以来、ナナは魅上の手当てをするようになった。毎日付けられる傷は日に日に深さを増し、その分心が締め付けられるようだった。しかし暗い表情を魅上の前で見せたくなかったナナは、気丈に振る舞った。少しでも彼の心に寄り添い、元気を、癒しを与えたかった。
 ある日のことだった。帰りの会が終わり、いつも通り、魅上との待ち合わせ場所になっている空き教室に向かうと、そこには誰もいなかった。自分のクラスより魅上のクラスのほうが早く終わる。なぜ来ていないのだろう。疑問に思ったが、魅上が来るまで待つことにし、一番窓際の席に座った。いつも自分が座る席だ。窓の外へ目を向けたその時――

「魅上くんっ?!」

 ナナは勢いよく立ち上がった。校庭の端には、ぐったりと横たわる男子生徒の姿があった。下校しようとする生徒たちを追い抜きながら階段を駆け下り、彼のもとへ向かった。
 遠目からではわからなかったが、彼は服を着ていなかった。代わりに砂が体を覆い、あちこちに大きな青痣があった。その光景に、ナナは胸が張り裂けそうになる。走って彼のそばに行き、傍にあった制服で下半身を覆った。

「魅上くん、魅上くん、大丈夫っ?」

 肩に手を置き優しく揺すれば、魅上は朦朧とした様子で目を開いた。

「鈴木、さん……」

「大丈夫?」

「だい、じょうぶ……だから……」

 魅上はゆっくりと体を起こした。そして体中にある痣を隠すように、土で汚れた制服を着始めた。ところどころ痛むのか、時折彼の顔が歪む。ナナも制服を取るのを手伝った。
 すべて着た頃には、二人の周りに人だかりができていた。何が面白いのか、にやにやと嫌な笑みを浮かべる人。隣の人に何かを囁く人。中には心配そうにこちらを見つめる人もいるが、彼らは何もしない。それがナナには痛いほどわかっていた。

「……魅上くん、立てる?」

 問い掛けると、彼は頷いた。ゆっくりと膝を伸ばす。しかし立ち上がった瞬間、ふらりとよろめいた。ナナはすぐに彼の腕を取り、倒れそうになるのを防ぐ。それから彼の肩に腕を回した。彼の体重が右半身にかかるのを感じた。重いとは思わなかった。むしろ心地のいい重さだった。

「……じゃあ、私の家まで行くよ……ちょっとそこどけて」

 言えば、さっと人が退き、道が開いた。ナナは一歩一歩を踏みしめながら、自宅へと進んだ。
 幸い、家には誰もいなかった。父はまだ仕事に、母は買い物に行っているのだろう。魅上の靴を脱がせると、彼をお風呂場まで連れていった。

「シャワー、浴びたいでしょ……? そこのタオル使っていいから……着替えはお父さんの用意しとくね」

 父は週末までは私服を着ないだろうから、ひとつふたつなくなっていても気づかないだろう。今日は月曜日だから、金曜日までに返してもらえばいい。

「うん……ありがとう」

 ううん、とナナは首を振る。彼のためにできることは何でもしてあげたい。指切りした瞬間から、その気持ちがどんどん強くなってきている。彼が風呂場に入った頃を見計らい、ナナは彼の脱いだ制服の土埃を取った。完全に取るには洗濯するしかないが、できるだけ汚れを落としていてあげたかった。
 お風呂場からあがった彼は、先ほどより血行が良さそうだった。居間で待っていたナナは安堵し、自然と笑みが浮かぶ。

「シャワー、どうだった?」

「すごく、よかった……本当に、ありがとう」

「ううん、当たり前のことしただけだから……髪、乾かしてあげる」

 洗面所からドライヤーを持ってくる。ソファに座る魅上の後ろに回り、熱くならないよう距離を取りながら彼の髪を乾かす。すぐに乾くよう、髪を広げた指の腹で乱しながら、その指通りに驚く。女の自分でも嫉妬してしまいそうな、艶やかな黒髪。結ってあげたくなってしまうほどだ。
 結うと言えば――

「……ねえ、魅上くん」

「ん?」

「今度の休みに、夏祭りに行かない?」

「夏祭り?」

 彼は初めてその単語を聞いたかのような反応をした。

「うん。七夕祭りやるでしょ? 一緒に行かない?」

「いい、けど……」

「決まり! 待ち合わせ場所はわたしの家ね。よし、乾かしたから次手当てさせて?」

 緩む頬を抑えながら、魅上に言う。彼は素直にうなずいた。
 七夕祭りに彼と一緒に行く。もっと魅上に外の世界を知らせたい。その思いからだった。この閉塞した世界では、やがて窒息してしまう。息抜きも必要だ。



 どこからか流れる囃子の音が、境内に響き渡る。人々の活気のいい声が飛び交い、屋台には多くのお客が集う。その石畳の真ん中を、魅上とナナは歩いていた。
 どちらも浴衣姿で、ナナはすでにわたあめを持っている。自身はともかく、魅上が浴衣で来るとは思わなかった。理由を聞けば、こうした行事にはTPOを守った服装をするべきだと彼は言う。よくわからなかったが、これも彼の個性だということにしておいた。わたあめを食べながら提案する。

「まだ花火まで時間あるし、金魚すくいでもしない?」

「うん、いいよ」

 魅上は頷く。先日の怪我は治ったらしく、足取りはしっかりしていた。金魚すくいの店を見つけ、店主にお金を払うと、ポイを二つもらう。魅上と分け、金魚すくいに挑んだ。が。

「あー、破けちゃった……」

 一分もしないうちにポイは破けてしまった。今まで金魚をすくえたことがなく、今回もやはりダメだったようだ。魅上はどうだろうと、隣を見ると。

「魅上くん、すごい!」

 一定の速さで金魚を容器の中に掬い取っていた。

「なんでそんな上手いの?」

「こういうのは角度が大事なんだ。水に入れる角度はこう。すくう時はこう」

 実際にポイを使ってやってみせる。面白いほど上手に金魚をすくっていく。こんな特技があるとは知らなかった。

「へえー、すごいすごい!」

「これ、鈴木さんにあげるよ」

 店主からもらった金魚を、魅上がこちらにかざす。ビニールに入った、赤や金に反射する金魚たち。色が鮮やかでとてもきれいだ。男の子から何かをもらったことは初めてで、知らず知らず笑みがこぼれる。

「ありがとう! うちで大事に飼うね」

「うん……あ、そろそろ花火の時間だ」

 魅上が腕時計を見て言う。場所取りに行かなければ。急ごうとすると、彼は自分を制した。

「僕、いい場所知ってる」

 魅上の後について、境内から少し離れた丘の上にやってきた。二人以外に誰もおらず、時折吹く涼しい風とともに木々のざわめきが耳に入ってくる。境内の祭囃子が先ほどより遠くに聞こえるためだろう。

「ほんとだ、ここなら花火きれいに見れそう」

「でしょ? 前に母と来たとき見つけたんだ」

 そう言って、魅上は草むらに寝転んで空を仰ぐ。自分も真似て、その隣に寝転んだ。瞬間、ナナたちを待っていたかのように、どんという大きな音が鳴り、夜空に大輪の花が咲いた。一つ上がったかと思えばまた次の花火が打ち上がる。

「きれいだね……」

「うん……」

 どちらともなく見つめ合い、微笑んだ。花火の光で互いの顔が照らされる。
 この時がずっと続けばいいのに。自然とそう思った。そんな自分に驚いたが、同時に納得した。魅上を支えたいと思う気持ちは、尊敬からくるものだけではないのだと。





 魅上の母親が、交通事故に遭って亡くなった。
 ナナがその噂を聞いたときには、魅上は忌引で休んでいた。何があっても毎日学校に来ていた彼が休んだということで、菊の花が飾られた花瓶が机の上に置かれたが、ナナが放課後その花瓶を自分のクラスのベランダへ隠した。やっていいことと悪いことの区別もつかないのか。憤慨したが、彼らにそれを言う勇気はなかった。
 3日後、登校してきた彼は、憔悴しきった様子だった。左頬に湿布を貼りながら、魅上の表情を盗み見る。彼は、どこか心ここにあらずだった。彼の目はこちらを見ず、ただぼんやりと伏せられている。母親の死に堪えているのだろう。自分が母を失ったら。想像するだけで胸がつぶれそうになる。彼はきっと、言葉にならないほどの悲しみを抱いているに違いない。彼が、何をしただろう。唯一の肉親を奪うなんて、神はなんて無慈悲なのだろう。胸の痛みを感じながらも、再び手を動かした。

「……痛く、ない?」

「……うん」

 こちらを見ずに彼は頷く。再び沈黙が落ちる。母親のことを聞くのも憚られ、何も言うことができなかった。 やがて、魅上が口を開いた。

「……鈴木さんは……」

「うん?」

「いや、何でもない……」

 彼は首を振る。そしてまた考え込むように俯いた。ナナは彼が何を言おうとしていたのか、気になった。

「……言って?」

 魅上は意を決したような顔をした。

「……鈴木さんは……親がいなくなったら、どう思う?」

「どうって……悲しくなると思うよ。魅上くんみたいに」

 そう答えると、魅上は強く首を振った。

「いや、僕は悲しくなってないんだ」

「え?」

「僕は……喜んだんだ。一瞬。母さんが事故に遭ったって聞いて」

「……何、言ってるの?」

「自分でもおかしいと思うよ。でも、ずっと僕の正義を否定してた母さんが死んで、すっとしたんだ」

 魅上は自嘲するように笑う。いつもの彼とは違う気がして、ナナは怖くなった。
 魅上から度々母親のことは聞いていた。父親を亡くしてから、女手一つで育ててきてくれた。尊敬していると、言っていた。それなのに、母親の死を喜ぶなんて、魅上らしくない。そんなことを言う彼は知らない。
――でも、

「……魅上くんは、間違ってないよ」

「え?」

「魅上くんは、間違ってない。お母さんが間違ってた。それだけだよ」

 ナナは言い聞かせるように言った。自分にも、言い聞かせるように。

「鈴木さん……?」

「天罰が下ったんだよ。お母さんが、魅上くんの正義を否定するから」

 困惑していた彼の目に、ふと光が灯った。

「うん……僕もそれは考えたんだ。僕がいなくなったほうがいいと思ったから、神様が天罰を下したんだって。神様は、ちゃんと僕を見てるんだ」

 そう言って、彼は微笑む。その笑みを見て、先程まで感じていた恐怖がなくなるのを感じた。
 彼は、とても純粋なのだ。ただそれだけ。彼を支えるには、その考えに同意するしかない。それは悪い方向に転がるかもしれない。けれど、自分には彼しかいないから。だから――

「魅上くんは、正しいよ」

 彼のために、同意の言葉を紡ぐのだ。
 これからも、ずっと。

20160419

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