父、夜神総一郎の病室を出たときには、すでに配膳車が廊下を行き交い、配膳員が忙しげに食事を運び込んでいた。その中を竜崎が悠然と歩き出し、月もゆっくりと後を追う。背中の曲がった、その憎らしい後ろ姿を睨みながら。
流河早樹――竜崎はLだと父親から明かされたのは、つい先ほどのことだった。Lと宣言されたときから抱いていた疑念を父が晴らし、同時にLから直々に、これまでの捜査の過程を聞かされた。彼の推理は、全て当たっていた。それもそうだろう。仮にも世界一の探偵を名乗り、自分を出し抜いた奴だ。当たっていない方がおかしい。
 配膳車で狭くなった通路で、向かいから来た人々を避ける。やがて、後ろから聞き覚えのある声が耳に入り、月は思わず足を止めて振り向いた。深刻そうに母親らしき人物と話している女――顔は確認できないが、その後ろ姿には見覚えがあった。
 確か高校の同級生だった、鈴木ナナという女だ。クラスは三年間同じだったが、話したことはあまりない。クラスでは大人しく、比較的地味だったように思う。容姿は優れている方で、山元がよく彼女のことを話題にしていた。

「どうしました?」

 掛けられた声に、ハッとして前を向く。いつの間に来ていたのか、竜崎がそばに立ち、彼女のほうを見つめていた。

「何でもない……知り合いを見つけただけだ」

「……そうですか」

 竜崎は特に深くは理由を聞かず、再びスニーカーを引きずりながら歩き出した。どうせ後で、彼女について調べるつもりだろう。残念ながら、鈴木ナナからは何も出てこない。
――だからこそ、疑問に思う。
 何故、彼女の声に足を止めたのか。特徴のない外見だというのに、何故後ろ姿で彼女と気付けたのか。ふと、真面目に考え始めている自分に気付き、月は心の中で自嘲する。
――馬鹿馬鹿しい。そんなくだらないことを考えてどうする。今考えるべきは、目の前の男の本名――捜査本部でどう立ち回り、これを手に入れるかだ。



――父が死んだ。
 最近は体調も良く、この調子なら退院できると医者も言っていた。しかし容態は急変し、父は帰らぬ人となった。
 ナナには信じられなかった。あの優しい、家族思いの父が死んだなんて。

「えっ、マジで〜〜」

 女子高生たちが前を通り過ぎる。声がいやに甲高く感じ、下を向いて耳をふさぐ。
 世界は父がいなくても、こうして回っている。それを雑踏の音や人々の声によって、気づかされるのが嫌だった。
 きっと、父でなくてもそうなのだ。誰かが死んでも、自分が死んでも、世界は何の感慨もなく、回り続けるに違いない。

「……大丈夫ですか?」

 男の声が降ってきた。目を開くことも億劫で、ナナは顔を上げず口だけで答える。

「大丈夫です」

「なら、いいんですが……」

 隣で誰かが座った気配がした。おそらく今尋ねてきた男だろう。
 また話しかけられると思いきや、男はそれきり何も言わない。何がしたいのか、よくわからない。ナナは仕方なく目を開け、隣を見た。
 そこには白い長そでとぶかぶかのジーンズを履いた、奇妙な男がいた。奇妙だと思ったのは、その目の下に刻まれた隈が濃すぎる、というのもあるが、普通に階段に座るのではなく、段の上にしゃがむように座っていたからだ。男は、自分と目が合うなりこう言った。

「あめ、舐めますか?」

 あめ、とは何か、一瞬考えてしまった。そしてお菓子の飴だと気づく。ナナは呆気に取られていたが、返事をしなければと思い、首を振った。

「え、いいです……」

「そうですか」

 男は特に気を悪くしたようではなかった。ジーンズのポケットに手を入れたかと思うと、中からカラフルな棒付きキャンディを取り出した。包装紙を取り、男はそれを自分の口に入れる。いつも飴を持ち歩いてるのだろうか。ナナはいつの間にか、男に興味を持ち始めていた。

「……あの」

 声をかけると、「はい」と黒い大きな目がこちらを向く。

「甘いもの、好きなんですか?」

 つまらない質問をしてしまった。飴を持っているくらいだ、好きに決まっているだろう。男は案の定頷いた。

「はい、どちらかといえば」

「……そうなんですね」

「あなたは、甘いものは好きですか?」

 尋ねられ、答える。

「私も、どちらかといえば好きです。たまにお菓子を作ったりもします」

「作られるんですね、一度食べてみたいです」

 真顔でそう言われ、ナナは思わず笑ってしまった。久しぶりに口角を上げたと、笑った後で気づいた。

「はは、趣味の範囲なので、そんなに凝ったものじゃないですが……よく高校の頃はクラスメイトにあげたりしてました」

「友達や彼氏にですか?」

 彼氏、という言葉が出るとは思わなかった。少し驚きつつも、ナナは正直にこたえた。

「友達にはあげましたが……彼氏はいなかったので、あげたことはないです」

「そうでしたか」

「……でも、ずっと好きな人はいました。かっこよくて、賢くて、スポーツもできて……高校の三年間、ずっと好きでした」

 道端で会った人に、何を話しているのだろう。そう思ったが、ナナの口は自然と動いていた。誰にも言えなかった思いを、誰かに伝えたかったのかもしれない。

「私はバレンタインに、その人にチョコを渡す勇気もなければ、もちろん告白する勇気もなかったんです。ただその人を目で追って、目が合ったら喜んで……それでいいと思ってました。でも今思うと、少しもったいなかったなという気がします。青春がしたかった……」

 あの頃の甘酸っぱい気持ちがよみがえる。綺麗な茶色の髪、少し切れ長の目、すれ違う度に香る清潔な匂い。あの人は完璧だった。不完全な自分と違って。

「時間が巻き戻せたら、と今になって考えることがあります……巻き戻せたら、ちゃんとあの人に告白して、そして……父にも、もっと孝行ができたら……」

 いつの間にか泣いていたようで、口の中がしょっぱい。とめどなく涙が押し寄せてくる。ナナは腕の中に顔を伏せ、しゃくりあげるように泣いた。父が死んだときに流さなかった分が、今零れ落ちているように感じた。
 ぽん、と軽く頭を撫でられる。優しい感触に、ナナは涙を止められなかった。

20190521


back

- ナノ -