松田梢にとって、井上京子は周りの同級生と同じく、単なる背景の一部だった。名前も知らず、ただ視界を通り過ぎていくだけの存在。それがどうして、同じ大学(しかも東大)に入って、同じ講義を取るほど仲良くなったのかというと、色々な偶然が重なったから、としか言いようがない。具体的には、いじめられているところを目撃してから京子が視界に入り込むようになり、修学旅行がきっかけで(二大嫌われ者・京都で置いてきぼりをくらう)、二人は何となく話すようになった。そして二人の距離を大きく縮めたのが、『四次元ポケット事件』だ。この日本中を巻き込んだ壮大な事件の発端は京子だったが、持ち主のネコ型ロボットが解決し、同時に事件に関する人々の記憶を消してくれた。
 この事件によって、京子は『へっぽこ』から『のび太くん』にランクアップし(あまり変わらないじゃないかと思う人は、ドラえもんの最終回と言われている『さよならドラえもん』を読んでほしい)、梢はのび太くんの心の友『ジャイアン』に変わった(ダメじゃないかと思う人は、映画におけるジャイアンの良い人度を思い出してほしい)。
 そんな偶然が重なった結果、梢は今、東応大の学食で京子とケーキを食べているのだった。

「京子、明日提出の心理学のレポート終わったか?」

「うーん…」

 タルトにフォークを入れながら聞けば、生返事が返ってくる。視線を向けると、京子は頬を染めながら、自分の斜め後ろをぼけっと見つめていた。

 (ああ、今日はいたのか)

 先週も先々週も先々々週も(いや、先々々週はいたかも)いなかったらしく、最近の京子は鬱々しかった。正直、うっとうしいくらい負のオーラを放っていた。地味な上に暗さを身に付けてしまったら、もう目も当てられない。
 大学に入っていじめがなくなり、それなりに堂々と歩けるようになってきたというのに、こんなくだらないことで逆戻りされては困るのだ。
 とりあえず、今日京子の視界に彼が入ったことで明るさを取り戻す(通常の、豆電球くらいの明るさであって、いつもの彼女もそんなに明るくない)だろうから一先ずほっとしたが、生返事を返されたのはやはり癇に障るので、少し仕返ししてみる。

「…おまえ、さっきの講義寝てただろう? 涎ついてる」

「えっ、ほんと…!?」

 今度はちゃんと聞こえたらしく、京子は慌ててナプキンを取り、口の端を拭った。「どこ? 取れた?」と必死で確認してくる彼女の姿に、冗談だと言いづらくなり、思わず、うん、と頷いてしまう。よかった、と京子は安心したように笑うと、再び斜め後ろへ瓶底眼鏡を向けて観察を再開した。
 そんなに心配するなら、いい加減口を閉じて眠ったらどうなんだと梢は思ったが、涎を垂らして眠るのはのび太(京子)のアイデンティティのひとつだと考え直して言うのをやめる。その気になれば、京子も2秒で眠れるのかもしれない。
 眼鏡を外すと目は3の字にならないけどな、と残念がっていると、突然京子が止めていたフォークを動かし、下を向いてもぐもぐケーキを食べ始めた。近付いてくる二つの足音に、梢は横の通路へ目を移す。
 どこのリンス使ってるんですか、と聞きたくなるくらい無駄に髪がつやつやしているくせに、ファッションが少し残念(断言する、あれは全身しまむらだ)な男と、いかにも『ユニクロで適当に買いました』的な、適当さを全身で表している、ボサボサ頭に猫背の、ファッション以前に問題のありそうな男がちょうど通路を歩いていた。夜神月と流河早樹。東応大に全教科満点で入ったかと思えば、突然テニスコートでアマチュア並のテニスを披露した、何かといやな感じがする二人だ。
 いつもなら自分と関わりのないただの背景として認識するのに、何故名前まで覚えているのかというと、京子が二人のうちの一人に惚れているからだ。しかもそれがなんと、夜神ではなく流河と言うから驚きだ(彼女が東大に受かったときも死ぬほど驚いたが、入学式でこぼした京子の呟きを聞いたときの驚きったらなかった)。
 二人の姿が消えたのを見て、まだ下を向いて食べている京子に声をかける。

「あの二人、もう行ったみたいだ」

 京子はようやく顔を上げ、キョロキョロ辺りを確認すると、ほっと息をついた。かと思えば、残念そうに眉を下げる。何なんだ。

「そんなに気になるなら、声をかければいいだろう。いつまでこんな、こそこそストーカーみたいな真似続ける気だ?」

「…卒業するまで…」

「…そのうち本当に訴えられるぞ」

 人攫いになったりストーカーになったり、忙しいやつだ。

「じゃあ、もしおまえみたいな物好きがもう一人いたとして、その子と流河早樹が付き合い始めてもいいんだな?」

「……うん…」

 そう言って、京子はずーんと顔を俯かせる。おい、矛盾しすぎだ。

「おまえは自分にもチャンスがあるとは思わないのか?」

「えっ、いや、全然…」

「…京子。おまえには、その野暮ったい眼鏡を外すと実は美少女、なんていうありふれた設定があるじゃないか。今使わないでいつ使うんだ?」

「…私は、これを掛けてる方が落ち着くから」

「……それは知ってるが、そうして人から逃げていたら、この先何も残らなくなるぞ」

 らしくないことを言っているな、と梢は言いながら思った。自分が言える立場じゃない。
 漫画に出てくるような牛乳瓶眼鏡を掛けない代わりに、自分も人を背景にすることで他人を遠ざけている。何だかんだ言って、似た者同士なのだ。最初は嫌われ者同士必然的に話すようになったが、何かシンパシー的なもの(言っておくが自分はへっぽこじゃない)を感じていたのかもしれない。
 しかし、どうして自分はこんなに親身になっているのだろう。もしかして、これも担任塚本が言っていた『変化』なのだろうか。
 ゆっくりと頷く京子を見つめながら、梢は塚本の言葉をぼんやり思い出していた。





 京子がコンタクトを付けてきたのは、その次の日のことだった。
 周りの視線から逃げるように背中を丸めてやって来た彼女を見ても、梢は特に驚かなかった。ただ、久しぶりに見た京子の素顔は以前より大人びていて、もう小学生には見えないな、と思った(中学生には見えるので、流河早樹がロリコンでもギリギリ大丈夫だ)。
 すれ違う男子学生たちの視線が京子に向けられているのを感じながら、春の陽気の下構内を歩いていると、向こうから一段と大きな集団がやってきた。

「あっ、夜神君だ…」

 後ろから聞こえた京子の呟きに、梢は集団の真ん前にいるしまむらっぽい人を凝視する。確かに、夜神月だ。周りの友人らしき人々と話しながら、こちらに向かってくる。いかにも『人当たりの良い優等生』で、いけすかない。
 徐々に近づいてきた夜神月は、京子に目を移すことなく通り過ぎていった。やはり、毎日自分の美麗な顔を見ていると、美に対する免疫か何かがつくのだろうか。

「今日、流河くん来てないのかな」

「さあ…」

 夜神月軍団を振り返って残念がる京子に、そう相づちを返したとき、ふと、前からジーパンに白シャツのユニクロっぽい人が来ているのに気付いた。噂をすれば影。悔しいことに、天は美少女に味方するらしい。

「京子、流河早樹がいるよ」

「えっ、わ、どうしよう…!」

 肩越しに呟くと、京子は何やら慌てふためきながら、前から見えないよう身を屈めて背中に隠れた。流河早樹を待ち望んでたんじゃないのか、おまえは。
 当の流河は、誰かを探しているのか、あちこちに視線を巡らしながら、ズルズルスニーカーを引きずってこちらに歩いてくる。今気付いたが、彼は相当外股だ。
 野性的。入学式で誰かが言っていた言葉が浮かぶ。良く言ってワイルド、普通に言えば変人。本当にどこが良いのかわからない。

「すみません、夜神月くんを見掛けませんでしたか?」

「!」

 傍を通り過ぎるかと思いきや、なんと流河早樹が話し掛けてきた。
 同時に後ろでひゅっと息を呑む音が聞こえ、パーカーの裾を強く掴まれる。いや驚きたいのはこっちだよ、と梢は心の中でツッコミながら、さっき見たことを話した。

「…夜神月くんなら、集団を連れて向こうの方に行きましたけど」

「そうですか、どうも」

 流河早樹は礼を言って、京子の存在に気付くことなく通り過ぎていった。
 ああ見えて物腰は丁寧なんだな、と彼の後ろ姿を見ながらそのギャップに驚いていると、急にパーカーを下に引っ張られた。慌てて体勢をとって振り向く。

「おい京子……どうした?」

 京子はその場に顔を埋めてしゃがんでいた。

「か…」

「か?」

「かっこよかった……」

 今のどこにかっこいい要素があったのかは謎だが、京子にはそう見えたらしい。顔を上げてぼけっと流河の去った方向を見つめる彼女は、コンタクトをしていることもあって、『井上京子』ではなくただの『恋する少女A』になっていた。
 …わからん。あのギャップがいいのだろうか。

「…まあ、しまむらかユニクロかって言ったら、私はユニクロだな……」

「ユニクロ?」

「こっちの話だ。ほら立て、授業に遅れる」

 渋々立ち上がった京子を見て、再び歩き出す。京子はさっきのように自分の一歩後ろにいたが、背中に隠れながらではなく、夢見心地でふらふら歩いていた。男たちの視線を物ともせずに。
 こうも人を変えてしまうなんて、恋とは恐ろしいものだ。
 傍に来ただけでこうなるのなら、流河に話し掛けられたときは一体どうなるだろう。少しは応援してあげようか、と梢は京子の変化を思い、ふっと笑みを浮かべた。


20140105

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