それは、退屈にも思えた月の日常にとって、大きな変化だった。

「ショートステイ……!?」

 ああ、と父、夜神総一郎は何でもないように頷き、後ろの玄関にたたずむ男を振り向いた。

「イギリスから来たエル君だ。これから3ヶ月、うちで生活する。月より年は上だが、世界的に有名な大学に通っていて、もしかしたら気が合うかもしれないな。よろしく頼む」

「はじめまして、Lです。よろしくお願いします」

 月は改めて、お辞儀をした男を見る。まず目につくのが目の下に刻まれた隈、そしてぎょろりとした目。姿勢も良いとはいえず、酷い猫背だ。白い長袖にだぼっとしたジーンズという出で立ちも、なんだかいけ好かない。何より、日本人と違わぬ流ちょうな日本語がいけ好かない。ただ父の手前、にこやかに挨拶する。

「……よろしく。僕は夜神月。月と書いてライトと読む」

「変わった名前ですね」

 それは僕も思っているけど父の前で言うことはないだろう、と月は眉をひそめたが、総一郎は朗らかに笑った。

「ははは、少し人とは違う名前をつけたくてね……さあ、上がってくれ」

「お邪魔します」

 スニーカーを脱ぎ、エルは躊躇なく夜神家へ足を踏み入れた。フローリングの上に置かれた白い足に、月はぎょっとした。
 ――この男、裸足だ。
 スニーカーを見ると踵が折られている。少し不衛生ではないかと、父に視線を送るが、彼は全く気にしていないようだった。そのままリビングの扉を開ける。

「ただいま、幸子、粧裕」

「あら、おかえりなさい」

「おかえりー」

 帰ってきた父に挨拶を返すと、二人の視線はエルへと移った。

「……彼がショートステイの?」

「わー、ほんとに来たんだ!」

 知らなかったのは月だけだったらしい。慌ただしくこちらに来た二人に、エルは先ほどと同じく挨拶した。

「はじめまして、Lです。よろしくお願いします」

「日本語お上手ね〜、よろしくお願いします」

「よろしくね!」

 エルの胡散臭さを感じていないらしく、二人は明るく挨拶を返す。イギリスはどんなところだったの?と会話を始めた粧裕たちを目にして、月は思った。どうやらこの中で常人なのは僕だけらしい。この胡散臭い男から、家族を守らなければ。月はそっと拳を握り、静かに決意した。



 そうは言っても、エルは夜神家にどんどん溶け込んでいく。

「お兄ちゃん、ご飯食べたら数学教えてよー」

「ああ、いいよ」

「あっ、お兄ちゃんも良いけど、エルに教えてもらってみたら?」

 母が箸を止め隣を見た。体育座りのような格好で椅子の上に座るエルは、カボチャを取りながらちらりと母を見る。座り方もそうだが箸使いがうまいこともいけ好かない。彼はあっさりとうなずいた。

「いいですよ」

「ほんと? じゃあ、ご飯終わったらね!」

 粧裕は喜んでいる。なんだか面白くない。だがそれを言うことはせずご飯とともに飲み込むと、粧裕はこちらに言った。

「お兄ちゃん、来週教えてね」

「……ああ」

 妹の気遣う言葉に頷く。わかりやすかっただろうかと、少し反省した。
 夕食後、エルと粧裕が部屋に入っていくのを見届け、月は粧裕の部屋の扉に耳をつけた。エルが粧裕を……なんてこともありうるからだ。家族を守るためには仕方がない。二人のやりとりが聞こえてきた。

「どこがわからないんですか?」

「関数のとこで……あった、この問題がわかんない」

「ああ、ここはこうでこの数式を使うと解けます。なぜなら……」

 世界的に有名な大学に通っていることは本当らしく、エルはさらりと理由もつけて回答した。粧裕はわかったようで、嬉しそうな声が聞こえてきた。

「へー、そうなんだ! お兄ちゃんと同じくらいわかりやすい」

「……お兄さんは、どんな人ですか?」

「優しくて、器用で、頭が良くて、スポーツもできて……私から見たら完璧なお兄ちゃんだよ」

「そうですか……私も、月君と仲良くなりたいです」

 エルの言葉に月は驚いた。まさか、自分と仲良くなりたいと思っているとは。

「ふふふ、仲良くなれると思うよ! 二人ともなんか似てるもん!」

「そうですかね」

 全く似ていないと思う、と月は思ったが、自分と仲良くなりたいと言ったエルの言葉を頭の中で反芻する。そうか、エルはそう思ってくれているのか。少し、エルのことを見直した月だった。

2020/11/29


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