エルという人が、このワイミーズハウスにいるらしい。
ナナがそのことを知ったのは、ハウスに来て3ヶ月目、ずっと抱いていた疑問を同室の子に尋ねたときだった。
「エルよ、それ」
「……エル?」
聞き慣れない名前だ。聞き返すと、ペディキュアを塗っていた彼女は思い出したように、足先からこちらへ目を移した。
「ナナは知らないね。ワイミーさんがケーキを持っていく部屋に、エルって子がいるの。私の一個下」
ああだから、とナナは納得して頷く。ワイミーがティーセットをあの部屋に持っていくのはそのためか。エルは病気か何かなの、と尋ねると、何故かアメリアは目を細めて笑った。
「まさか。来て早々に喧嘩を買って、年上の人達倒した子が、病気? ないない、ただこもってコンピューターいじってるだけよ」
「コンピューターって…何でそんな高価なものを持ってるの? というか、何でエルだけ一人部屋なの?」
「特別だからよ。彼は頭が抜群に良いの」
形の良い爪をピンクに塗りながら、彼女は『特別』を必要以上に強調する。その言葉に、ナナはむっと眉を寄せた。
ワイミーズハウスでの生活は以前よりずっと快適で、不満などナナはさらさら持ってない。しかし特別扱いされている子がいるのなら、話は別だ。一人部屋なんて今まで一度も持ったことがないし、授業に出なくていいとは、羨ましいにも程がある。
「……なんか、納得いかない」
「そう。部屋にこもってくれてたほうがいいと私は思うけど」
「どうして?」
さあ、と気のない返事が戻る。爪に塗料を塗る作業に集中しているらしい。
「……他の子たちに聞いてみたら? すぐにわかるかもよ」
ナナはアメリアに言われた通り、ハウス内をぐるぐる歩いて、会う人会う人にエルについて聞いて回った。彼らの反応は様々だった。
まず最年長(14歳)のジョンは、あいつの名前を出さないでくれと言って逃げ出し、同い年くらいの子は、「ごめん、思い出したくない」と歯切れ悪く答え、年下の子はジョンと同じく、名前を聞いた途端逃げ出した。
なるほど、エルなる人物はここのボスなのだ。青ざめた顔で走り去っていく子を見つめ、ナナはふむ、と腕を組む。ボスというより、子供たちに恐怖を植え付ける、裏番的存在。どこの施設にも裏番はいるが、ここまで恐れられている人は中々いないのではなかろうか。
是非とも見たい。できれば会って取り入りたい。相手は設立者をも配下に置く大物だ。彼がちょっと口添えしてくれれば、ワイミーに懇願してきた、念願の一人部屋が手に入るはず!
ふふふ、と緩む口元を押さえ、部屋に戻るべくくるりと向きを変える。エルの部屋を訪問する勇気なんてない――まずは綿密な計画が必要だ。
*
翌朝。ワイミーズハウス内に起床の鐘が鳴り、子供たちが起き上がる中、ナナは一人、ベッドの上で毛布にくるまっていた。
「ちょっと、いつまで寝てるつもり?」
隣のベッドからとげとげしい声が掛けられる。アメリアだ、とナナが察する間もなく、さっさと起きなさいと毛布を剥がされそうになり、慌てて返事した。
「おなか痛くて……」
「……ふーん。職員の人呼んでくる?」
「……うん」
数分後には、職員の人がアメリアを連れて入って来た。彼女はいくつか質問すると、本当に具合が悪いと判断したらしく、一日休んでいるようにと言った。はい、とナナはしおらしく頷いてみせる。彼女は安静にねと柔らかい笑みを浮かべ、布団を掛け直してくれた。その優しさに良心が傷んだが、計画のためには仕方のないことなのだと自分を正当化して心の平穏を保つ。避けて通ることはできない道なのだ。
職員が出ていき、部屋に誰もいなくなったところで、ナナはサイドテーブルからメモとペンを取り出した。それからマントルピース上の置時計に目をやる。時刻は8時。もう授業がはじまっている。廊下には誰もいないだろう。
テーブルの上にメモを置き、さらさらとペンを走らせた。
『ごめんなさい。
私はこれから、ボスのところへ挨拶しに行かなければならないのです。ナナ』
嘘はついていない。でもこれじゃ外に出たと思われるかも、とナナは思い、下の方にかっこ書きで『ちなみに、ボスはハウス内にいます』と付け足した。
よし、これで完璧。もし職員の人が入ってきてメモを見ても、あまり心配しないだろう。
ナナは起き上がると私服に着替えて――まさかパジャマでボスにまみえる訳にはいかない――引き立しの中に隠していた飴をスカートのポケットに入れた――献上品だ。そして、意気揚々とドアを開いた。
向かう先はもちろん、エルの部屋――ではなく。共同トイレがある廊下だ。引きこもりもトイレには行くはず。近くで見張っていれば、エルと会えるはずだ。
彼が来るであろう通路から、死角になるところを探して身を隠す。これは一か八かの賭けだ。誰かに見つかったら、もうこの手は使えない。授業が終わる前に来ますように、とナナは人差し指と中指をクロスさせ、彼が来るのを待った。
――三十分ほど経っただろうか。
待ち人が来る気配はなく、段々焦りが込み上げてくる。そろそろ授業が終わってしまう。教室から出てきた人に見られないよう、違うところに隠れようか、ともう一度辺りを見回したその時。ペタペタという足音が耳に入ってきた。ナナはハッと息を呑み、その姿が現れるのを待った。
壁から少ししか顔を出せなかったが、ボスの姿が十分見えた――彼は、ナナが想像していた姿とはまるっきり違った。
まず、相手を怯ませるほど眼光が鋭いのだと予想していた目はギョロリと大きく、その下にある隈との相乗効果で少し気味が悪く見える。彫りは深そうだがアジア系にも見え、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出していた。しかしそれだけではなく、跳ねた黒髪や靴も靴下も履いてない足、だぼだぼのジーンズをだぼだぼさせながら外股に歩く姿から、野性的なものも感じる。ミステリアスとワイルドの融合。こんなハーモニーを生み出す人がいるなんて、と妙な感動を覚えていると、エルはトイレのドアを開けて入っていった――しかし、ドアが閉められる気配はない。
(私をおびき寄せるため? いや、まさか、そんな凝ったことは……)
ナナは走って閉めに行きたい衝動に駆られたが、罠の可能性もあるので、我慢して彼が出てくるのを待った。
やがて、水が流される音と共にエルがトイレから出てきた。彼は部屋に戻ろうと、こちらに背を向けようとした。しかし、その直前。彼の目が何気なくこちらを向いた。
視線がぶつかり、どきりと胸が跳ねる。ナナはとっさに顔を引っ込めた。
大概ボスとなる人間は、施設に連れてこられる前に悪ガキとして名を馳せていた者が多く、人の気配に敏感だ。だから気付かれていることは承知していた。しかし、彼の瞳はもっと奥、自分の心の中まで見透かしているようだった。
バクバク鳴る心臓を静めるために、ひとつ深呼吸する。何を動揺してるんだ。ボスと話すためには、気付かれないと意味がないではないか。
少し落ち着くと、近づいてくるはずの足音が聞こえないことに気づいた。ナナはまた、恐る恐る顔を出してみる。
――彼の姿はどこにもなかった。
*
エルとの接触は失敗に終わったが、ナナは諦めず計画の第二段階へ移行した。毎日、飴をエルの部屋の前に置くという作戦だ。もちろんドアの前ではなく、開くと同時に目に入るよう距離を取って置く。
あの時は興味を示してくれなかったエルも、毎日飴を置かれれば嫌でも意識する。自分の飴を犠牲にする価値はある。エルもすぐにドアを開けるだろう。
そう思っていたナナだったが、彼は予想以上にしぶとかった。
エルは飴を拾う以前に、移動させることもしなかった。そのため毎日廊下に飴が貯まり、とうとうワイミーが見かねたのか、二週間後にはかごに入れられていた。しかしそれでもナナは、かごの外に飴を置き続けた。
一ヶ月後にはかごが満杯になり、新しいかごが用意された。飴で詰まったかごは部屋の向かいに置かれ、『ご自由にどうぞ』ときれいな字で書かれた――たぶんワイミーかエルだ――メモが貼ってあった。
エルを知らない子供たちが喜んで飴を取っていく様を見て、ナナはぐぬぬ、と拳を握る。これじゃあエルの好感度が上がるだけではないか。
やめようかとも思ったが、ナナはやめなかった。もう意地になっていた。エルが自分に会いに来るまで、飴を置き続ける。これはエルとの戦いだ。必ず部屋から出させてやる!
ナナはワイミーからもらえるおこずかいを、すべて飴に費やした。もちろん、味にもこだわった。毎日ワイミーが運ぶお菓子をメモし、エルの好みを分析すると、定番のシャーベット・レモンからチュッパチャプスまで、毎日あらゆる種類の飴を置いた。
そうした努力と根気が認められたのか、二ヶ月が過ぎ春から夏に変わる頃、ついにドアが開いた。
いつも通り飴を置いた瞬間、軋む音ともにドアが開き、中からバッと手が伸ばされる。ナナは反射的に、逃げるように身を屈めたが、相手はそれも予測していたらしく片足を軽く引っ掛けられた。唐突にバランスを失い、こてんと尻もちをつく。
「いたた……っと!」
ボスの姿を見上げる前に、がしと手首を掴まれ、強く引き上げられた。まったく、野性児で引きこもりだから仕方がないかもしれないが、女の扱い方がなっていない。
「飴を置いていたのはあなたですね」
断定するようにエルは言う。初めて聞いた彼の声は、高すぎず低すぎず、しかし声変わりはしてなさそうな声だった。乱暴に起き上がらせたというのに、その顔は無表情で怒りは見えない。
ナナはとりあえずほっとして、はい、と素直に答えた。
「何でこんな事を。用があるなら普通にノックすればいいじゃないですか」
「……それだとインパクトがなくてつまらないかなと思って。だから少しでも気を引こうと、甘いものを、飴を置いてたんです」
まさか、こわくてノックできなかったとは本人に言えない。ナナは作り笑顔を浮かべてにこやかに答えたが、彼は胡散臭そうに目を細めた。
「……そうですか。で、何の用ですか」
まずい、いくらなんでもその理由はなかったか。ナナは笑みを貼りつけながら、ぐるぐる頭を回転させる。
――ここは一旦引くべき? いや、引いたら二度と会ってくれないだろう。三ヶ月間飴を置き続けて、ようやくドアを開けた男だ。……ああもう、計画は中止。単刀直入に言ってしまおう。
「……私も、一人部屋が欲しいの」
「……は?」
「だからワイミーさんにあなたから口添えして欲しくて……あっ、ちょっと!」
話している途中でエルは背を向け、部屋の中へ戻ってしまった。閉められる寸前に慌ててドアを掴む。
「待ってエル、私は本気よ! それだけ一人部屋への執念が強いの!」
「そのくらい自分で頼んでください……まったく、こんなに飴を置いて何かと思えば……」
開けなきゃよかった、とエルは心底呆れたように呟く。力んでなさそうに見えるが、ドアを閉めようとする力は強い。ナナは必死に抵抗しながら、隙間から見える黒い瞳に訴えた。
「頼んでるけど、相手にしてくれないの……ねえお願い、ちょっと言ってくれるだけでいいから……何でも、するから……!」
「あなたにしてもらいたい事などありません」
エルはばっさり言い捨てると、ベリ、とナナの手を剥がしその鼻先でドアを閉めた。鍵をかける音が聞こえてくる。
「あっ!! ……ケチーっ!」
閉ざされた扉に叫ぶが、反応は返ってこない。ナナはキッとドアを睨むと、回り右して歩き出した。もちろん、ワイミーのところへ泣きつきに行くのだ。エルという少年が、こんないたいけな少女に暴力を奮ったと示しに行くのだ。
しかし大理石の廊下を進むうちに、エルへの苛立ちは奇妙な興奮へと変わっていった。
ボスに勝った。
エルに勝った。
一方的な勝負だったが、それでもエルは自分に会おうとドアを開けた。トイレに行く以外、ドアノブを回さないであろう彼が、だ。そして、開けたことを後悔させた。
要求は突っぱねられたが、何となくエルから一本取った気がして嬉しくなる。
鏡のような床を踏むナナの足取りは、自然と軽くなっていった。
20140226
back
ナナがそのことを知ったのは、ハウスに来て3ヶ月目、ずっと抱いていた疑問を同室の子に尋ねたときだった。
「エルよ、それ」
「……エル?」
聞き慣れない名前だ。聞き返すと、ペディキュアを塗っていた彼女は思い出したように、足先からこちらへ目を移した。
「ナナは知らないね。ワイミーさんがケーキを持っていく部屋に、エルって子がいるの。私の一個下」
ああだから、とナナは納得して頷く。ワイミーがティーセットをあの部屋に持っていくのはそのためか。エルは病気か何かなの、と尋ねると、何故かアメリアは目を細めて笑った。
「まさか。来て早々に喧嘩を買って、年上の人達倒した子が、病気? ないない、ただこもってコンピューターいじってるだけよ」
「コンピューターって…何でそんな高価なものを持ってるの? というか、何でエルだけ一人部屋なの?」
「特別だからよ。彼は頭が抜群に良いの」
形の良い爪をピンクに塗りながら、彼女は『特別』を必要以上に強調する。その言葉に、ナナはむっと眉を寄せた。
ワイミーズハウスでの生活は以前よりずっと快適で、不満などナナはさらさら持ってない。しかし特別扱いされている子がいるのなら、話は別だ。一人部屋なんて今まで一度も持ったことがないし、授業に出なくていいとは、羨ましいにも程がある。
「……なんか、納得いかない」
「そう。部屋にこもってくれてたほうがいいと私は思うけど」
「どうして?」
さあ、と気のない返事が戻る。爪に塗料を塗る作業に集中しているらしい。
「……他の子たちに聞いてみたら? すぐにわかるかもよ」
ナナはアメリアに言われた通り、ハウス内をぐるぐる歩いて、会う人会う人にエルについて聞いて回った。彼らの反応は様々だった。
まず最年長(14歳)のジョンは、あいつの名前を出さないでくれと言って逃げ出し、同い年くらいの子は、「ごめん、思い出したくない」と歯切れ悪く答え、年下の子はジョンと同じく、名前を聞いた途端逃げ出した。
なるほど、エルなる人物はここのボスなのだ。青ざめた顔で走り去っていく子を見つめ、ナナはふむ、と腕を組む。ボスというより、子供たちに恐怖を植え付ける、裏番的存在。どこの施設にも裏番はいるが、ここまで恐れられている人は中々いないのではなかろうか。
是非とも見たい。できれば会って取り入りたい。相手は設立者をも配下に置く大物だ。彼がちょっと口添えしてくれれば、ワイミーに懇願してきた、念願の一人部屋が手に入るはず!
ふふふ、と緩む口元を押さえ、部屋に戻るべくくるりと向きを変える。エルの部屋を訪問する勇気なんてない――まずは綿密な計画が必要だ。
*
翌朝。ワイミーズハウス内に起床の鐘が鳴り、子供たちが起き上がる中、ナナは一人、ベッドの上で毛布にくるまっていた。
「ちょっと、いつまで寝てるつもり?」
隣のベッドからとげとげしい声が掛けられる。アメリアだ、とナナが察する間もなく、さっさと起きなさいと毛布を剥がされそうになり、慌てて返事した。
「おなか痛くて……」
「……ふーん。職員の人呼んでくる?」
「……うん」
数分後には、職員の人がアメリアを連れて入って来た。彼女はいくつか質問すると、本当に具合が悪いと判断したらしく、一日休んでいるようにと言った。はい、とナナはしおらしく頷いてみせる。彼女は安静にねと柔らかい笑みを浮かべ、布団を掛け直してくれた。その優しさに良心が傷んだが、計画のためには仕方のないことなのだと自分を正当化して心の平穏を保つ。避けて通ることはできない道なのだ。
職員が出ていき、部屋に誰もいなくなったところで、ナナはサイドテーブルからメモとペンを取り出した。それからマントルピース上の置時計に目をやる。時刻は8時。もう授業がはじまっている。廊下には誰もいないだろう。
テーブルの上にメモを置き、さらさらとペンを走らせた。
『ごめんなさい。
私はこれから、ボスのところへ挨拶しに行かなければならないのです。ナナ』
嘘はついていない。でもこれじゃ外に出たと思われるかも、とナナは思い、下の方にかっこ書きで『ちなみに、ボスはハウス内にいます』と付け足した。
よし、これで完璧。もし職員の人が入ってきてメモを見ても、あまり心配しないだろう。
ナナは起き上がると私服に着替えて――まさかパジャマでボスにまみえる訳にはいかない――引き立しの中に隠していた飴をスカートのポケットに入れた――献上品だ。そして、意気揚々とドアを開いた。
向かう先はもちろん、エルの部屋――ではなく。共同トイレがある廊下だ。引きこもりもトイレには行くはず。近くで見張っていれば、エルと会えるはずだ。
彼が来るであろう通路から、死角になるところを探して身を隠す。これは一か八かの賭けだ。誰かに見つかったら、もうこの手は使えない。授業が終わる前に来ますように、とナナは人差し指と中指をクロスさせ、彼が来るのを待った。
――三十分ほど経っただろうか。
待ち人が来る気配はなく、段々焦りが込み上げてくる。そろそろ授業が終わってしまう。教室から出てきた人に見られないよう、違うところに隠れようか、ともう一度辺りを見回したその時。ペタペタという足音が耳に入ってきた。ナナはハッと息を呑み、その姿が現れるのを待った。
壁から少ししか顔を出せなかったが、ボスの姿が十分見えた――彼は、ナナが想像していた姿とはまるっきり違った。
まず、相手を怯ませるほど眼光が鋭いのだと予想していた目はギョロリと大きく、その下にある隈との相乗効果で少し気味が悪く見える。彫りは深そうだがアジア系にも見え、どこかミステリアスな雰囲気を醸し出していた。しかしそれだけではなく、跳ねた黒髪や靴も靴下も履いてない足、だぼだぼのジーンズをだぼだぼさせながら外股に歩く姿から、野性的なものも感じる。ミステリアスとワイルドの融合。こんなハーモニーを生み出す人がいるなんて、と妙な感動を覚えていると、エルはトイレのドアを開けて入っていった――しかし、ドアが閉められる気配はない。
(私をおびき寄せるため? いや、まさか、そんな凝ったことは……)
ナナは走って閉めに行きたい衝動に駆られたが、罠の可能性もあるので、我慢して彼が出てくるのを待った。
やがて、水が流される音と共にエルがトイレから出てきた。彼は部屋に戻ろうと、こちらに背を向けようとした。しかし、その直前。彼の目が何気なくこちらを向いた。
視線がぶつかり、どきりと胸が跳ねる。ナナはとっさに顔を引っ込めた。
大概ボスとなる人間は、施設に連れてこられる前に悪ガキとして名を馳せていた者が多く、人の気配に敏感だ。だから気付かれていることは承知していた。しかし、彼の瞳はもっと奥、自分の心の中まで見透かしているようだった。
バクバク鳴る心臓を静めるために、ひとつ深呼吸する。何を動揺してるんだ。ボスと話すためには、気付かれないと意味がないではないか。
少し落ち着くと、近づいてくるはずの足音が聞こえないことに気づいた。ナナはまた、恐る恐る顔を出してみる。
――彼の姿はどこにもなかった。
*
エルとの接触は失敗に終わったが、ナナは諦めず計画の第二段階へ移行した。毎日、飴をエルの部屋の前に置くという作戦だ。もちろんドアの前ではなく、開くと同時に目に入るよう距離を取って置く。
あの時は興味を示してくれなかったエルも、毎日飴を置かれれば嫌でも意識する。自分の飴を犠牲にする価値はある。エルもすぐにドアを開けるだろう。
そう思っていたナナだったが、彼は予想以上にしぶとかった。
エルは飴を拾う以前に、移動させることもしなかった。そのため毎日廊下に飴が貯まり、とうとうワイミーが見かねたのか、二週間後にはかごに入れられていた。しかしそれでもナナは、かごの外に飴を置き続けた。
一ヶ月後にはかごが満杯になり、新しいかごが用意された。飴で詰まったかごは部屋の向かいに置かれ、『ご自由にどうぞ』ときれいな字で書かれた――たぶんワイミーかエルだ――メモが貼ってあった。
エルを知らない子供たちが喜んで飴を取っていく様を見て、ナナはぐぬぬ、と拳を握る。これじゃあエルの好感度が上がるだけではないか。
やめようかとも思ったが、ナナはやめなかった。もう意地になっていた。エルが自分に会いに来るまで、飴を置き続ける。これはエルとの戦いだ。必ず部屋から出させてやる!
ナナはワイミーからもらえるおこずかいを、すべて飴に費やした。もちろん、味にもこだわった。毎日ワイミーが運ぶお菓子をメモし、エルの好みを分析すると、定番のシャーベット・レモンからチュッパチャプスまで、毎日あらゆる種類の飴を置いた。
そうした努力と根気が認められたのか、二ヶ月が過ぎ春から夏に変わる頃、ついにドアが開いた。
いつも通り飴を置いた瞬間、軋む音ともにドアが開き、中からバッと手が伸ばされる。ナナは反射的に、逃げるように身を屈めたが、相手はそれも予測していたらしく片足を軽く引っ掛けられた。唐突にバランスを失い、こてんと尻もちをつく。
「いたた……っと!」
ボスの姿を見上げる前に、がしと手首を掴まれ、強く引き上げられた。まったく、野性児で引きこもりだから仕方がないかもしれないが、女の扱い方がなっていない。
「飴を置いていたのはあなたですね」
断定するようにエルは言う。初めて聞いた彼の声は、高すぎず低すぎず、しかし声変わりはしてなさそうな声だった。乱暴に起き上がらせたというのに、その顔は無表情で怒りは見えない。
ナナはとりあえずほっとして、はい、と素直に答えた。
「何でこんな事を。用があるなら普通にノックすればいいじゃないですか」
「……それだとインパクトがなくてつまらないかなと思って。だから少しでも気を引こうと、甘いものを、飴を置いてたんです」
まさか、こわくてノックできなかったとは本人に言えない。ナナは作り笑顔を浮かべてにこやかに答えたが、彼は胡散臭そうに目を細めた。
「……そうですか。で、何の用ですか」
まずい、いくらなんでもその理由はなかったか。ナナは笑みを貼りつけながら、ぐるぐる頭を回転させる。
――ここは一旦引くべき? いや、引いたら二度と会ってくれないだろう。三ヶ月間飴を置き続けて、ようやくドアを開けた男だ。……ああもう、計画は中止。単刀直入に言ってしまおう。
「……私も、一人部屋が欲しいの」
「……は?」
「だからワイミーさんにあなたから口添えして欲しくて……あっ、ちょっと!」
話している途中でエルは背を向け、部屋の中へ戻ってしまった。閉められる寸前に慌ててドアを掴む。
「待ってエル、私は本気よ! それだけ一人部屋への執念が強いの!」
「そのくらい自分で頼んでください……まったく、こんなに飴を置いて何かと思えば……」
開けなきゃよかった、とエルは心底呆れたように呟く。力んでなさそうに見えるが、ドアを閉めようとする力は強い。ナナは必死に抵抗しながら、隙間から見える黒い瞳に訴えた。
「頼んでるけど、相手にしてくれないの……ねえお願い、ちょっと言ってくれるだけでいいから……何でも、するから……!」
「あなたにしてもらいたい事などありません」
エルはばっさり言い捨てると、ベリ、とナナの手を剥がしその鼻先でドアを閉めた。鍵をかける音が聞こえてくる。
「あっ!! ……ケチーっ!」
閉ざされた扉に叫ぶが、反応は返ってこない。ナナはキッとドアを睨むと、回り右して歩き出した。もちろん、ワイミーのところへ泣きつきに行くのだ。エルという少年が、こんないたいけな少女に暴力を奮ったと示しに行くのだ。
しかし大理石の廊下を進むうちに、エルへの苛立ちは奇妙な興奮へと変わっていった。
ボスに勝った。
エルに勝った。
一方的な勝負だったが、それでもエルは自分に会おうとドアを開けた。トイレに行く以外、ドアノブを回さないであろう彼が、だ。そして、開けたことを後悔させた。
要求は突っぱねられたが、何となくエルから一本取った気がして嬉しくなる。
鏡のような床を踏むナナの足取りは、自然と軽くなっていった。
20140226
back