ナナの朝は目覚ましのスヌーズ音から始まる。飛び起き、慌てて顔を洗い、朝の占いを見ながら朝食を食べ、歯を磨き最後に制服を着る。これの繰り返しだ。

「ナナー!」
「わかってるー!」

 どれくらいの時間で家を出れば間に合うかは、自分が一番よくわかっている。母の急かす声に返事しながらカバンを掴んだその時、ふと窓辺で輝くチェス盤が目に入った。不思議の国のアリスをモチーフにした可愛らしい駒たちが、こちらに微笑みかけている。前に叔父がイギリス土産に買ってきてくれたものだが、ルールを全く知らないため、完全に観賞用となってしまっていた。見ているだけでも飽きないけれど、実際に使った方が駒たちも喜ぶに決まっている。
 そういえば、と思い付く。教えてもらうにうってつけの人が、隣にいるじゃないか。
 思い立ったらすぐ行動。ナナはすぐさま駒たちを捕らえ、カバンの中へ入れたのだった。





「おはよう。突然だけど、チェス教えてくれない?」
「おはようございます…チェスですか」
「うん」

 登校してすぐにそう言い、ガタガタと隣へ椅子ごと移動してきたナナに、さすがの竜崎も少し戸惑ったらしく、

「…今からですか?」
「うん、すぐに帰っちゃうから。よいしょ」

 竜崎だけでなく、ナナも大概マイペースだった。
 特に断る理由のない竜崎は、チェス盤とともに机の上に乗せられていく駒の一つ一つを椅子の上からじっと見て言う。

「結構凝ってますね」
「ね、イギリス産だから。持ってくるのちょっと重かった…はい、どうぞ」

 駒を出し終えニコニコと微笑むナナに、置き方からして知らないのを見て取った竜崎は、黒の駒をひょいと摘んで並べ始める。ナナも見よう見まねで透明の駒を手前に置いていった。

「チェスのルールは知ってますか?」
「うん、駒の種類から教えてほしい」
「わかりました…駒はルーク、ビショップ、クイーン、ナイト、ポーン、キングの六種類あります。それぞれ動きが違うので、一つずつ説明していきましょう」
「お願いします」
「まずはルーク、戦車です。縦横に何マスでも動かすことができますが、進んだ先に味方の駒があった場合は、その手前で止まります。飛び越すことはできません。相手の駒があった場合は、相手の駒を取ることができます」

 竜崎が摘まんだ駒を見る。塔のような形をした駒だ。

「ビショップは…ハッターでしょうね。これは斜めに何マスでも進められます。ルークと同様、進んだ先に味方の駒があった場合は、その手前で止まり飛び越すことはできず、相手の駒の場合は、それを取ることができます」
「何でビショップが帽子屋なの?」
「ビショップは形が僧侶の被る司教冠に見えることからそう呼ばれてるので。元々は象だったんですが」
「へえー」
「次がクイーン。ルークとビショップの動きを合わせ持つ最強の駒です」
「おおー、飛び越すこともできるの?」
「残念ながらできません。しかしナイトならできます」
「この馬の形した駒?」
「そうです。前後左右に2マス進んで、その左右が移動場所と覚えてください」
「2マス進んだその左右…」
「はい、やればすぐわかるでしょう。次はポーン、トランプ兵ですね。これは前方向へ1マス、最初の位置からの移動のみ2マス進むこともできます。ただし目の前に他の駒があった場合、進むこともその駒を取ることもできません。斜め前に相手の駒があった場合のみ、駒を取ることができます。その時だけ、斜め前に進めることが可能です」
「駒があるときだけ斜め前…」
「最後のキングは、縦横斜めに1マス進むことができます。当然相手の駒に取られる場所へは移動できません…大体わかりましたか?」
「…うん、何となくだけど」
「じゃあ、やってみましょう。習うより慣れろです。白が先手なので、どうぞ」





「…………」
「チェックメイトです」

 二分も経たないうちに終わってしまった。

「……何だろ、なんか根本的にレベルが違う気がする…」
「そんなことはありません。私についてこれてましたし、飲み込みが早くて驚きました」
「…すぐ終わったけどね……」
「わー、チェスやってるの?」

 近くから聞こえたクラスメイトの声に顔を上げると、周りは人で囲まれていた。いつから集まっていたんだろう。驚いていると、ギャラリーの中から声が上がる。

「チェスか…竜崎、私と勝負しないか」

 黒く艶やかな長い髪が特徴的な美男子、隣のクラスの奈南川零司だった。まわりに立つ女子たちの赤い頬が、彼の美麗ぶりをよく表している。

「…構いませんが、これはナナさんの物なので」
「ああ、佐藤、いいか?」
「うん、どうぞ」
「有り難う」

 ナナ は自分が座っていた席を譲り、奈南川の隣に立った。前を見れば、ちゃっかり京子が竜崎の傍を陣取っている。奈南川との勝負は「時間がないから早指しにしよう」という奈南川の一言から、ブリッツになった。持ち時間が五分ということで、二人とも速く駒を動かし、ゲームを展開させていく。互いに引けを取らない が、竜崎の方が優勢だったようで、しばらくすると奈南川は手を止め、参ったと笑った。

「流石、天才と噂されているだけある」
「いえ、そちらこそ何か…将棋の段位でも持ってませんか?」
「いや、持ってないが趣味で将棋はやっている…すごいな、そこまでわかったのか」

 二人の勝負が始まってから観客は倍に増えていたようで、皆が口々に二人を称賛する中、近くで見ていたナナもすごい、と人知れず呟いた。当たり前だけれど、ずっと先を見通していないと、二人のように続けることすらできない。

「…そうだ、竜崎はパソコンに詳しいらしいな。ハッキングもしていたようだし」
「はあ…詳しいと言ったら詳しいですが」
「……私たちのグループに入らないか?」
「グループとは?」
「会社を立ち上げようと思っているんだ。万一失敗しても、私はもうヨツバに入ることは決まっている。まあ、暇潰しみたいなものだ。一応七人集めてある」
「起業ですか…私はいいです、興味ありません」

 すぐに断った竜崎に奈南川はたじろぐが、諦めきれないようで、

「しかし、君ほどの才能を持った者が普通の高校生活を送るのは勿体ない…」
「……確かに授業はかなり退屈で、日本の教育方針である『集団行動』には辟易しますが…」

 竜崎の黒い目がナナへと向く。何だろう、と首を傾げる前に、またすぐ奈南川へそらされた。

「その『普通の高校生活』に満足はしています」

 奈南川は何も言わず、しばらく竜崎と目を合わせていたが、やがてふっと微笑み立ち上がった。

「わかった。ただ君のことは皆に話す、いいな?」
「…はい」

 奈南川は返事を聞くと、自分の教室へと戻っていく。皆もハッとして、そろそろ先生が来る時間だと散っていった。ナナは再び椅子に座り、駒を片付けながら、ハートの王様を摘んで観察している竜崎を見る。
 家の仕事の片手間に渋々通っていると思っていたし、実際そのようだった。でも、一応竜崎なりに高校生活を楽しんでいるらしい。そしてそれが、自分のおかげだとしたら、純粋に嬉しいとナナは思う。本人には言わないけれど。

「…ね、それちょうだい? 早くしないと先生来ちゃう」
「……そのままでいいですよ」
「え?」

 聞き返せば、キングを見上げたまま竜崎が言う。

「月先生とも、チェスしてみたいです」

 意外な言葉にナナは驚き手を止めるが、やがて微笑み、再び駒を集め始めた。

「月先生は奈南川くん並に強いと思うよ、大丈夫?」

 彼は少しムッとして、

「大丈夫です、簡単に負かせてみせます」
「ふふ…やってもいいけど先生忙しいから、今は相手にしてくれないよ」
「…それもそうですね、昼休みにします」

 竜崎はあっさり頷いて、駒を渡してきた。さっきの口振りからして多分、思いついたことをそのまま口に出していたのだろう。奈南川との対戦が楽しかったのかもしれない。或いは自分とか。

 (後者だったらいいな)

 そう思いながら、ナナは手を伸ばして王様を受け取った。
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