同級生の間でその噂があることは知っていたが、所謂都市伝説というもので、月は今まで「それ」を信じたことはなかったし、内心バカバカしいとまで思っていた。ただ、先日不可思議なノートを拾った上、今「それ」と対面している現状を考えると、人間の空想上の存在だと思っていたものは、すべて現実に存在するのかもしれないと思えてくる。

「いらないものは、ありませんか?」

 空の段ボール箱を両手に持つ少女は、無垢な笑顔をこちらに向け再度そう言った。同じことを同じ笑顔で繰り返す少女に薄ら寒ささえ感じる。まず塾の終わった22時に、人通りも街灯も少ない路地に、幼い少女が一人でいることもおかしい。
 噂では確か、と月は比較的冷静に噂を思い返した。いらないものはないというと、おまえの存在自体がいらないのだと怒り、命を奪われると聞いたな。とにかく何か、いらないもの――自分の欠点だったり、なくなってほしい苦い記憶など――を言わなければ。
 いらないものについて、月はそう悩まなかった。すぐに思いついたものを、少女に言った。

「……今僕の中にある恐怖心。これがいらない」

 少女は笑みを崩すことなく、一定のイントネーションで尋ねた。

「それは、どんな恐怖心ですか?」

 この少女には、何もかも隠さず晒したほうがいいだろう。嘘を言えば、どんな仕打ちに合うかわからない。月は正直に答えた。

「これから僕がやろうとしていることに対する、恐怖だ」

「なぜ、いらないんですか?」

「僕の為すべきことは、世のため人のためになるんだ。だから、こんなものはいらない」

 少女の大きな目が自分を射貫くように見つめ、それから薄い唇がますます弧を描いた。今までとは違う、子供らしからぬ嫌らしい笑みに背筋がぞっとする。

「なるほど。わかりました」

 少女は段ボール箱から右手を離し、指を鳴らした。パチンと音がした瞬間、目の前が真っ暗になった。



「月、学校遅れるわよー」

 階段下から聞こえてきた母の声に、目を覚ました。ベッドから起き上がり、デジタル時計を見る。7時30分。そろそろ家を出るべき時間だ。
 制服に着替えながら、月はぼんやりと昨晩の記憶を反芻しようとする。しかし、塾を出たあたりからよく覚えていない。どうやってここに帰ってきたのかもおぼろげだ。酒を飲みすぎると記憶が薄れるというが、酒を飲んだ記憶はない。飲んだことすらない。不思議に思いながら階下に降りる。

「母さん。僕、昨日普通に帰ってきた?」

 母は何言ってるの、と呆れたような顔をした。

「普通に帰ってきたわよ。ただいまって」

 そんなことより早く学校行きなさいと急き立てられ、仕方なく家を出た。
 朝のSHRには間に合い、山元たちに囃されながらも席に着く。なぜ覚えていないのだろう。記憶がごっそり抜けているような感覚は初めてで、気持ちが悪い。しかし思い出せるわけがなく、月は気にしないようにした。何より、考えなくてはならないことがある。
 からりと戸が開けられ、担任が入ってくる。壇上で教師の話す内容を半分聞き流しながら、月は自室にある黒いノートのことを考えた。昨夜の記憶が抜け落ちていたことなど、頭の隅にもない。月にとって、そのノートは希望であり正義だった。あれさえあれば犯罪のない、素晴らしい世界を作ることができる。自分が今まで理想として想像してきた世界。ただ問題は――。
 そこまで考え、月は疑問に思った。問題? 問題などあるわけないだろう。
 警察があのノートの存在に嗅ぎつけるとはとうてい思えないし、そんなノートがあることも自分以外誰も知らない。そもそもノートで殺人ができるなど、誰が想像できるだろう。
 月は自然とこみ上げてくる笑いを噛みつぶして堪えた。何も問題がないのなら、何を躊躇する必要がある。犯罪者を粛正し、善人が住みやすい世界を作る。それがノートに選ばれた僕の使命であり運命――早速、今日から執り行おう。

2020/11/8


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