ワイミーはどちらかというとドライな人だということを、ナナはうっかり忘れていた。
 そのため彼の部屋に飛び込んでエルの悪事を報告し、よよよ、と嘘泣きを始めたところで、「ああ、やっと開けてもらえたんですね」と冷静な言葉が返ってきたときは、若干ショックを受けた。

「……はい。でもエルは私を部屋に連れ込もうと、手を伸ばしてきたんです……最低な男です」

 引っ込んでしまった涙を無理矢理捻り出し、涙目で白髪の彼を見上げる。「それは気の毒に」と彼は同情してくれたが、その髭を蓄えた口元は緩んでいた。子供の遊びに付き合っているという風で、あまり面白くない。

「ワイミーさん、エルに注意してくれませんか?」

「そうですね……女性に力の加減をしないのは問題です。一緒にエルのところへ行きましょう」

「えっ、一緒にですか…?」

「はい。謝ってもらったほうがいいでしょう?」

 当然とばかりに言われ、ナナは勢いでここに来たことを後悔した。どうしてその可能性に気付かなかったのか。一緒に行ったら、エルが根に持つに違いない。
 ナナは何か理由をつけて断ろうとしたが、その理由を考えているうちに手を取られてしまった。

「エル、開けてくれませんか」

 コンコンコン、とワイミーがエルの部屋をノックする。ドアの向こうでかすかな物音がし、ナナは一瞬どんな顔で対面しようか迷ったが、とりあえず悲しそうな顔を作ってエルを迎えた。

「……まだ何か用ですか」

 部屋から出てくるなり、エルはうんざり顔で言う。ワイミーを前にしても動じないその様子に、ナナは年上の余裕を感じて悔しくなったが、それを表に出さないよう努めた。無言で悲愴な顔をキープしている自分の代わりに、ワイミーが口を開く。

「あなたがナナの足を払って転ばせたというのは、本当ですか?」

「……本当ですが、それはこの子が逃げようとしたからで、暴力的なものではありません。私は飴を置く理由が知りたかっただけです」

 エルの口調は、こんな茶番に付き合ってられないとでもいうような、ぞんざいなものだった。その態度にナナはますます悔しくなる。わざわざ目を潤ませているのに、全然こちらを見てくれないのも気に食わない。ナナは泣き顔をやめて、反論することにした。

「でもその後、ものすごく強く腕を引っ張ったじゃない! もう逃げようとしてなかったのに、乱暴にする必要ないでしょ?」

「レディをそんな乱暴に扱うなんて紳士の風上にも置けないって、ワイミーさんも言ってたよ!」と、エルを見上げながら、合図するように繋いだ手をぎゅっと握る。少し間があった後、「はい、まあ、そこまでは言ってませんが……」と隣の彼は曖昧に答えた。
 断言してくれたらよかったが、そんな贅沢は言えない。自分を贔屓するワイミーがこちら側についたと示し、エルにダメージを与えることが狙いだからだ。しかし憎らしいことに、彼は眉ひとつ動かさず――眉は見えないけれど――頭をかきながらボソッと言った。

「……淑女なら少なくとも、こけた時にスカートを押さえると思いますが」

「なっ! 見たの!?」

「見てません」

 紳士なので、と明らさまな棒読みで付け足される。自分への皮肉を感じて、ナナはむっと眉を寄せた。

(この……やせっぽちめ! 何か制裁を与えてやらねば!)

 すがるように隣を見上げる。頼みの綱、ワイミーは、任せろとばかりに――ナナにはそう見えた――頷いて、エルと向き直った。

「……エル。どんな理由であれ、女性に足を掛けたりしてはいけません。あなたはもう12歳…男女の力の差が表れてくる頃です。手を掴むならまだしも、足を出すのは褒められたことではありません」

「……………」

 エルは何も言わず、面白くなさそうに頭をかき、それからジトっとこちらを見下ろしてきた。恨みのこもったその目に、ナナはビクッと体を震わせたが、頑張って目を合わせる。自分は悪くないと強気で見つめ返し続けた末、エルは観念したように口を開いた。

「……確かに、先に足を出したのは悪いと思ってます。すみませんでした」

 意外とあっさり謝られて、ナナは目を瞬かせる。やはりボスも、真のボスには敵わないということか。
 ワイミーに促されて仲直りの握手をし、それが終わるとエルは、もう用は済みましたね、と確認するように聞いてきた。本人の前で口添えの話はできないため、うん、と頷く。エルは「じゃあまた」とワイミーに――自分ではなくワイミーに――挨拶して、部屋に戻っていった。
 バタンと閉められたドアを前に、ナナはぽかんと立ち尽くす。どうしてそれほど、部屋に戻りたいのだろう。

「私達も戻りましょうか」

「はい……あの、ワイミーさん、エルは部屋で何してるんですか?」

 手を引かれながら尋ねてみる。ゆっくりと歩き出した彼は、「ゲームですよ」と柔らかく答えた。

「ゲーム? コンピュータゲームですか?」

「いいえ、もっとリスクの高いものです。何しろお金を賭けますからね。引き際を誤ってしまうと、大損することになります」

「……破産、ですか?」

「そうですね、酷ければ破産です……難しい言葉を知ってますね」

「ギャっ、ギャンブルじゃないですか! そんなこと、あんな子供にやらせていいんですか?」

『あんな子供』のドアのほうを指しながら聞くと、大丈夫です、と微笑まれる。

「実際の売買はエルではなく私が行ってますし、エルはこれまで失敗せず、むしろお金を増やしています……ナナたちが毎日美味しい物を食べられるのは、エルのおかげだとも言えます」

(やるなあ、エル……)

 ただの引きこもりではなく、『できる』引きこもりだったらしい。それなら、特別扱いされているのも納得がいく。
 ここに連れてこられたときにまず驚いたのが、料理やお菓子の多さとその美味しさだった。ローストビーフは最低50回噛まなければ飲み込めないもの、という常識は、ここに来て覆された。こんなに美味しくて経営は大丈夫なのかと少し心配していたが、なるほど、その分エルが稼いでいたのだ。
 しかしこれで、一人部屋獲得へのハードルが上がってしまった。自分も何かハウスに貢献しなければ、きっと部屋はもらえないだろう。

「……ワイミーさん」

「はい」

「私も何か、ハウスの役に立つことがしたいです!」

 勢いよく顔を上げて宣言する。彼は驚いたように眉を上げ、それからふっと微笑んだ。

「ここで勉強してくれているだけで、十分役に立ってますよ。皆がそれぞれやりたい事を見つけて、その道へ進んでいくのを見届けることが、私の幸せです。エルは――これは、本人に聞いてみないとわからない部分もありますが――少なくとも、お金を稼ぎたくてゲームをしているのではありません。私の目には、マネーゲームを純粋に楽しんでいるように見えます……役に立ちたいと思う事は、とても良い事です。しかし私にとっては、のびのびと好きな事に熱中しているあなたたちの姿を見る事が、何よりも嬉しいのです」

 そう答えた彼は、とても穏やかな顔をしていた。子供たちを思うその表情と言葉に、ナナの胸がじんと熱くなる。同時に、一人部屋のために『役に立ちたい』などと心にもない事を言った自分の醜さが、はっきりと浮かび上がった。
 ワイミーはエルだけでなく自分たちのことも気に掛けて、大切に思ってくれているのに、自分はなんて独りよがりなのだろう。どうして一人部屋が欲しいなんて、わがままなことを思ってしまったのだろう。
 自分への嫌悪感から、ナナは無言で顔を俯かせる。ワイミーはその様子を不思議そうに見つめたが、何も言わず、一緒に歩を進めた。



 からりと晴れた空の下、子供たちの楽しげな声が響き渡る。
 煉瓦でできた教会風の建物――ワイミーズハウスの敷地内で、子供たちが元気にボールを弾ませていた。七月半ばの日差しは暑く、彼らは時折走るのをやめ、Tシャツの袖に額の汗を擦り付ける。
 一方、離れた木陰に座るナナは汗を流さず、涼やかな風に髪を揺らせていた。彼女の視線は彼らのサッカーに向けられていたが、まったく別の事を考えていた。
――自分は将来、何になりたいんだろう。
 ワイミーと話してから、その疑問が頭の中を巡っている。熱中している子供たちの姿が好きだと、彼は言った。しかし自分は、その姿を見せたことがあるだろうか。
 思い返してみれば、何かに熱中した事がないように思う。本を読むのは好きだし、ボール遊びも好きだ。でも、我を忘れるとまではいかない。主人公に感情移入しながらも、この作家だから先はこうなるだろうと冷静に読んでしまったり、ボールを蹴りながら、夕飯の献立を考えてしまったりする。特になりたいものもない――周りの子にはあるというのに。アメリアはデザイナー、オリバーはパイロット、トミーは弁護士。何だか自分が、この施設から浮いているようで虚しい。
――……もしかしたら、追い出されてしまうかもしれない。
 そう考えて、ぎゅっと胸が苦しくなる。それは嫌だ。それだけは、決して。
 何か、何かあるはずだ、集中したことが――エルを部屋から出させたこと以外に。
――エル。
 エルは、何になりたいのだろう。ギャンブルしているくらいだから、あまり将来のことは考えてなさそうだけれど。
 聞いてみよう、と立ち上がり、スカートについた砂をパタパタ払う。サッカーしている脇を通って階段を上がり、ナナはハウスへの扉を開けた。
 ひんやりした空気が、腕や足を撫でる。昼休み中のハウス内はしんと静まり返っていて、扉の閉まる音が石張りの天井に反響した。静謐な雰囲気に、自然と背筋が伸びる。
――そういえば、初めてここに入ったときも、こんな風にしてたっけ。
 そんなことを思い出しながら、ナナはゆっくりとエルの部屋へ歩き出した。きっとエルは自分に会ってくれないだろう。嫌々握手していたのだ。顔も見たくないか、もしくは――蹴飛ばしたいか。

(いやいや、大丈夫。蹴飛ばしたらワイミーさんが黙ってないし……)

 大丈夫だと自分に言い聞かせているうちに、彼の部屋に到着する。ナナは右手を上げて、恐る恐るドアをノックした。反応はない。

「エルー? エルさーん……いないの?」

 呼び掛けてみても、返事はない。昼寝してるんだろうか。
 少し屈んで、鍵穴に耳を寄せる。何やらカチャカチャと、プラスチックのようなものを弾いている音が聞こえてきた。触ったことがないからわからないが、コンピューターの音だろうか。じっと耳をすませていると、カチャカチャ音は一定ではないことに気付く。エルが操作しているに違いない。

「…エルー、いたら返事してー」

「……………」

 カチャカチャは途切れることなく鳴っているのに、声は返ってこない。無視だ。やはり怒っている。自分より大人かと思えば子供で、エルはよくわからない。このままでは質問もできないので、きちんと謝ることにした。

「昨日はワイミーさんにチクっちゃって、ごめんね」

「……………」

「一人部屋はもう諦めたよ。口添えの話ももうしない」

「……そうですか」

 声は低かったものの、エルはようやく反応してくれた。ナナはほっと息をつき、話を続ける。

「うん……ワイミーさんにはワガママ言わないって決めたの」

「そうですか」

「ワイミーさんてドライなとこもあるけど、すごく人間ができてる人だよね」

「そうですね」

「……ねえ、エルって、将来の夢とかある?」

「……特にないです」

「ほんとにない……?」

「はい」

「よかったー、私と一緒!」

「……………」

「エルにないんだから、後二年は夢なくても大丈夫だよね。ここ追い出されたりしないよね?」

「それはわかりません」

「でも、ワイミーさん優しいし、大丈夫だよね!」

「……………」

「わー、なんかすごい楽になった。ありがとうエル、じゃあねー!」

 ドアに呼び掛け、足取り軽く廊下を歩く。ほとんど一方的に話していた気がするが、気持ちは先ほどよりずっと穏やかになっていた。
 少なくとも、二年の猶予がある。その間にゆっくり、自分の好きなことを見つけていけばいい。
 そうだ。来月からは――今月はもうおこづかいを使ってしまった――休みの日にちょっと遠出してみよう。悪ガキたちに絡まれるのが嫌で行けなかったところにも、勇気を出して行ってみよう。本やテレビだけでは見えない世界があるはずだ。
 どこそこの子供たちの縄張りだなんて、もう関係ない。今のナナ・ブラウンは、施設を転々とする可哀想な子供ではなく、ワイミーズハウスの子供――高度な教育を受けている、前途有望な子供なのだから。


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