にお邪魔させてもらいたいなーなん……ってげぼぶほああ! ………な、ななななにをするんだい、しず……って、え……? ちょ、静雄、教卓はやめ……………うぎゃああああああっ!」

───その日、とある教室の窓から教卓と眼鏡をかけた少年がすさまじい勢いで吹き飛んでいくのを目撃したと、後に数名の生徒は語ったのだった。





 ×





とりあえず「ああ、セルティ……来てくれたんだね、私の愛する君よ……」とぶつぶつ呟きながら虚空に手を伸ばす新羅を保健室に放り投げて、静雄は帰路についていた。
新羅が自分の家に……というよりも、静雄の同居人、もっとくわしく述べるならば、平和島静雄の保護者という立場にあたる人物にちょっとした興味を抱いていることは以前から知っていた。静雄が会わせまいとその話題を避けるのが面白かったのか、それによって却って変に興味を掻き立てられたのか──恐らくその両方ではないかと静雄は睨んでいる──新羅はここ最近なにかと家のことを探ろうとしてくるのだ。
新羅と静雄は小学生時代のクラスメイトだった。
小学生にして既に人並み外れた怪力を持っていた静雄と、一般的な小学生に見えて当時からかなりの変わり者であった新羅は、揃って周囲から浮いた存在であり、なにかと共に過ごすことも多く、親友とまではいかずとも、それなりに仲の良いふたり友人同士だった。
しかし静雄が小学五年生に上がったばかりの頃、彼は突然池袋にあった小学校から新宿の小学校へと転校してしまい、その後、中学もそれぞれ別の学校へと入学したことで互いになんとなく疎遠になってしまっていた。わざわざ連絡を取り合ってまで会うこともなく、それほど住む場所は離れていなかったものの、偶然街中ですれ違うこともなく、気づけば五年の月日が経過していた。

───あれ、もしかして静雄くん?

静雄が晴れて通うこととなった高校、来良学園の入学式で、そんな風に最初に声をかけてきたのは、身長が縦に伸びただけでそれ以外はまるで昔と変わらないように見える新羅だった。
久しぶり、随分背が伸びたんだね、髪も金に染めたんだね似合っているよ。
五年のブランクを感じさせない気軽さで静雄に話しかけてきたその男は、奇しくも静雄と同じクラスで、それからまたふたりがつるむようになったのは極々自然ななりゆきだった。高校でもまた、ふたりはどこか周囲とは一線隔てた場所に立つ存在として認識されていた。

───君は、随分と変わったよね。

新羅がにこにこと笑みを浮かべながらそう言ったのは、高校生活にもある程度慣れてきたゴールデンウィーク明けのことだった。
連休明けのせいかどこか気怠い空気が漂う教室で、焼きそばパンをかじりながら、静雄はまったく自分では自覚していなかったその指摘に首を傾げたのをよく覚えている。

───そうか?
───そうだよ。身体的に成長という大きな変化を遂げ、今尚その成長過程にあることはもちろんだけれども、俺が言いたいのはもっと内面的な部分……そう、精神面での変化についてかな。
───……もっと簡単に話せ。
───わっ、ちょ、ストップストップ! ………、……はあ、君はそろそろその周囲のものを何でも持ち上げて投げつけようとする癖をどうにかした方がいいよ。つまりね、僕が言いたいのは、君が───……


そこまで思い出したところで、静雄はいつの間にか自分が自宅のマンションの前まで到着していたことに気づいた。
すっかり慣れた手付きでオートロックを解除し、エレベーターに乗り込んで最上階へと向かう。
独特の浮遊感に身を委ね、制服のポケットから鍵を取り出す。それには静雄の保護者がふざけて付けた猫のストラップがぶら下がっていて、それを無意味に揺らしながらじっと時間を持て余す。このマンションに引っ越してきて今年で五年目、静雄はいつも、この奇妙に長く感じる時間を持て余していた。
ふと、今朝、携帯電話を片手にどこの国の言語かもわからない言葉をまくし立てながら静雄に朝食のカフェオレとトーストを差し出してきた“保護者”のことを思い出す。大きなくまが出来ていたな、と思う。きっと昨晩は寝ずに仕事をして、そのまま朝日を迎えたのだろう。
静雄としてはそのまま襟首を引っ付かんで寝室のベッドに押し込んでやりたい衝動でいっぱいだったのだが、基本的に静雄に自由を与え、束縛や規則を好まない“保護者”がたったひとつ静雄に提示した「仕事の邪魔をしたり、口出ししたりしてはいけないよ」という約束を思い出し、彼はその衝動を懸命に殺した。
……電話が切れたらその瞬間にベッドまで引っ張っていってやる。
と、程よくこんがり焼かれたトーストにかじりつきながらその機会を虎視眈々と狙っていた静雄だったが、結局遅刻ギリギリの時間まで粘ってもその通話が終わる気配はなく、ジェスチャーでさっさと学校に行けと促してくる“保護者”に、渋々と静雄は家を出たのだった。

───もしまだ仕事なんぞしていようものならば、気絶させてでも寝かせてやる。

そんな物騒な決意を固めると同時にエレベーターの扉が開き、静雄はまっすぐに自宅のドアへと向かった。





 ×





はたして、その人物はパソコンやらなんやらのコードが張り巡らされ、書類が床にぶちまけられていて足の踏み場もないような室内の真ん中で、まるで海に浮かぶ孤島のようにぽつんと存在していた。

「………寝る時はちゃんとベッドに行けってあれほど……」

忌々しく呟く静雄の声に、しかし返ってくる言葉はない。
床同様に乱雑にものが置かれたデスクに突っ伏して、彼───折原臨也は、まるで死んだように眠っていた。電源が入ったままのパソコンから響く稼働音にかき消されて、彼の寝息は聞こえない。
静雄は足でコードや書類を隅に寄せながら彼の元まで辿り着き、至って当然であるかのようにその身体を抱き上げた。数十分前に教卓を荒々しく投げ飛ばした腕は、まるで壊れものを扱うような慎重な手付きで臨也の背を支え、膝裏にもう片方の腕を通す。自動販売機を軽々と持ち上げてしまえる静雄には、少し力を入れただけでぽきりと折れてしまいそうな臨也の身体は、ほとんど重さを感じさせない。今朝静雄が登校した後も、きっと彼自身は朝食をとらずに仕事を続けていたのだろうと考えると同時に、なんとも表現し難い思いが込み上げる。
電源を付けっぱなしのパソコンはそのままにして、静雄は臨也を抱き上げたまま寝室へと向かう。
どうもここ数日使われた形跡のないベッドに、このことに関しては後でじっくり詰問してやらねばなるまいと眉を顰めつつそっと彼を寝かせれば、冷たいシーツの感触に意識のない身体がびくりと揺れた。それでも目を覚ます気配のない臨也の頭のすぐ隣に手を付き、半ば覆い被さるような姿勢でそのどこか青白い顔を覗き込む。今朝静雄が見つけたくまはまったく薄くはなっておらず、不健康な生活のせいか、形のよい唇はわずかに乾燥して表面がかさついていた。
つ、と親指の腹でそこをなぞる。微かに開いた口唇の隙間から漏れる吐息が指に触れ、静雄は衝動的に臨也のその乾いた唇をちいさく舌先で舐めた。あえて唇同士が触れ合わないように、かさついたそこを潤わせるように、角度を変えながら何度も何度も舌先を這わせる。
臨也がくすぐったそうに顔を背けるのを許さず、やんわりと頬を包み込んで逃がすまいとする。

───君は、随分と変わったよね。

なぜ、そこで新羅の言葉を思い出したのか。
目新しいものを珍しがる子どものような、それでいて懐かしく馴染み深いものを眺める老人のような、そんなちぐはぐな新羅の視線、言葉。臨也と出会う前の静雄を知り、そして現在の静雄を前にした彼は言う。
きみは、ずいぶんとかわったよね。

静雄はそっと身体を起こし、臨也から離れ、胸元まで掛け布団を引き上げてやった。
自身の唾液で湿った唇が目に毒だ。安心したように無防備であどけない寝顔がアンバランスで、それがひどく静雄を駆り立てた。これ以上は危険だと、本能と理性が手を取り合って静雄に歯止めをかける。

「……おやすみ、臨也」

最後に艶やかな黒髪を一撫でして、静雄は寝室を後にし、彼を起こさないように扉をそっと静かに閉じた。そしてその扉に力なくもたれかかり、遂にはずるずると床に座り込む。

いつからこうなってしまったのだろうと、いくら考えても、記憶を遡ってみても、静雄は答えを見つけられないでいる。
臨也が自分以外の人間と視線を交わすのが嫌だ。言葉を交わすのが嫌だ。最初はそんな拙い、幼い独占欲だけだったはずだ。それとも、そう思った時点で、もう既に手遅れだったとでも言うのだろうか。ならば、出会ってしまったことすらもはや罪だった。
自分と臨也以外の人間がこの家に立ち入るなんて、静雄には耐え難いことだった。本当は仕事相手ですら、この領域に侵入してくることすら厭わしい。
静雄は、新羅を嫌いだと思ったことは一度もない。確かに、変わった人間ではある。静雄の力を目の当たりにしても、静雄から離れていかないくらいには変わり者だ。殴りたくなることも多いが、好意の方がずっと多い、大事な友人だ。
だが、いくら新羅でも、駄目なものは駄目だった。彼が既に同棲している女性に、それこそ異様なまでに執着していることを知ってはいても、それでも、駄目なのだ。
誰かに臨也を見られること、臨也が誰かを見ること、たったそれだけのことが、どうしてこんなにも恐ろしい。日に日に膨らんでいく得体の知れないこの感情がどこに行き着くのか、静雄にはわからない。わからないから恐ろしい。あんなにも簡単に壊れてしまいそうな臨也に、なにをするかわからない自分が、なによりも怖かった。

結局、静雄はその日、夜になって臨也が目を覚ますまで、まるで番犬のようにずっとそこで膝を抱えたまま座り込んでいた。





 ×





───つまりね、僕が言いたいのは、君が人間という一個人に執着を見せるようになったっていうことさ!
───だって、あの頃の君が執着するものといったら、プリンだとか牛乳だとか、そんなものばかりだったんだから。
───……ふふ、そんな顔をしないでくれよ。友人として嬉しいんだよ、僕は。
───会ってみたいなあ、君をそうさせた奇々怪々な人物に。とても興味が沸くね。



───あはは。
───冗談だよ、冗談。まあ、嘘ではないけれどね……って、うわ!
───……もう、本当に冗談が通じないなあ。うん? 自業自得? はは、そうかもね。
───……………。
───……ねえ静雄。大丈夫だよ。誰も、君からその人を取り上げたりなんてしない。



───だから、そんな怖い顔をしないでくれよ。





I'm sorry,xxx.



新羅くんが空気を読めたり読めなかったり^▽^←

2010/12/24
一部加筆修正