「ナナさん。護身術を習得してみませんか?」

 朝8時前。
 もうすっかり慣れた車内で冷房の涼しさに息をついていると、隣でアイスを食べていた竜崎が唐突に言った。

「護身術…?」
「はい。そうした術を身につけていれば、私が駆け付ける前に万が一のことがあった場合……できるだけ速く行けるよう心掛けてますが…それを避けられるかもしれません。ナナさんも、習得していた方が安心でしょう?」
「うん……ないよりはあったほうがいいけど…」

 渋井丸に捕まったことを思い出し、ナナは少し顔を曇らせる。あのとき、男女の力の差を痛感した。
 護身術を身につけていたら、教室に引かれる前に逃れることができたかもしれない。そうしたら、あんなことも…。

 ぽんと頭に乗った手の感触で、現実に引き戻される。
 そのままゆっくりと撫でられ、その気持ちよさに目を細めた。こうして落ち込んでいるときなどに、よくしてくれる仕草。最初はぎこちなかった動きも、この一ヶ月で慣れたものになっていた。

「……ありがと。大丈夫だよ」

 そう笑みを浮かべれば、竜崎はほっとしたようにかすかに微笑み、手を離す。それからアイスの溶けたところを一舐めして言った。

「では、学校についたらさっそく頼みに行きましょう」

 (あ、竜崎が教えてくれるんじゃないんだ…)

 心のどこかで期待していたナナは、少し落胆する。でも、もし教えてもらうにしても、彼と組み合うのは少し困るような。
 ふと車が止まり、ワタリがこちらを振り返った。

「着きましたので、少々お待ちを」
「あ、はい」

 ワタリは先に降りて、ナナの側のドアを開けてくれた。ナナは礼を言いながら、生徒たちのざわめきの中へ降り立つ。登校してくる皆からの注目も、大分慣れてしまった。
 あれから、竜崎が学校に行く行かないに関係なく、ナナは毎日リムジンで送迎されている。竜崎は少し心配しすぎだと思ったが、彼と過ごす時間が増えたのは嬉しい。不満があるとすれば、海砂たちと部活帰りに遊べなくなったことか。

 反対側から竜崎が降りると、ワタリは「行ってらっしゃいませ」と二人にお辞儀する。ナナは「行ってきます」と笑みを返し、竜崎と正門をくぐった。
 白い群れの中に紛れるナナとは違い、隣の黒い学ランは当然紛れず、とても目立つ。さすがに暑いのか、前ボタンを全て開けていて、白い長袖が見えていた(もちろん校則違反だ)。
 わいわい喋る生徒たちの中で、ナナは自分と歩調を合わせる竜崎に問いかけた。

「それで、誰に頼みに行くの?」
「副担任の南空先生です。先生は武道や武術に精通していると聞いたことがあります」
「そうなの? 初めて聞いた…」

 昇降口に入り、下駄箱にローファーを入れながら、ナナはスリッパのように足を抜く竜崎を仰ぐ。
 前に見ていた個人情報に、そう書かれてたんだろうか。だとしたら、ずいぶんしっかり目を通してたんだなと軽い嫉妬がわきあがるが、体育祭のときに名前を忘れていたことを思い出し、薄れていく。

 (でも、そこまで見ておいて、どうして名前を忘れるんだろ? ……まあ、考えても仕方ないか)

 竜崎の頭の中など、想像することすらできない。そう自分を納得させると、スニーカーを入れた竜崎が、「今何分ですか?」と聞いてきた。左腕の時計を見れば、長針はローマ数字の『12』を指している。

「8時だよ、ちょうど」
「じゃあ、間に合いますね。今から職員室に行きましょう」

 そう言って生徒たちとは反対方向に行こうとする竜崎を、ナナは慌てて止めた。

「間に合うって…SHRは5分からだよ?」

 足を止めた彼は、わかってますと頷く。

「職員室に月先生がいれば、私たちの姿を確認して欠席にはしないでしょうし、そんなに時間はかかりませんよ」
「ほんとに、かからない…?」
「はい。私を信じてください」

 そう言われたら行くしかなく、ナナは一緒に反対の階段を上がって渡り廊下を通り、職員室前へ出た。電話の音と、朝の慌ただしいざわめきが中から聞こえてくる。

「入りますよ」
「うん」

 竜崎は職員室の戸を三回ノックし、「失礼します」と入っていった。それに続けば、忙しそうな教師たちの姿が目に入ってくる。彼らとすれ違いながらすたすた歩く竜崎の後ろを、挨拶しながらついていき、二年のデスクへ近付いた。
 南空は月の向かいのデスクに座り、きれいに整頓された机の上で、日誌にペンを走らせていた。

「おはようございます、南空先生」

 竜崎が呼び掛けると、彼女はペンを止めてくるりと椅子を回し、そして意外そうに目を瞬かせる。ナナもおずおず挨拶した。

「…おはようございます、先生」
「おはよう…二人とも、どうしたの?」
「少し、お願いしたいことがありまして」
「…何かしら」

 竜崎の言葉に、南空は無造作に長い黒髪を耳へかける。その仕草が大人っぽく、ナナは思わず見惚れてしまう。男子生徒はもちろん(松田も)、女子生徒からも憧れの的である彼女は、外見だけでなく、その内面――凛とした姿勢や、厳しさの中にある優しさ――も美しいのだ。

「佐藤さんに、護身術を教えてくださいませんか?」

 竜崎は特に何も思わなかったのか、平然と言う。…彼の好みは、今一よくわからない。

「佐藤さんに護身術を?」
「はい」
「……確かに、必要かもしれないわね…」

 南空は眉根を寄せ、気遣わしげにこちらを見る。ナナは大丈夫だと示すために微笑もうとしたが、その前に、ぽふりと頭に手が乗った。

「…受けて頂けますか?」
「…そうね……あなたの頼みはできるだけ受けるよう、校長から直々に言われているし…私の都合で、時間が限られてしまうけれど……佐藤さんがそれで構わないなら」

 (え、いいんですか…?)

 こんなにすんなり受けてもらえるとは思わず、ナナは驚く。竜崎はこの学校に、一体どんな権力を持ってるんだろうと不思議に思いながら、南空に頷いた。

「はい。部活の時間と被らなければ……」
「その時は部活を休むので、大丈夫です」
「えええ」

 遮られた言葉に隣を向けば、「テニスなら、あとでいくらでも教えます」と軽い口調で言われる。

「でも海砂が、三人で組まないといけなくなっちゃう…」
「…弥さんは、月先生と組めるかもしれませんよ」
「あ、そうかも…」

 逆に喜ぶかもしれない。
 少し空しさを感じていると、今度は慰めるようにぽんぽんと撫でられる。
 ナナは頬を緩ませながら、穏やかな顔をしている南空へ頭を下げた。

「よろしくお願いします、先生」




 その日の放課後は南空が空いているということで、さっそく講習をすることになり、二人は武道館の片隅、剣道部と柔道部の邪魔にならないところで向かい合っていた。黒のTシャツに黒のメッシュパンツという普段の授業の服装をした南空は、竹刀の音と掛け声が響く中、凛と通る声で言う。

「護身術は、相手を打ち負かすことが目的ではなく、あくまでも自分の生命と身体を守る事が最優先事項よ。だから、日頃から危険な状況に身を置かないようにする心構えと、行動をとることが大切」

 「はい」と向かいに立つナナは頷く。その緊張した面持ちに、南空は安心させるような笑みを浮かべた。

「そんなに固くならないで。リラックスするのも大事よ」
「あっ、はい」

 ナナはハッとして、自然と入れていた肩の力を抜く。南空の前だということもあるが、主な緊張の原因は、二人の横の壁際にしゃがんでいる竜崎だった。長袖ジーンズ姿の彼は、曲げた膝の上で腕を組み、じっとこちらを眺めている。午前中に帰ったかと思えば、講習を見るために、またやってきたのだ。
 意識するナナに対し、南空はまったく動じることなく、再び口を開く。

「じゃあ、まずは手を掴まれた場合の切り方をやってみましょう。左腕を出して」

 言われた通り左腕を前に出せば、その手首を掴まれた。

「そのまま少し肘を出すようにして、顔の横まで上げて。勢いよく、手を振りほどくように」

 頷いて、しゅっと勢いよく肘から先を上げれば、手は簡単にほどける。
 「おお…」と感嘆するナナに、南空は微笑んだ。

「こ れが一番簡単な手の切り方。もう一つの方法は…今度は私の腕を掴んで…こうして相手の手の下の外側から腕を回して(南空はゆっくりと円を描くように腕を回す)、少し手を上げる。そして相手の手を巻き込むように、内側へ回す…(少し力を入れられ、手は外れた)。相手の手を中心に、掴まれている手を360度回 して絡ませればいいの。この二つが効かなかった場合は打撃。まず掴んできた右腕を掴まれている左手で掴んで(南空がナナの右腕を掴む)、相手の右腕を固定する。その左手で相手の右腕を引き込むと同時に、左足を斜め左に一歩進ませる(南空の左足が、ナナを囲うように斜め前に出た)。こうして相手との距離を縮め、利き手の逆の足を出す事によって、利き手の攻撃は効果的になるわ。それから右ひじをボクシングのフックのように、相手の顔面…狙うのは鼻ね、痛みはあまりなくても、涙が止まらなくなるから…を打って振りぬく(右肘が鼻の辺りで止まる)。そして、瞬時に逃げる…(寄せていた肘が戻される)。肘打ちはよく使うから、今日はその練習もしておきましょうか。もちろん間接技や骨折り技もあるけれど、一通り対処の方法を覚えて、余裕があるようだったら少しやって みましょう」
「はい…!」
「……南空先生」

 唐突に掛けられた声に、南空は竜崎へ目を移す。竜崎は座ったままひょうひょうと言った。

「すみません。余裕のあるなしに関わらず、間接技も一から佐藤さんに教えていただけませんか?」

 南空はかすかに眉根を寄せる。

「そうなると時間が掛かってしまうわ。夏休み前までには、とても教えきれないでしょう…」
「では期間を延ばして、四ヶ月ではどうでしょう? できますか?」
「……ええ、四ヶ月なら…でも、佐藤さん次第ね」

 ちらと視線を向けられ、ナナは不安から首を振ろうとする。が、

「佐藤さんは飲み込みが早いので、大丈夫です」

 また遮られてしまった。

「え、わたし不安なんだけど…」

 そう訴えると、彼はまた「大丈夫です」と涼しい顔で言う。

「骨格を理解すれば、すぐに覚えられます。間接技は体格差や体力の差があっても有効なので、習得していて損はないですよ」
「…そっか……」

 渋々ながらも納得するナナを確認し、竜崎は南空を仰ぐ。

「そういうことで、お願いします。南空先生」
「ええ……(毎日佐藤さんに教えろと言うことね……)」


20130902
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