――このテニスは、何だろう。私は何を見ているのだろう。
 突然大学内のコートではじまった、流河早樹と夜神月のテニス対決。首席同士である彼らのテニスはレベルが高く、試合を見に来たギャラリーは多かった。しかしその中で、彼のテニスを食い入るように、魅せられるように見つめていたのは、ナナだけだったのかもしれない。
 野性味あふれる素早いフットワーク、枠線の一歩手前をつく正確なショット。動きもラケットの振り方も「完璧」なテニスをする夜神月とは違い、流河早樹は今まで見たことのない、個性的なテニスをしていた。それは、すでにテニスを諦めたナナでさえ、心を躍らせるもので。思わず携帯で彼の姿を撮っていた。
ーー彼に教えてもらえば、あの人に勝てるかも。
 ナナがテニスを諦めるきっかけになった、因縁のあの人。少しでもあの人の鼻をへし折ることができれば、我が人生に悔いはなし。
 彼に弟子入りすることを決めたのも、ナナにとって必然だった。
 とは言え、流河早樹はテニスサークルに入っておらず、彼と同じ学部の子に聞いても話したことがないと首を振る。流河早樹に直々に弟子入りする勇気はなく、夜神月に紹介してもらおうと、ナナは構内を歩く月に声をかけた。

「夜神月くん!」

 振り向いた彼と目が合う。ああ、近くで見るとやはり美形だな、と心の中で感嘆しつつもナナは口を開いた。

「流河早樹君とよく話してるけど、友達だったりする?」

 月は頷いた。若干戸惑っているようだ。

「ああ、多分……」

「じゃあ、私に早樹君を紹介してくれない?」

 間髪容れずに言うと、月は何を言ってるんだ、こいつは、というような訝しげな顔をした。怪しいものではないと、ナナは慌てて言った。

「私、早樹君のテニスを見て、魅了されちゃったの。どうしても早樹君にテニスを教わりたくて……あ、月君のテニスもすてきだったよ」

 付け加えた言葉に月はますます眉を寄せたが、紹介しなければしつこくつきまとわれると感じたのか――事実、そのつもりだった――渋々頷いてくれた。

「……いいよ。紹介するだけなら」

「ありがとう!」

 流河早樹は、構外のベンチで本を読んでいた。裸足の両足をベンチにのせ、かがむように座っている。なんとなく読みづらそうだ。

「流河」

 顔を上げた流河を間近で見て、ナナはその隈の濃さに驚いた。こんなにくっきりした隈は初めて見た。彼はこちらを見て言った。

「……夜神君の彼女ですか?」

「いや違う」と月は否定した。即答しなくてもいいのに、とナナは肩を落とした。

「流河を紹介してほしいって言ってきた子だ。なんでも、流河のテニスを見て、教えてほしいと思ったんだそうだ」

「はじめまして、ナナと申します。あなたに弟子入りしたくて、紹介してもらいました。お願いです、どうか私にテニスを教えてください!」

 深々と頭を下げると、「いやです」とすぐに返ってきた。

「な、どうして!?」

 理由を尋ねれば、流河は淡々と言った。

「テニスで私が教えられることはありません。あんなものは直感で動けます」

「あの無駄のない動きが直感!? ますます教えていただきたいです!」

 気持ちが昂ぶりそう食いつけば、流河はげんなりした顔をした。

「だから、教えられることなどないんです。他を当たってください」

「いやです、私はあなたのテニスに魅了されました。あなたにしか教わりたくありません」

 思いを込めて言えば。「かなり気に入られたようだな」と月が隣で笑った。

「……とにかく、私はあなたにテニスを教えられませんし、教えたくありません」

 ため息交じりの言葉に、流河の強い意志を感じ、ナナはうなだれた。教えたくないのなら、仕方がない。

「わかりました……こないだ撮った、あなたのテニスを見て自習することにします……」

 そう呟きとぼとぼと構内に入ろうとしたとき、ちょっと待ったと流河に声をかけられた。

「撮ったというのは、どういうことですか?」

「携帯で動画を撮っていたんです、ラケットを振る早樹君を」

「……その動画を消してください」

「え?」

「私の動画を、消してほしいんです」

 気のせいだろうか、流河は少し焦っているように見えた。月をちらと見ると、彼はなぜか驚いたような顔をしていた。
――これは、ひょっとしたら、使えるのでは?
 ナナは、心の中でほくそ笑んだ。

「あなたがテニスを教えてくれるのなら、消します」

「…………」

 ナナの思惑は当たったようで、流河は無言で恨みがましくこちらを見ている。

「さあ、どうしますか?」

 にこやかに尋ねると、彼は大きくため息をついて、降参したように言った。

「……いいでしょう」

「ほんと? やったー!!」

 これで、あの人を負かせるかもしれない。飛び跳ねて喜ぶナナに、流河は淡々と言った。

「早く動画を消してください」



 テニスサークルに許可を取り――流河がどこからか許可証を取ってきた――レッスンが始まった。彼の言っていたとおり、ほとんど直感で動いていたようで、最初は彼の動きをまねることから始まった。小・中・高とテニスに打ち込んでいたナナでさえ、流河の動きについて行くのがやっとだった。

「早樹先生、速いです……!」

「先生呼びはやめてください」

 ナナの目標は、あの人が出る日本女子テニス大会に出場することだった。あの人なら、必ず決勝まで残るだろう。そう考え、ナナは毎日テニスに明け暮れた。流河と別れても、自宅でトレーニングをした。その熱心さに、流河も驚いたようだった。

「ナナさんは、なぜそこまで熱心なんですか?」

 一度、流河にそう聞かれたことがある。ナナはラケットを振る手を止め、隣に立つ流河に微笑んだ。

「私には、どうしても打ち負かしたい相手がいるんです」

「なぜ、打ち負かしたいんですか?」

 流河の質問に、ナナは緩く首を振った。

「そのあたりは、あまり話したくないです……とにかく、私の目の前に早樹先生が現れて、あなたのおかげで、テニスは楽しいものだったんだと気づかされました。私は今、とっても楽しいです」

 その言葉に嘘はなく、にっこりと笑うと、流河はそうですか、と無表情で頷いた。思っていたより反応が薄く、ナナは少し悲しくなった。
 大会当日は神様が贈ってくれたとしか思えないような快晴だった。5月の青い風が吹く。
 神様が味方してくれているのか、それとも自分の努力の結果か。ナナは順調に勝ち進み、なんと決勝まで勝ち上がった。もちろん相手は――

「ひさしぶり、ひろみ」

 岡ひろみだ。高校の同級生で、同じ女子テニス部だった。卒業した今も、彼女は変わっていなかった。黒髪のショートに純粋な瞳。ネット越しの彼女は、もちろん自分と対決するとわかっていたようだった。

「ナナ、久しぶり! また試合できるなんて嬉しい」

「うん、私も」

 ひろみの後ろのコーチ席を見る。腕組みしてたたずむ長髪の男――宗方仁。
 因縁の相手。倒すべき相手。自分ではなくひろみを選び、自分にテニスを諦めさせた人。
 ほかの部員はひろみを批判していたが、ナナは違った。ひろみには何の罪もない。こうなったのはすべて、ひろみを選んだ宗方のせい。
――ああ、ずっとこんな日を待ち望んでいたのかもしれない。
 開始のコールとともに、ひろみがボールを上げる。青の中に浮かぶ黄色の球を見つめながら、ナナはぼんやりと思った。



 空はすでに紅色に染まっていた。遠くにカラスの鳴き声も聞こえる。
 流河とナナは、試合の終わったコートの観客席に、二人でぽつんと座っていた。ナナの首にはメダルが提げられている。鈍く輝く銀色のメダル。

「ナナさん、そろそろ帰りましょうか」

 流河に声をかけられる。ナナは空を見上げながら、首を振った。

「……私、もうちょっとここにいる」

 和やかな春の空は、今の自分の気持ちとは正反対なものに見えた。ゆっくりと紫へ変わっていく雲を見ながら考えるのは、先ほどの決勝のこと。ひろみとナナは互角だったが、わずかにひろみのほうが上だった。
 勝つことはできなかったが、少しでも、宗方に後悔させることができただろうか。ひろみではなく自分を選んでいれば、と悔やませることができただろうか。

「……早樹先生」

 隣に座る流河を呼ぶと、「はい」と彼は律義に返事をしてくれた。

「私、頑張ってた、かな?」

 ひろみに勝てなかったのは、頑張りが足りなかったからか。それとも。
 流河は何も言わない。それが答え、なのだろう。
 こらえていた感情があふれ出し、涙となって流れ落ちる。悔しい、悲しい、勝てなかった自分がふがいない。誰かに抱きしめてもらいたくて、慰めてほしくて、流河の胸の中に飛び込む。流河のトップスが濡れていくのを申し訳ないなと思いながらも、彼の腕の中は居心地がよく、離れることはできなかった。やがて、流河のぎこちない手が、背中をあやすようにさする。
 そのあたたかさを、手放したくなかった。



「早樹先生……早樹君」

 薄闇が夜に変わった街を、流河と二人で歩く。ナナの悔しさは涙として流され、いまはすっきりとしていたが、流河に抱きしめられた気恥ずかしさはあった。

「ここで、大丈夫だよ」

 開催場所からの最寄り駅で、ナナは立ち止まった。近くまで送る、と流河は言ってくれていた。

「……本当に、大丈夫ですか?」

 この「大丈夫」は、家まで送らなくて大丈夫か、の意味ではないことはわかった。ナナは笑って頷いてみせた。

「うん、大丈夫。早樹君は、明日も学校?」

 流河はゆっくりと首を振った。

「いえ、実は明日から休校します」

「えっ、なんで?」

「家庭の事情です」

 そう言われたら、深く聞くことなどできず、そっか、とナナは肩を落とした。

「本当に、ありがとう。テニスを教えてくれて……また、会えるよね?」

「会おうとすれば、会えるかもしれません」

「そうだ、連絡先教えてよ」

 携帯を取り出そうとしたナナを、流河は制した。

「私は携帯もパソコンも持ってないので、連絡先がありません」

「そう、だったんだ……」

 特訓中はいつも、別れ際に何時に集合するか決めていたので、携帯でやりとりをしたことがなかった。仕方なく、ナナは手を振る。

「早樹君、また、絶対絶対会おうね!」

「はい」

「さよならじゃないからね、ほんとにありがとうね、またね!」

「はい……また」

 若干温度差があるような気がしたが、彼は元々あまり感情を表に出さないタイプだ。別れを惜しんでいるように見えなくもない。1ヶ月ほど一緒に過ごし、なんとなく流河のことがわかった気がする。
 くるりと人々の行き交う改札へ向かう。カードを取り出そうと鞄の中を探ると、紙に包まれた固いものに触れた。お世話になったお礼に用意していた、彼へのプレゼント。これは、また会う日のための口実に取っておこう。

2020/11/17

back

- ナノ -