「ナナさんはテニス部ですよね?」

 休み時間、いつものように本の受け渡しをしていると、竜崎がふと尋ねてきた。彼はあれから少し読むスピードを落とすようになったものの、相変わらず自分で本を借りようとしない。返しに行ってはくれるけれど。

「うん、硬式テニス部だけど…それがどうかした?」
「見学に行こうかと」
「ふーん……えっ?」

 平然と言う彼に流され頷いたが、発言のおかしさに気づき聞き返す。忙しいため部活には入らないと思っていたのだ。

「…入るの?」
「そこまでは決めてません…何となく、です」

 竜崎はいつもと変わらない表情で呟く。何となくなど彼らしくもない言葉だったけれど、一応頷くことにした。

「よくわからないけど…先輩に伝えとくよ」
「お願いします、体験はしたくないとも言っておいてください」
「はは…言わなくても大丈夫だと思うよ」




 ナナの言う通り、男子テニス部のキャプテン安永は体験させようとはしなかった。彼は基本、月がいる時以外やる気がないのだ。内申のために部長になったのだとナナはひそかに思っている。

「…ねえ、あの人さっきからこっちばっか見てない?」

 男女共に部活が始まり各々ストレッチする中、ナナに背中を押されていた海砂が、ベンチの方を指差した。そちらを見てナナは苦笑いする。竜崎が指をくわえて、こちらを眺めていた。

 (何でこっち見てるんだろ…)

「ホントだね…」
「あの人、見学に来たんでしょ? 何で女子の方見てるのよ!」

 ムキーっと憤慨する海砂にまあまあ落ち着いてと一応なだめてみるが逆効果だった。睨まれても全く視線をそらそうとしない彼に、怒った海砂は立ち上がる。

「もう怒った、注意してくる! ミサを性的な目で見ていいのは、月先生だけなんだから!!」

 それはそれで問題だと思う、とつっこむ前に、海砂は肩を怒らせずんずん進んで行ってしまった。彼を連れてきた自分にも責任があるので、ナナは彼女の背中を追い掛ける。

「海砂、待って…」
「ちょっと、そこの人!」
「何でしょう?」

 竜崎の前に仁王立ちしたミサは、自分を不思議そうに見上げる彼に、キッと目を吊り上げた。

「何でしょう、じゃないわよ! ずっとこっち見てきて…あなた変態なの!?」
「…………」

 ショックを受けたように固まる竜崎に、部活中にも関わらず、同じベンチにちゃっかり座ったナナは、思わず吹きだした。笑っている間もミサの怒りは冷めない。

「ミサ見るのが目的だったら、さっさと帰ってくれない?」
「……いえ、あなたではなくナナさんを見てたんです」
「はああ? やっぱりあなた変態じゃない!」
「…男子がまだ走っているので、他に見るものがなかったんです。変態じゃありません」

 ミサは隣でくすくす笑っているナナに、じとーっと視線を送る。

「…ねえ、こんなこと言ってるけど?」

 ナナはようやく笑うのをやめ、ミサを見上げた。

「え? ああ、何か失礼なこと言われた気がするけど、わたしは別に…男子はまだ帰ってきてないし、いいんじゃない?」
「別にいいって……あなた達、付き合ってるわけ?」
「な、まさか! ただの…」
「そうですよ」
「!?」

 割り込んできた声に隣を見れば、ミサを見上げる竜崎の口角はかすかに上がっていた。

 (もしかして、わたしが竜崎を笑ったことへの仕返しに…!)

「へえー、ナナ、こういう人がタイプだったんだ…意外〜」
「違う、違うから!」

 必死に否定するナナに、「そうなのー?」と首を傾げながらも、海砂はまだニヤついている。居たたまれなくなったナナはすぐさま立ち上がり、彼女の肩を掴んでコートの方へぐいぐい背中を押した。

「違うって、ほら戻らないと!」
「あっ、怪しいっ!」
「怪しくない!」



 二人は先輩に気づかれる前に戻ることができた。月目当てに入部した者が過半数を占めるこの女子テニス部は、基本的に緩いのだ。
 ナナが練習に取り組んでいると、キャッキャと周りがざわめきだした。ラケットを振りながらその視線の先を見る。

 (あ、月先生)

 コートの入り口にはスーツではなく、ジャージ姿の月がいた。真面目な彼は部活指導に来る時、いつも動きやすいよう着替えてくるのだ。ジャージ姿の月先生が見れるのは、テニス部の特権とも言える。

「月先生ー!」

 ナナと組む海砂はボールを止め、月に向かって大きく手を振った。月は特に反応することなく、集合をかけようとする安永に首を振る。

「海砂、ちゃんと練習しないと怒られるよ」
「ハイハイ、わかってますー」

 再びボールが送られ、ボレーを始めたナナは、こちらへ近づいてくる月に気付いた。彼が女子のところへ来るのは珍しい。腕を組んでじっと自分達を見る月の視 線に、皆ドキドキしながら練習に励む。もちろんナナもその中の一人なので、彼が自分の側に立った時は緊張で息が止まるかと思ったほどだ。

「佐藤、もう少し角度をつけた方が良い」
「…こう、ですか?」
「いや、そうじゃなくてこう、だな」

 月がラケットをナナの手の上の方で握り、そのまま振る。触れ合ったところから伝わる温もりと香ってくる清潔な匂い。今までになく近い距離に、ナナは眩暈がしそうだった。
 海砂の不機嫌度がMAXになり、コート内に一触即発の空気が漂い始めたその時、

「月先生」

 後ろから聞き覚えのありすぎる声がした。
 ラケットから手を離した月は振り向き、そこにいた意外な人物に目を見開く。

「…竜崎か。どうした、見学に来たのか?」

 どこから持ってきたのか、竜崎はラケットをぶら下げるように持っていた。遠くから安永の叫び声が聞こえるのは、多分気のせいだろう。

「はい…ただ、私との勝負に先生が勝ったら入部してもいいです。その代わり私が勝ったら、ナナさんを退部させてください」

 何言ってるのとナナが叫ぶが、竜崎は知らん顔だ。月は彼の提案を聞き、ニヤリと面白そうに笑う。

「いいだろう。してもいい、じゃなくて本当に入部しろよ? …安永、僕のラケットはあるか?」
「……はい、あります」

 竜崎から奪い返そうとやってきた安永は、月のラケットを持ってくるため再び部室へ戻っていく。しばらくしてラケットを持ってきた彼に、月は礼を言って受け取ると、ナナたちに外に出るよう言い、竜崎と共にコートに立った。
 サーブ権を獲った竜崎が、ボールを片手で弾ませながら言う。

「審判はナナさんでお願いします」
「えっ、あ、うん」

 他の部員たちと共にコートの外で見物する気だったナナは、驚きながらも審判台にいた安永と代わる。安永は竜崎を睨みながら外へと出て行った。

「…にしても、この前のチェスといい、何で僕と勝負したがるんだ?」

 コートの中で月がぐるぐると肩を回しながら、竜崎に問いかける。

「……先生が何となく気に食わないからです」
「(気に食わない…? よくある反抗期か?)…そうか……言っておくが竜崎、僕は中学の頃全日本選手権で二度優勝したことがある。あまり舐めてかかるなよ」
「…そうですか。私もイギリスのジュニアチャンピオンだった事があります」
「!」

 竜崎の嘘に騙され、ぐっと何とも言えない表情をする月を余所に、竜崎は審判台に座ったナナに言う。

「ナナさん、6ゲーム1セット先取でお願いします」
「わかった…」

 二人の緊迫した空気に、ナナまで緊張してしまう。

「行きます…」

 試合開始の合図後、竜崎はボールを高く上げスパンとラケットを振り下ろした。放たれたボールは目にも止まらぬ速さでセンターに着地し、月の脇を通り過ぎていく。
 月は構えたまま身動きもできず、あっけにとられていた。それはナナも同じで、様子に気づいた竜崎が促す。

「ナナさん」
「あっ…15−0」
「はは…すごいな竜崎、僕も本気で行くよ」
「最初から本気出していてください」
「………」




 二人の戦いは凄まじく、安永の言葉を借りれば、まるでアマチュアの試合のようだった。
 普段部員を相手にする時とは違い、全力で攻めに行く月と、守ナナがらも相手を翻弄する竜崎。二人とも取りこぼしが少なく、ラリーが長いこと続く。
 いつの間にかコートのまわりにはテニス部以外の生徒が大勢集まり、黄色い声を上げていた。

「月先生頑張ってー!!」
「竜崎くん頑張れー!」

 中には月だけではなく竜崎を応援する声も聞こえ、ナナは彼が意外と人気のあることに驚く。

 (まあ、京子ちゃんは竜崎のこと好きだしね…)

 彼女からアドレスを聞くよう言われたことを思い出し、何だか複雑な気分になった。京子と竜崎が自分の知らないところで、メールのやり取りをする…想像すると苦いものがこみ上げてくる。この黄色い声援も、あまり好きではない。月先生への応援は許せるのに。
 ガシャッとボールがフェンスに引っかかった音に、ナナは我に返った。

「…ゲームカウント4−4」

 二人とも膝に手をつきはあはあと息を整える。あれだけラリーが続くのだから息が切れるのは当然だ。
 様子を見守っていると、竜崎が顔を上げ、ナナに向かってタイムと手を上げた。

「タイム…?」
「動きづらいので脱ぎます」
「脱ぐって何を…」

 言い終わらないうちに、彼は制服のボタンをたどたどしい手つきで外しだした。途中で面倒になったのか、強引に上から脱ぎ、白い長そで姿になる。
 シャツを着てなかったのかと呆れていると、カチャカチャとベルトにも手を掛け始めた。

「おい、竜崎…」
「ちょっと…!」

 見かねて声をかけるが、無視してズボンを下ろそうとする。ナナはバッと彼から顔をそらした。後ろで一瞬女生徒の声が上がり、それからほっとしたようなため息が聞こえてくる。

 (…大丈夫なのかな)

 恐る恐る振り返ってみれば、コートにはなぜかジーンズを履いた竜崎がいた。制服を摘まみながらナナのところへやってくる。

「ナナさん、これ持っててください」
「…下にジーパン履いてたの?」
「はい」

 当たり前のように頷く彼を見て思う。
 もしかして、毎日履いていたのだろうか。




「ゲームセット、ウォンバイ竜崎、6ー4!」

 試合終了と共に多くの歓声と拍手が二人に降り注ぐ。制服を脱いだ後の竜崎は、これまで以上に軽く機敏に動き、月から2つカウントを奪っていた。
 二人はナナの元へ歩み寄り、握手する。

「ありがとうございました、楽しかったです」
「ああ、僕も楽しかった……しかし悔しいよ、やっぱり年には勝てないな…」
「怠けているだけだと思いますが」
「……竜崎は、随分はっきり物を言うんだな」
「事実を言ったまでです。それで約束なんですが…」

 この試合の条件をすっかり忘れていたナナは、竜崎の言葉に急いで審判台を降りる。

「竜崎が勝とうと何だろうと、わたしは辞めないよ」
「…そう言うと思ってました。安永先輩、入部届をください」

 試合に感化されたのか、安永は先程とは打って変わり、すぐさま部室から紙を取ってきてペンとともに竜崎に渡す。交換するように礼を言ってラケットを返し、コートの上でサラサラと名前を書き始めた彼に、ナナも月も驚いた。

「竜崎…?」
「本当に入るのか…?」
「部活には全く行きませんし、試合に出る気もありません」
「な、何言ってるんだ…?」

 竜崎は立ち上がりながら「が」と声を出す。

「!」
「合宿には参加するので、手続きしておいてください」
「合宿…?」

 訝しがる月にヒラリと紙を渡し、竜崎は困惑しているナナを見た。

「では私は帰ります、ナナさん制服を」
「…ああ、うん」

 ハッとしたナナは持っていた制服を渡そうとするが、彼が端を摘まんでせっかくきれいに畳んだものを崩そうとするので、慌てて手前に避ける。不思議そうに自分を見る竜崎に問いかけた。

「待って、また着てくの?」
「いえ、持って帰るだけです」
「だったら摘まむんじゃなくて、脇に挟んだ方がいいんじゃない?」
「はあ…」

 そう言ってもなお、生返事して摘まもうと手を伸ばしてくる。なんとなく崩されるのが嫌で、意地になったナナは、またその手を避けたあと、彼の腕を掴んで止めた。掴んでみて意外と硬いことに驚く。細いが、筋肉が付いているのが服の上からでもわかった。あんな激しくラケットを振る力がどこにあるのかと思っていたけど、実は結構鍛えてたりして。

「…ナナさん?」

 腕を見つめながら感触を確かめていたナナは、上から落ちてきた声に我に返る。ごめんと笑みを返して、制服を脇に挟み込んだ。

「はい、このまま帰ってね」
「…はい」

 有無を言わさぬ口調で言う彼女に、竜崎が渋々頷く。二人の様子を後ろで見ていた月が可笑しそうに笑った。

「…はは、親子みたいだな」
「はい?」

 声を合わせ同時に振り返る息の合った二人に、月はますます笑い声を立てる。竜崎とナナはお互い目を合わせ、不思議そうに首をかしげた。



2012/08/27
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