兄が両親からもらったゴーグルをつけ始めたのは、彼らが強盗殺人に遭ってからだった。
 父の実家は裕福だった。父は元々許嫁がいたにもかかわらず、母と駆け落ちし、勘当された。それはそれは、映画のような大恋愛だったと母から聞いている。母と結婚した父は、輸入事業を興した。実家の事業とは違うが、父には商才があった。事業はあっという間に大きくなり、ジーヴァス家は上流階級に仲間入りした。強盗に狙われるほどの、大金持ちとなった。
 珍しく晴れ渡った、日差しのまばゆい春の日のこと。私は兄と近くの公園でボール遊びをしていた。外出嫌いな兄は母に諭されて渋々公園に来たが、遊びに夢中になっていたようで、日が暮れかけてようやく、「帰ろう」とボールを止めた。

「今日の晩ご飯何かな?」

「ローストビーフが食いたいなあ」

 まだ幼い私たちは、手を繋いで歩き出す。家に帰れば、レコードを聴きながら読書をする父と、夕食の準備をする母の姿があるはず、だった。

「来るな!」

 先に家に入ったマイルが、私を制した。兄はリビングの戸口で、中の光景に目を見開いていた。ただ愕然と、立ち尽くしていた。

「来るんじゃない、ナナ……」

 どうしたのか聞こうとして、ドアを掴むその手が震えているのを見た。ただ事ではないと、子供ながらに察した。それから兄の言うとおりに外へ出て、近所のおばさんに、救急車と警察を呼ぶよう伝えた。
 父と母は、腹や胸をめった刺しにされていた。兄の見た光景は、もつれ合った両親が血の海に浮かんでいるという、想像しただけで肌が粟立つ、むごいものだった。
 それからというもの、兄は色つきのゴーグルをつけ始めた。血に染まる両親を目にしてから、世界をそのままの色で見たくないという気持ちがあったのかもしれない。理由を聞いたことはある。そのとき彼はただ、「かっこいいから」と言った。深掘りはしなかった。兄の隠した弱さに、わざわざ触れる意味はなかった。
 上流階級になったからこそ強盗に狙われたが、一方で良いこともあった。その一つが発明家、キルシュ=ワイミーと両親が知り合いだったことだ。ワイミーは、ワイミーズハウスという孤児院を創設していた。両親の訃報を受け、ワイミーは私たちのところにやってきた。彼は、両親が実家から勘当されていることを知っていた。

「あなた方が、マイルとナナですか?」

 署で、ただ座らせられている私たちに、ワイミーは丁寧な物腰で尋ねた。兄が頷くと、彼は穏やかな笑みを浮かべた。自分たちを安心させるような笑みを向けられたのは、署に来て初めてのことだった。

「私はキルシュ=ワイミー。ご両親の知り合いです」

 程なくして、私と兄は、ワイミーズハウスで暮らすこととなった。ワイミーズハウスでは、物の持ち込みが許可されていた。兄はゲーム機とソフトを数本、自宅から持ってきた。私はゲームには興味がなかったので、当時好きだったキャラクターのぬいぐるみを持っていった。どこへ行くにも持ち運んでいた、大好きなぬいぐるみだった。
 ワイミーズハウスでは、子供たちを本名で呼ぶことはなかった。それは、名前のない子供への配慮だったのかもしれない。マイルは「マット」、私は「エイミー」と名づけられた。
 マイルは、ハウスに入る前から優秀な子供だった。だから、定期的に行われるテストで、ニア、メロの次に良い成績を取っても、私は驚かなかった。しかし、メロが兄に目をつけ、二人が仲良くなることは想像していなかった。
 メロは、私がハウスに入ったときから、何かとちょっかいを出してきた。大事なぬいぐるみを隠したり、おどかしてみたり。私が泣く様を見て、笑いながら謝る、そんな「少年」らしい少年だった。
 煙草を取り出して咥える。いつから吸い始めたかは、もう覚えていない。夢見がちな少女はハウスを出て、乾いた社会に揉まれ、擦れた女となった。
 メロは、マフィアに入った。少年もまた、大人の男となった。兄はまだ擦れていないように見えるが、彼の場合は両親が死んだときから厭世観を持っている。私の代わりに見た光景は、未だに兄の脳裏にこびりついている。
 こうして感慨深く人生を振り返っているのは、自分の人生が終わるかもしれないという予感があるからか。長くため息をつけば、煙とも息ともつかない白い粒子が空気を汚した。イギリスほどではないが、日本の冬も寒い。
 初めて訪れた異国の地で、命の危険をさらすとは。現実味がなく、笑いがこみ上げてくる。
 兄とメロがこそこそと何かを企んでいるのは知っていた。

「マイル……?」

 私は仕事の関係でLAに住んでいた。その日は中心部へ出かけ、とあるブティックの前で、「たまたま」兄の姿を見た。兄は可愛らしい女の子へじっと視線を向けていた。

「ナナ……!?」

 振り向いた兄は心底驚いたようだった。今私がLAにいることを知っていたのに、だ。何をしているのか尋ねようとすると、兄の携帯が鳴った。慌てたように出る。

「メロか? 悪い、エイミーに見つかった……ああ、また電話する」

 電話を切った兄は、こちらが口火を切る前に、言った。

「悪い、エイミー、事情は話せない。俺を見なかったことにして去ってくれ……でないとお前も命を狙われる可能性がある」

「エイミー」へ呼び方が変わったことや、命の危険があると話す彼の真剣な表情から、私は大人しく頷き、その場を去った。「キラは顔と名前で人を殺せる」頭にたたき込まれた推理が浮かぶ。
 同い年のニアとは、特段仲が良かったわけじゃない。にもかかわらず彼が私をSPKの一員にしたのには、なんてことない訳があった――私がマイルの妹だからという、ただそれだけの理由だ。
 ニアは一言、私に命じた。「マットとメロの動向を探ってください」と。
 弥海砂を監視していた兄とメロは、二代目L――キラのいる日本の捜査本部と同じ時期に、日本へ渡った。彼らもまた、ニアと同じくキラを捕まえたいのだ。私はほどなくして入国したニアたちと合流し、兄とメロの行方を追った。しかし兄たちは、特に行動を起こさず、アパートに籠もりきりだった。きっと、今日のために計画を練っていたのだろう。
 一月二六日の今日、彼らは実行した。NHNの高田清美アナウンサーを誘拐するという計画を。先ほどハルの報告で、兄が発煙弾を打ち、その隙にメロが高田清美を誘拐したとわかった。
 ヘルメットを被る。キラ信者たちの無線では、今いる場所を叫び、応援を呼んでいた。その場所を目指し、狭い路地を出る。同時に、マイクに呼びかけた。

「ニア、私は行く」

『……止めても無駄ですか?』

「そうね。私の意思は変わらない」

 少しの間。それからニアは淡々と言った。

『なら、エイミーの好きにしたらいいと思います。後悔のないように』

「……ありがとう。必ず生きて帰るわ」

『待ってます』

 通信を切り、バイクに跨がる。エンジンをかけてアクセルを回し、ネオンの光る夜の街へうなりとともに飛び出す。
 兄はきっと、最悪の場合殺されるだろう。だから、私は行かなければならない。たったひとりの、頼れる兄を助けるために。

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