五月が過ぎ去り梅雨の季節。雨が降り続きじめじめと湿気の高い教室では、学級委員の二人が前に立ち、今度行われる体育祭でそれぞれ何の種目に出るかを決めていた。
 ナナは魅上の仕切る声を聞きながら、降り続く雨を窓越しに見つめる。衣替えで着ているセーラーのまばゆい白さとは反対に、彼女の心は憂鬱だった。暗い雨だけでなく、この体育祭のある種目に出ることが。

「佐藤さん」

 ふと魅上に呼ばれたナナは前を向き、返事を返す。

「…何?」

 この前の竜崎の言葉もあり、ぎこちないものになってしまう。硬い表情を見せる彼女を気にする素振りも見せず、魅上は言った。

「竜崎をどの種目に入れようか迷っているんだが、彼と連絡できないか?」

 ナナの隣に竜崎の姿はなく、机は空だった。このところ竜崎は休み続けている。特にそれは珍しいことではなく、一週間休んだかと思えばひょっこり学校に来たりする。最初は心配したが、体調不良で休んでいるのではなさそうなのでナナは気にしないことにしていた。

「でも、それ以前に出なそうだけど…」

 体育の授業さえ見学していると、前にクラスメイトから聞いたことがある。
 無理やり入れたとしてもどうせ休むだろうと思っていると、突然宇生田や他の男子たちが声を上げた。

「いや、佐藤!」
「な、何?」
「竜崎には絶対参加させたいんだよ、あの身体能力があれば優勝も夢じゃない…!」

 月とのテニス試合を見ていたらしく、宇生田は目をきらきらと輝かせる。

「…けどわたし連絡先知らないし、無理だよ」
「それは先生が…先生!」

 空いていた席で静観していた月は、突然宇生田に振られてハッとする。

「え? ああ、竜崎の番号か?」

 月は携帯を取り出し操作すると、「佐藤に渡せばいいんだな?」と、ナナにそのまま携帯を渡した。いきなりクラスの重大な使命を引き受けることになった彼女は混乱する。携帯を受け取ったとき、月の指と触れたことに気づかなかったほど。

「いや、え、わたしが掛けるの?」
「ああ。俺たちじゃまともに取り合ってくれないだろうし」

 宇生田の言葉にうんうんとうなずく男子たち。
 粧裕を見れば、笑いながらがんばれと手を振っていた。明らかにこの状況を面白がっている。

「うまくいったら、何か奢るからさ」

 渋るナナを宥めるように宇生多が言う。この重圧から逃れられないことを悟ったナナは、頷いたあと、諦めて通話ボタンを押した。

 すぐに聞き覚えのある声が聞こえてくる。

『はい』

 ワタリだ。

「あ、お久しぶりです、佐藤です。月先生から携帯をお借りしました」
『ほっほっ、お久しぶりです。今、竜崎に代わります』
「はい、お願いします…」

 数秒後、竜崎の声が聞こえてくる。

『もしもし、ナナさんですか?』
「うん。久しぶりだね、元気…?」
『はい、元気です。何でしょう?』
「えーと、竜崎は体育祭のどの種目に出るのかなって…」
『私はどれにも出ませんよ』
「やっぱり?」

 宇生田に目で訴えるが、続けろと首を振られてしまう。

「…ね、一種目だけ出てくれないかな?」
『……また何か甘い物を作ってくれるなら、出てもいいですよ』
「! ああうん、いいよ…でも、そんなことでいいの?」

 甘いものというのは、ナナが竜崎に作ったお菓子のことだ。テスト後に行った西風庵から帰る際、ナナが粧裕へのケーキを選んでいるうちに、竜崎が伝票を持って払ってしまったため、そのお返しにクッキーを焼いていた。

『はい、美味しかったので。パン食い競争にでもしておいてください』

 ナナは自然と笑みを浮かべる。

「うんわかった、パン食い競争ね。ありがとう」
『いえ、ではまた』

 ツーツーと切れた電話を月に返すと、男子たちからおおーと歓声が上がる。気をよくしたナナは、笑いながら宇生田に言った。

「奢らなくてもいいよ。聞けなかったこと、聞けたから」





 一週間後。晴れ晴れとした青空のもと、新神学校の体育祭は北村校長の挨拶で幕を開けた。
 100M走、綱引き…と競技はどんどん続いていく。教師同士の争いでは、意外にも松田が月にも負けない活躍を見せ、生徒達を驚かせた。同時に、どうして体育教師にならなかったのかとも思わせた。

「あれ、竜崎どうしたの?」

 出番が近づき、着替えるため教室に戻ったナナは、いつも通り席に座って飴を舐めている竜崎を見つけた。

「外は暑いので避難してきました。あまり直射日光を浴び続けると、私、溶けます」
「ふふ、そう」

 断言する彼に笑いながら、ナナは自分のカバンを開け、一週間前から感じていた憂鬱の原因、テニス部のユニフォームを取り出す。思わずため息をついたナナに、竜崎が問いかけた。

「それは、テニスウェアですか?」
「うん。これから部活対抗リレーだから、着なきゃいけなくて…」

 先輩の言うことは逆らえない。わざと見せるためにキュロットではなく、スカートの方を持って来いと言う命令も。テニス部の売りはパンチラしかないのかとナナは呆れる。見せるのは下着ではなくアンダースコートだったが、それでも嫌だった。

 (さっさと走って終わらせよう)

 そう思い、ユニフォームを持って教室を出ようとしたところで、後ろから声をかけられる。

「ナナさん」
「うん?」
「私も見に行くので、頑張ってください」
「えっ、見に来なくていいから!」





 絶対に見に来ないでと念を押したものの、やはり来てしまったらしい。「あれ、この前月先生と対戦してた人じゃない?」と言った海砂の視線の先を見れば、ナナのクラス、2年A組の列の一番前に竜崎が座っていた。目が合うと、彼は軽く手を上げる。何で来ちゃったのと思いながらも、ナナはぎこちなく笑みを返した。

「あ、やっぱり付き合ってるんじゃない!」

 隣でその様子を見ていた海砂が、にやにやしながら肘で軽くつついてきた。本当に何もないんだと誤解を解こうとしたところで、一緒に待機していた女子テニス部の皆が、「何々ー?」と列を崩して群がってくる。ナナは大きく首を振った。

「もう、何でもないんだって! ほら、始まるんだから列作ってないと!」

 言ったあと、運良く開始の放送が入り、ほっと胸を撫で下ろす。皆はいろいろと問い詰めたがっていたが、渋々列に戻っていった。
 まったく、どうして恋愛ごとと結びつけたがるんだろう。特におかしいことはしていないのに。それともああやって遠くから視線を交わすことは、おかしいことになるんだろうか。ナナは友人と恋人の線引きに頭を悩ませながら、レーンの内側に並んだ。


 第一走者はミサだった。さすがモデルを目指しているだけあって、自分の魅せ方がよくわかっている。腕の振り方やどのくらい足を上げれば見えるかを計算し、男子の歓声やミサのファンの声にしっかり手を振る余裕もある。
 第二走者のナナは感心しながら、他のユニフォームに身を包んだ部員達――水着姿の水泳部員やバク転の練習をする体操部員たちと共に位置についた。ミサのように割り切ることのできないナナは、初めから全力で走ることに決めている。
 ミサは笑みを浮かべながら、頑張ってとバトンであるラケットを渡してきた。

「うん」

 それを脇に挟むと、ナナはダッシュで駆けていく。海砂は呆然とその背中を見て呟いた。

「えええ、あれじゃ何も見えないじゃない…パフォーマンス重視なのに」

 だがミサの予想は外れ、チラ見せは成功する。ナナは前を走っていた剣道部の長い袴を踏み、前と一緒にこけてしまったのだ。とっさに乱れたスコートを直し、剣道部員に声を掛ける。

「ごめん伊出くん! 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ…ナナさんは?」
「わたしも…」

 大丈夫と言って立とうとするが、足首に痛みが走り顔をしかめた。

「佐藤さん、大丈夫?」

 テントの下でレースを見ていた、女子体育担当でナナのクラスの副担任(且つ美人教師)、南空ナオミが慌てて駆け寄ってきた。隣にしゃがむ伊出が答える。

「膝を擦り剥いてるみたいです」
「…本当ね、足も挫いてるみたい。保健室に行って手当てしましょう。立てる?」
「はい、すいません…」

 ナナは挫いた方の足に体重をかけないようにして立ち上がり、南空の手を借りながら校舎に向かった。こちらに来て、大丈夫?と口々に声をかけてくれるテニス部員たちに、ナナは微笑み、それからごめんと謝った。






「えーと…先生」

 南空が校舎脇の水道でハンカチを濡らしてナナに渡し、傷口の砂を取らせていると、後ろから声がした。恐らく自分を呼んでいるのだろうと振り返れば、今年度からクラスに入ってきた、色々と特徴的な男子生徒、竜崎が制服姿で立っている。もしかして名前を忘れたのか。少々呆れながらも答えた。

「南空です。転校初日に挨拶したでしょう?」

 「そうでした」と彼は頷く。本当に忘れていたらしい。

「南空先生…私が保健室まで佐藤さんを運びます」

 言いながら了承を得ずに、竜崎はナナの背中と膝に手を掛けた。南空は戸惑ったが、そういえば隣同士だったかと様子を見ることにする。

「え、ちょっ、降ろして!」
「手当ては私がしますので」

 竜崎は騒ぐナナを無視してそう言うと、返事を聞かずに、彼女を膝抱きしたまま校舎へ入っていった。呆気に取られた南空は、その背中に目を瞬かせていたが、やがて微笑みを浮かべる。ここに転校してくる前は、他人にあまり興味を示さない生徒と聞いていたが。今の様子を見ると、そうは思えない。





 大半の生徒が校庭に出ているため、幸い廊下には誰もいなかった。しかし、いつどこでこの状態を見られるかわからない。恥ずかしいから下ろしてと懇願していると、竜崎はこちらに視線を落として言った。

「…ナナさん。そうやって騒いでいると、逆に目立つと思います」

 言われなくとも、それはわかっている。ナナは口を閉じて、心の中でため息をついた。

 (……緊張をごまかすために騒いでたのに)

 黙ると余計に、彼の温かさやかすかに香る菓子の甘い匂いを意識してしまう。ナナを軽々抱える腕はしっかりしていて、嫌でも異性なのだと認識する。
 ナナはぼんやりと竜崎を見上げた。意識する自分とは違い、淡々としている彼が、少し憎らしかった。


 保健室に着くと、竜崎はサンダルを脱ぎ、足で戸を開けた。中には養護教諭も生徒の姿もなく、ガランとしている。これはまずいと、ナナは顔をこわばらせた。

「誰もいないようですね」
「……みたいだね」

 奥にあるベッドまで運ばれると、そのままベッドに降ろされる。その手つきが思っていたより優しく、ナナは戸棚を漁りだした竜崎を驚きをもって見つめた。それから体を起こし、スコートを押さえながらベッドに腰掛ける。膝を見れば、皮が剥けていて少しひどい状態だった。

「少し染みます」

 前にしゃがんだ竜崎は、消毒液を湿らせたコットンを傷口に近付ける。瞬間、ジクジクと痛みが走った。

「痛っ…」

 ひくりと膝が動き、竜崎は一瞬こちらを見上げる。そしてまた視線を落とし、さっきよりも力を加減して消毒していく。全体を拭うと、今度はガーゼを取り出した。ガーゼを貼っていく手つきは、どこかたどたどしい。

 (今まで手当てしたこと、ないのかな…)

 確かにあの身体能力からして、怪我とは無縁そうだ。ガーゼを貼り終え、くるぶしに包帯を巻いていく彼の、不器用ながらも優しい手つきにじんわり胸が暖かくなる。

「終わりました」

 テープを止めてこちらを見上げた竜崎に、ナナがありがとうと笑みを浮かべた。その時、

「失礼しま…」

 ミサの声と共に保健室の戸がガラリと開いた。
 ナナと竜崎が戸口を見る。目が合った粧裕と海砂一同は、中に二人しかいないのを見て、開きかけた戸を閉じた。

「し、失礼しました〜…」

 数秒後、ミサたちの興奮したような囁き声が廊下から聞こえてきた。ナナは頭を抱える。先程のことも相まって、言い分も何も聞いてくれないだろう。

「もう…」

 いろいろと自棄になったナナは、ベッドの上に足を乗せ、ごろんと体を横にした。同時に、隈のある大きな眼とぶつかる。…少し心臓に悪い。

「わたしはふて寝しようかな…竜崎はどうするの? もうすぐパン食い競走だけど…」
「…私もここにいます」
「……じゃあ、違うベッドで寝てたらいいよ。仕事の後で疲れてるでしょ?」
「はい。ですが…」

 言いながら、竜崎はのそのそベッドに上ってきた。ぎょっとして身構えるナナを余所に、彼は体を横にし布団の中へ入ろうとする。

「……竜崎?」
「私もここで眠ります」

 半々で使いましょう、と竜崎は当然のようにナナを見上げた。

「半々って…これシングルだよ? わたし違うベッドに…」
「駄目です」

 下りようとするナナの腕を竜崎が掴み、強い力で引き戻される。

「一緒に寝ましょう」
「〜〜〜っ」

 (子供じゃないんだから…!)

 ナナは必死に手をほどこうとするが、がっしり掴んでいて取れる気配がない。

「ねえ、離して…って、寝てる…?」

 胸が上下に動いていることに気付いて見ると、竜崎は瞼を閉じて眠っていた。穏やかな表情に力が抜ける。二秒も経たずに眠ってしまうなんて。
 抵抗をやめたナナは、近くにある竜崎の寝顔を眺めた。透き通っていて、こちらが心配になるくらいの白い肌に黒い隈、意外と整っている顔立ち。すごく頭が良くて運動神経もあって、甘党で、わがままで。大人びてるかと思いきや、子供っぽいところもあって。
 もう、気付かないふりをするのは無理だった。
 わたしは、竜崎に惹かれ始めている。





 一時間後。
 どうにも眠れず起きていたナナは、生理現象からベッドを抜け出そうと試みた。が、竜崎の手はビクともしない。

 (眠ってる筈なのに…!)

 熟睡している彼を起こすのは気が咎めたが、緊急事態なのだから仕方ない。肩に手を伸ばしゆさゆさと揺する。

「竜崎! 起きて竜崎! Wake up!」

 だが、まったく目を覚ます気配がない。早くトイレに行きたい一心で、耳元で叫んでみたり鼻をつまんだりしてみるが、何の反応も示さず、絶望しかけたその時。シャッと白いカーテンが開き、救世主――夜神月が現れた。

「佐藤、大丈夫か……って、どうしたこの状況は?」

 添い寝している二人の生徒にぎょっとする月を見上げ、ナナは「助けてください」とつぶやいた。



2012/09/12
一応書いておくと、「みそらなおみ…? ……どこかで聞いた名だな」が元ネタ
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