聞き慣れない方言。白と赤の相合い傘。
 机の出す騒音。揺れる給食袋。ひび割れた眼鏡。嘲笑。揶揄。笑い声。回る、回る。この閉鎖的な世界の中で。





 目を開けると、いつもの白い天井が飛び込んできた。ついで、窓を叩く雨の音が耳に入ってくる。そのまま、ゆっくりと瞬いた。懐かしい、夢を見た。あまり思い出したくはない、過去の夢を。彼は、覚えているだろうか――いや、覚えてない方がおかしい。
 ………やめよう。こんなことを考えても、気分が落ち込むだけ。
 頭を振り、ベッドを下りた。





 雨は、学校についた後も降り続けた。

「今日休みなのは…竜崎だけだな」

 教壇に立つ月の声に、ナナは窓から隣の席へ目を向ける。今日も休み。竜崎の言葉通り、時計をもらった日からずっと休み続けている。ナナは左肘をつき、鈍く光る鎖をぼんやり見つめた。言われた通り、外に出るときはいつも時計をつけている。光を反射しなければあまり目立たないので、特に教師たちから注意されない。

「それと――」

 意味深に区切られた月の言葉に、慌てて前へ意識を向けた。

「今日からテスト期間だ。期末試験、頑張れよ」





 期末試験前は、中間の時よりも皆のピリピリ度が違う。
 小声で話したとしても誰かに睨まれそうな雰囲気漂う図書室で、ナナは試験勉強に取り組んでいた。あまりこの空気が好きではない。でも、家に帰れば勉強せずごろごろしてしまうことは目に見えていたので、刺激のある図書室に来たのだった。
 ナナは指定の赤い問題集を開き、サラサラと計算式を走らせていく。数学は解き方がわかっていると、クイズを解いているみたいで楽しい。わからなくても、パズルのピースをあれこれ嵌めてみるように色々な角度から問題を見て、式を当てはめていけばいい。そうして一つしかない答えに辿り着けた時は、気持ちのいい達成感が得られる。
 あれだけ苦手に思っていた数学を面白く感じるようになったのは、竜崎のおかげだった。彼に六日間勉強を教わってからは、問題を解くスピードが速くなり、毎日のように出る課題も楽に感じるようになった。もちろん、数学だけでなく他の科目も。

 (英語は発音からリスニングまで徹底的に仕込まれて、一時期ノイローゼになったけど)

 時間がなかったせいもある。長期的に生徒を見るならば、竜崎は塾講師に向いているかもしれない。

 (でも、あの頭脳をもっと生かす職に就いたほうがいいかも)

 というと、どんな職業がいいだろう。解き終わった問題集を閉じて、ぼんやり考えてみる。
 科学者…はあまり想像できない。製菓会社の研究員ならわかるけど。

 (でも、きっと警官になるのかな…)

 前に竜崎が言った言葉を思い出し、ナナはうーんと心の中で唸る。竜崎に警官は似合わない。というより、竜崎が何らかの組織のもとで働く姿を想像できない。どちらかというと、組織を束ねるほうが向いている。

 (例えば――探偵とか?)

 浮気調査だとかそういうのではなく、コイルのように(本当にいるのかわからないけれど)警察の見つけた証拠をもとに、犯人を特定する探偵。あ、いいかもしれない。うん、すごく合ってる。
 竜崎のイメージに合致する職業を思い付いたナナは、すっきりした気分で立ち上がった。下校時刻を知らせる音楽が掛かったのだ。


 雨はすでに止んでいた。窓から射し込む橙色の光がリノニウムを照らし、人気のない廊下をさらに寂しく見せる。蛍の光が流れていることもあり、ナナは少し感傷的になりながら、辞書を置きに行くため教室へと歩く。ぼんやりと染められた廊下を歩きながら、ふと今日の夢のことを思い出した。同時に、当時の苦々しい記憶がよみがえる。

 京都へ転校した先の小学校では、学級崩壊やいじめが多発していた。自分の入ったクラスも例外ではなく、暴力を伴ういじめがあった。教師ですら見て見ぬふりをする中で、唯一いじめを止めようとしたのが、同じクラスで委員長だった魅上だ。苛められている子を庇って、痣や傷を作っていた彼を放っておくことができず、小さな救急箱をランドセルの中に忍ばせては、よく彼らの手当てをしていた――……。


 強く、手首を握られる感覚で我に返った。

「っ、!」

 あっと言う間もなく、教室から伸びる太い腕に、強い力で引きずり込まれる。持っていた辞書が落とされたかと思えば、目の前でピシャリと戸が閉められた。

「ひっ…!」

 驚いて声を出す寸前、武骨な手に口を押さえ込まれる。後ろで肌が泡立つような、甲高い声が囁いた。

「おっと。頼むから騒がないでくれよ、ナナちゃん」

 渋井丸だ。暗幕が閉められているらしく顔はよくわからなかったが、特徴的な声で悟る。
 どんなに力を入れても、締め付ける腕はびくともせず、内心焦りながらも、弱々しいところを見せたくなかったナナは、渋井丸のぼんやりとした輪郭を睨んだ。しかし渋井丸は下卑た笑いを溢す。

「へへ、いいねえ、その目…そうこなくちゃ。ま、恨むんなら嬢ちゃんの彼氏を恨むんだな」

 (彼氏?)

 そんなものはいない。人違いしてるんじゃないかと渋井丸を見上げる。そしてふと、ある考えが浮かんできた。

 (! もしかして)

 竜崎のことを言ってるんだろうか。だとしたら説明がつく。ミサたちから広まった噂を聞いて、竜崎への恨みを晴らしに、手を掛けようとしているのだ。

 (どこまでも最低な…!)

 これまで以上に力を込め、必死に抜け出そうとするが、太い腕はまったく緩まない。

「ハイハイ、大人しくしてようね〜。こっちはずっと病院にいてたまってんだ…嬢ちゃんもさっさと済ませた方がいいだろ?」

 囁きながら耳を舐められ、嫌悪感からふつふつと肌が粟立つ。口を押さえてないほうの手がスカートの中へ伸びようとするのを見て、冷水を浴びせられたようにぞっとした。

 (嫌っ、!)

 手足を動かし、必死に暴れる。同時に細い鎖が手首のところでジャラリと揺れた。その感覚にハッとして、リューズに手を掛けようとしたその時。教室の戸が開き、光と共に誰かが入ってきた。

「誰かいるのか……っ、何してる!?」

 大きなシルエットと長い黒髪――魅上だった。




 渋井丸は太ももに触れていた手を止めると、ナナを離し舌打ちした。

「またテメーかよ」
「……渋井丸」

 ナナはとっさに魅上のほうへ駆け寄る。魅上は彼女を背後へ追いやり、ギリと歯ぎしりした。眼鏡越しに自分を睨み付ける彼に、渋井丸は鼻で笑う。

「何? やろうっての? はは、悪いけどこっちは病院上がりだから後に…ぶはっ」

 相手にせず笑いながら出ていこうとする渋井丸を、魅上が勢いよく殴り付けた。大きな音と共に、渋井丸は机ごと倒れこむ。突然のことに驚く彼の上に魅上が跨がり、猛然と殴りかかった。鈍い音と荒い呼吸音が、静かな教室内に響く。
 その思いがけない行動を唖然として見ていたナナは、渋井丸の声が聞こえないことに気付き、恐る恐る魅上の背中に呼びかけた。

「…やめて、もう気絶してる……」

 魅上はナナの言葉に反応せず、サングラスが割れている渋井丸の顔を淡々と殴り続ける。ナナは思わず彼の振り上げた腕にしがみついた。

「お願い、やめて! このままじゃ死んじゃ…!」

 言いながら魅上を見上げ、背筋が凍りついた――無表情だったのだ。何の怒りも、憎しみも、殺意も感じられない、只の無。
 絶句するナナに気付いたのか、いないのか。魅上は振りかぶった腕をゆっくりと下ろした。

「…ああ、そうだな」

 そして何の感情のない声で呟き、床に腰を下ろす。隣に膝をついていたナナは、魅上の腕に回した手を解き座った。目の前に横たわる渋井丸の顔は、影になっていて見えない。重苦しい沈黙が流れる。本来ならば礼を言わなければならなかったが、今は話しかける気になれなかった。見てはならないものを、見てしまった気がした。

「…竜崎か?」
「っ………」

 沈黙を破ったのは魅上だった。ナナは体を震わせ、彼の視線から逃れるようにうつむいたまま、手首に付けた時計を見つめる。

「…どうして奴と親しくする? 悪が悪を呼び、こうして君が巻き込まれる…悪循環じゃないか」

 恐かった。
 それでもナナは否定しようと、ゆっくり首を振る。

「……竜崎は、悪じゃない…」
「君に害を与える点で、コイツと同罪だろう」

 そう言って、魅上は床に転がる渋井丸を指す。

「……それでも違うと言うのか?」

 ナナは、無言で頷いた。





 (何故否定する。何故私と目を合わさない…)

 ナナが竜崎に好意を持っているからだという事実を、魅上は受け入れられなかった。頭に血が上り、ナナの肩を掴んで強引に顔を上げさせる。

「何故奴をかばう? 私に……何を震えている…」

 手から伝わってきた震えに気付き、魅上は思わず呟いた。ナナは涙と恐怖の色を浮かべた目でこちらを見上げる。

「……さっきの魅上くんが、恐かった……無表情で…死んだら死んだで構わないみたいに、殴って…」
「…それは」

 震え声で言う彼女に、魅上は衝動的に口を開いていた。自分は何を言うつもりだろう。怒りに我を忘れていたから……違う。常々考えている思想からだ。
 普段の魅上だったら、絶対に言わなかっただろう。言っても誰にも理解されないことはわかっていたのだ。
 だが今の彼は、自分の思想を伝えようとした。諦めと、もしかしたらという希望を持って。






「……悪は削除されればいい、と思わないか?」
「…な、に……?」

 ナナはキュッと眉を寄せた。

「…中学の頃、虐めをしていた奴等と母が事故で死んでから、ずっと思い続けていることだ。悪事をすれば報いがある、そうあるべきだと」

 彼の言う削除とは、死の事か。
 理解すると同時にぞっとする。そんな考えを真顔に話すこの人は、誰だろう。

「私の夢は今も変わらない。だが検事として悪を裁くだけでは、不十分だと思うんだ…皆、意識の底で悪が消えることを願っている。何も…自分で手を下そうとは思わないが……なあ、君はこの考えが間違っていると思うか? 思わないだろう?」

 同意を求めるように、魅上は顔を近付けてくる。眼鏡の奥のその瞳は、薄暗い中で妙に光っているように感じた。目をそらしたくなるのを必死で堪え、ナナは唇を震わせながら尋ねる。

「…待って……お母さんは、何をしたの?」
「……母は私の考えを否定した。味方ではなく、敵だった」

 淡々と話す彼に愕然とする。
 ナナの記憶が正しければ、魅上は母子家庭だったはずだ。女手一つで自分を育ててくれた母親でさえ、死に値する人間と見なされてしまうのか。そんな、下らない理由で。ナナは衝動的に発していた。

「…おかしい……間違ってる、そんなの…!」






 首を振って否定するナナに、魅上は強い失望を覚える。
 その強い正義感から嘘をつけなくなった、校内で最初に味方してくれた彼女も、母と同じく否定するのか。他の人間と、同様に。

 何かが切れる、音がした。



「……君は、変わってしまったな…」
「や…来ないで……」

 狂ったような笑みを浮かべ、のしかかるように近づいてくる魅上から逃げるように、ナナは床に手をつきずるずると体を後ろに下がらせた。やがて壁に背がつき、どこにも逃げ場がなくなる。魅上はナナの恐怖に満ちた顔を、食い入るように、憎むように、愛しむように見つめながら、彼女の頬へ手を伸ばした。柔らかくきめ細やかな肌の感触に目を細める。ずっと、ずっと、彼女に触れたかった。

「い、や……」

 瞳から零れる涙の美しいこと。魅上はナナの髪をそっと耳にかけ、囁く。

「君を変えたのは誰だ? 担任か? それとも竜崎か?…」

 ナナはしばらく口を閉ざしていたが、やがて、震える声で応えた。

「……わたし…わたしは、変わってない……変わったのは、あなた…」
「何を…」
「いや……やっぱり、違う……あの頃から、その思想の断片を持ってたんだとしたら…わたしは、あなたの上辺しか見てなかった……」

 ごめん、ね。

 真摯に自分を見つめ、謝罪の言葉を紡ぐ彼女に動揺するが、

「…もう遅い」

 手を頬から首筋へと滑らせ、やんわりと喉元を押さえる。細い首だ。片手だけで十分かもしれない。
 抵抗を始めたナナを嘲笑い、そして、ぐっと力を込めた。

「ガハッ…!」

 同時に空気を取り込もうと開く口と、寄せられる眉。自分が彼女にそんな表情をさせているのだと思うと、ぞくりと興奮が這い上がってくる。掌を打つ血脈。彼女の生死を握っているのは私だ。竜崎でも、ナナ自身でもない。他ならぬ自分。
 必死に抵抗していたナナも、力を失い、だらりと首をもたげる。死んだのではない。気を失っただけだ、まだ脈は打っている。ならばもう少し――

「ぐっ…!?」

 更に力を掛けようと身を乗り出した瞬間、突如右脇腹に強い衝撃と痛みを感じた。その勢いで手を離し、机ごと倒れこむ。

 魅上の背後にいた者――竜崎は、それに見向きもせず、床に転がる少女に屈んだ。

「ナナさ―!?」

 身動ぎもしないナナに一瞬背筋に冷たいものが走るが、すぐに手首をとって確認すれば、弱いながらも心臓の鼓動を感じ、目も眩むような安堵感が身内に広がる。微かに息もしているようだ。

 (気を失っているのか……)

 魅上は本気でナナを殺そうとしていたらしい。沸き上がってくる激しい怒りを、ジーンズを強く掴むことでやり過ごしながら、竜崎は薄暗い教室の中へ目を走らせた。

 (そこに倒れているのは…渋井丸か……今のが魅上……)

 数秒で顛末を悟った彼は、ワタリに連絡した後、ナナの手を謝罪の意を込めてそっと握る。力のない華奢な手は小さく、それがより罪悪感を煽る。
認識が甘すぎた。己の浅慮さに腹が立つ。
 刺すような視線を向けられていたのも、魅上の呟きを聞いたのも、自分以外にいなかったのだ。
 何故装置を渡しただけで満足してしまったのか。何故依頼を受けた。渋井丸の退院日を知っていれば、魅上に一層注意を向けていれば、こんな事態にならなかったのではないか。
 後悔を不毛な事と捉える彼にしては珍しく、今考えても仕方ない事が次々と浮かんだ。

「ぐ、はっ…」

 近くから聞こえた苦しげな声に、竜崎は我に返り、ナナから目を離す。脇腹を押さえながら身体を起こそうとする魅上を捉え、強い眼差しを向けた。

「…まだ動けるのか。あばらを数本折ったつもりだったが」
「……はっ、竜崎ぃ…!」

 魅上は竜崎を睨みながら立ち上がろうとするが、やはり激痛に耐えられないのか床に膝を付く。
 竜崎はその憎悪に満ちた目に怯む事なく、じっと睨み返しながら低く言った。

「お前のした事は殺人未遂……刑法203条に該当する、歴とした犯罪だ…警察が来るまで大人しくしていろ」
「くっ…!」

 その言葉に足掻くのを止め、魅上はうつ伏せに頭を抱えた。魅上から再びナナに視線を向けた竜崎は、駆け付けてくる警官や救急隊員達の足音を聞く。ぐったりと横たわる彼女の隣に屈んだまま、薄暗い教室へ入ってきた警官達を迎えた。



20130808
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