父、夜神総一郎の病室を出たときには、すでに配膳車が廊下を行き交い、配膳員が忙しげに食事を運び込んでいた。その中を竜崎が悠然と歩き出し、月もゆっくりと後を追う。背中の曲がった、その憎らしい後ろ姿を睨みながら。
流河早樹――竜崎はLだと父親から明かされたのは、つい先ほどのことだった。Lと宣言されたときから抱いていた疑念を父が晴らし、同時にLから直々に、これまでの捜査の過程を聞かされた。彼の推理は、全て当たっていた。それもそうだろう。仮にも世界一の探偵を名乗り、自分を出し抜いた奴だ。当たっていない方がおかしい。
配膳車で狭くなった通路で、向かいから来た人々を避ける。やがて、後ろから聞き覚えのある声が耳に入り、月は思わず足を止めて振り向いた。深刻そうに母親らしき人物と話している女――顔は確認できないが、その後ろ姿には見覚えがあった。
確か高校の同級生だった、鈴木ナナという女だ。クラスは三年間同じだったが、話したことはあまりない。クラスでは大人しく、比較的地味だったように思う。容姿は優れている方で、山元がよく彼女のことを話題にしていた。
「どうしました?」
掛けられた声に、ハッとして前を向く。いつの間に来ていたのか、竜崎がそばに立ち、彼女のほうを見つめていた。
「何でもない……知り合いを見つけただけだ」
「……そうですか」
竜崎は特に深くは理由を聞かず、再びスニーカーを引きずりながら歩き出した。どうせ後で、彼女について調べるつもりだろう。残念ながら、鈴木ナナからは何も出てこない。
――だからこそ、疑問に思う。
何故、彼女の声に足を止めたのか。特徴のない外見だというのに、何故後ろ姿で彼女と気付けたのか。ふと、真面目に考え始めている自分に気付き、月は心の中で自嘲する。
――馬鹿馬鹿しい。そんなくだらないことを考えてどうする。今考えるべきは、目の前の男の本名――捜査本部でどう立ち回り、これを手に入れるかだ。
*
――父が死んだ。
最近は体調も良く、この調子なら退院できると医者も言っていた。しかし容態は急変し、父は帰らぬ人となった。
ナナには信じられなかった。あの優しい、家族思いの父が死んだなんて。
「えっ、マジで〜〜」
女子高生たちが前を通り過ぎる。声がいやに甲高く感じ、下を向いて耳をふさぐ。
世界は父がいなくても、こうして回っている。それを雑踏の音や人々の声によって、気づかされるのが嫌だった。
きっと、父でなくてもそうなのだ。誰かが死んでも、自分が死んでも、世界は何の感慨もなく、回り続けるに違いない。
「……大丈夫ですか?」
男の声が降ってきた。目を開くことも億劫で、ナナは顔を上げず口だけで答える。
「大丈夫です」
「なら、いいんですが……」
隣で誰かが座った気配がした。おそらく今尋ねてきた男だろう。
また話しかけられると思いきや、男はそれきり何も言わない。何がしたいのか、よくわからない。ナナは仕方なく目を開け、隣を見た。
そこには白い長そでとぶかぶかのジーンズを履いた、奇妙な男がいた。奇妙だと思ったのは、その目の下に刻まれた隈が濃すぎる、というのもあるが、普通に階段に座るのではなく、段の上にしゃがむように座っていたからだ。男は、自分と目が合うなりこう言った。
「あめ、舐めますか?」
あめ、とは何か、一瞬考えてしまった。そしてお菓子の飴だと気づく。ナナは呆気に取られていたが、返事をしなければと思い、首を振った。
「え、いいです……」
「そうですか」
男は特に気を悪くしたようではなかった。ジーンズのポケットに手を入れたかと思うと、中からカラフルな棒付きキャンディを取り出した。包装紙を取り、男はそれを自分の口に入れる。いつも飴を持ち歩いてるのだろうか。ナナはいつの間にか、男に興味を持ち始めていた。
「……あの」
声をかけると、「はい」と黒い大きな目がこちらを向く。
「甘いもの、好きなんですか?」
つまらない質問をしてしまった。飴を持っているくらいだ、好きに決まっているだろう。男は案の定頷いた。
「はい、どちらかといえば」
「……そうなんですね」
「あなたは、甘いものは好きですか?」
尋ねられ、答える。
「私も、どちらかといえば好きです。たまにお菓子を作ったりもします」
「作られるんですね、一度食べてみたいです」
真顔でそう言われ、ナナは思わず笑ってしまった。久しぶりに口角を上げたと、笑った後で気づいた。
「はは、趣味の範囲なので、そんなに凝ったものじゃないですが……よく高校の頃はクラスメイトにあげたりしてました」
「友達や彼氏にですか?」
彼氏、という言葉が出るとは思わなかった。少し驚きつつも、ナナは正直にこたえた。
「友達にはあげましたが……彼氏はいなかったので、あげたことはないです」
「そうでしたか」
「……でも、ずっと好きな人はいました。かっこよくて、賢くて、スポーツもできて……高校の三年間、ずっと好きでした」
道端で会った人に、何を話しているのだろう。そう思ったが、ナナの口は自然と動いていた。誰にも言えなかった思いを、誰かに伝えたかったのかもしれない。
「私はバレンタインに、その人にチョコを渡す勇気もなければ、もちろん告白する勇気もなかったんです。ただその人を目で追って、目が合ったら喜んで……それでいいと思ってました。でも今思うと、少しもったいなかったなという気がします。青春がしたかった……」
あの頃の甘酸っぱい気持ちがよみがえる。綺麗な茶色の髪、少し切れ長の目、すれ違う度に香る清潔な匂い。あの人は完璧だった。不完全な自分と違って。
「時間が巻き戻せたら、と今になって考えることがあります……巻き戻せたら、ちゃんとあの人に告白して、そして……父にも、もっと孝行ができたら……」
いつの間にか泣いていたようで、口の中がしょっぱい。とめどなく涙が押し寄せてくる。ナナは腕の中に顔を伏せ、しゃくりあげるように泣いた。父が死んだときに流さなかった分が、今零れ落ちているように感じた。
ぽん、と軽く頭を撫でられる。優しい感触に、ナナは涙を止められなかった。
20190521
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流河早樹――竜崎はLだと父親から明かされたのは、つい先ほどのことだった。Lと宣言されたときから抱いていた疑念を父が晴らし、同時にLから直々に、これまでの捜査の過程を聞かされた。彼の推理は、全て当たっていた。それもそうだろう。仮にも世界一の探偵を名乗り、自分を出し抜いた奴だ。当たっていない方がおかしい。
配膳車で狭くなった通路で、向かいから来た人々を避ける。やがて、後ろから聞き覚えのある声が耳に入り、月は思わず足を止めて振り向いた。深刻そうに母親らしき人物と話している女――顔は確認できないが、その後ろ姿には見覚えがあった。
確か高校の同級生だった、鈴木ナナという女だ。クラスは三年間同じだったが、話したことはあまりない。クラスでは大人しく、比較的地味だったように思う。容姿は優れている方で、山元がよく彼女のことを話題にしていた。
「どうしました?」
掛けられた声に、ハッとして前を向く。いつの間に来ていたのか、竜崎がそばに立ち、彼女のほうを見つめていた。
「何でもない……知り合いを見つけただけだ」
「……そうですか」
竜崎は特に深くは理由を聞かず、再びスニーカーを引きずりながら歩き出した。どうせ後で、彼女について調べるつもりだろう。残念ながら、鈴木ナナからは何も出てこない。
――だからこそ、疑問に思う。
何故、彼女の声に足を止めたのか。特徴のない外見だというのに、何故後ろ姿で彼女と気付けたのか。ふと、真面目に考え始めている自分に気付き、月は心の中で自嘲する。
――馬鹿馬鹿しい。そんなくだらないことを考えてどうする。今考えるべきは、目の前の男の本名――捜査本部でどう立ち回り、これを手に入れるかだ。
*
――父が死んだ。
最近は体調も良く、この調子なら退院できると医者も言っていた。しかし容態は急変し、父は帰らぬ人となった。
ナナには信じられなかった。あの優しい、家族思いの父が死んだなんて。
「えっ、マジで〜〜」
女子高生たちが前を通り過ぎる。声がいやに甲高く感じ、下を向いて耳をふさぐ。
世界は父がいなくても、こうして回っている。それを雑踏の音や人々の声によって、気づかされるのが嫌だった。
きっと、父でなくてもそうなのだ。誰かが死んでも、自分が死んでも、世界は何の感慨もなく、回り続けるに違いない。
「……大丈夫ですか?」
男の声が降ってきた。目を開くことも億劫で、ナナは顔を上げず口だけで答える。
「大丈夫です」
「なら、いいんですが……」
隣で誰かが座った気配がした。おそらく今尋ねてきた男だろう。
また話しかけられると思いきや、男はそれきり何も言わない。何がしたいのか、よくわからない。ナナは仕方なく目を開け、隣を見た。
そこには白い長そでとぶかぶかのジーンズを履いた、奇妙な男がいた。奇妙だと思ったのは、その目の下に刻まれた隈が濃すぎる、というのもあるが、普通に階段に座るのではなく、段の上にしゃがむように座っていたからだ。男は、自分と目が合うなりこう言った。
「あめ、舐めますか?」
あめ、とは何か、一瞬考えてしまった。そしてお菓子の飴だと気づく。ナナは呆気に取られていたが、返事をしなければと思い、首を振った。
「え、いいです……」
「そうですか」
男は特に気を悪くしたようではなかった。ジーンズのポケットに手を入れたかと思うと、中からカラフルな棒付きキャンディを取り出した。包装紙を取り、男はそれを自分の口に入れる。いつも飴を持ち歩いてるのだろうか。ナナはいつの間にか、男に興味を持ち始めていた。
「……あの」
声をかけると、「はい」と黒い大きな目がこちらを向く。
「甘いもの、好きなんですか?」
つまらない質問をしてしまった。飴を持っているくらいだ、好きに決まっているだろう。男は案の定頷いた。
「はい、どちらかといえば」
「……そうなんですね」
「あなたは、甘いものは好きですか?」
尋ねられ、答える。
「私も、どちらかといえば好きです。たまにお菓子を作ったりもします」
「作られるんですね、一度食べてみたいです」
真顔でそう言われ、ナナは思わず笑ってしまった。久しぶりに口角を上げたと、笑った後で気づいた。
「はは、趣味の範囲なので、そんなに凝ったものじゃないですが……よく高校の頃はクラスメイトにあげたりしてました」
「友達や彼氏にですか?」
彼氏、という言葉が出るとは思わなかった。少し驚きつつも、ナナは正直にこたえた。
「友達にはあげましたが……彼氏はいなかったので、あげたことはないです」
「そうでしたか」
「……でも、ずっと好きな人はいました。かっこよくて、賢くて、スポーツもできて……高校の三年間、ずっと好きでした」
道端で会った人に、何を話しているのだろう。そう思ったが、ナナの口は自然と動いていた。誰にも言えなかった思いを、誰かに伝えたかったのかもしれない。
「私はバレンタインに、その人にチョコを渡す勇気もなければ、もちろん告白する勇気もなかったんです。ただその人を目で追って、目が合ったら喜んで……それでいいと思ってました。でも今思うと、少しもったいなかったなという気がします。青春がしたかった……」
あの頃の甘酸っぱい気持ちがよみがえる。綺麗な茶色の髪、少し切れ長の目、すれ違う度に香る清潔な匂い。あの人は完璧だった。不完全な自分と違って。
「時間が巻き戻せたら、と今になって考えることがあります……巻き戻せたら、ちゃんとあの人に告白して、そして……父にも、もっと孝行ができたら……」
いつの間にか泣いていたようで、口の中がしょっぱい。とめどなく涙が押し寄せてくる。ナナは腕の中に顔を伏せ、しゃくりあげるように泣いた。父が死んだときに流さなかった分が、今零れ落ちているように感じた。
ぽん、と軽く頭を撫でられる。優しい感触に、ナナは涙を止められなかった。
20190521
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