それは、本当に偶然だった。
 会社の飲み会で終電に乗ったことも、正義感の強い男がそこに居合わせたことも。結果としてナナは痴漢から助けられ、男は痴漢の片腕をしっかりと掴み、電車から降りた。騒ぎ出す痴漢と男の後を、ナナも追う。小走りに歩きながら、大きな安心感を感じる。これまでの恐怖から解放された安心感、痴漢が捕らえられた安心感。
 駅員に男が事情を話してくれ(慣れているように見えた)、では、と男は去ろうとした。このまま彼が帰ったら、お礼も何もできない。ハッとしたナナは口を開く。

「ま、待ってください!」

 男は立ち止まり、振り返った。眼鏡越しの切れ長の目がナナを捉える。瞬間どきりと、心臓が跳ねる。場違いな気持ちに呆れながら、言った。

「あの、助けてくれてありがとうございました。何かお礼がしたいのですが……」

 いえ、と男は拒絶する。

「私は当たり前のことをしただけですので、お礼など、気持ちだけで十分です。では」

 その当たり前のことができない人が、この世にどれだけいるか。また背を向けようとする彼をどうにか引き止めたく、思わず男の黒いコートの裾をつかんだ。驚いたようにこちらを見る男に、声をかける。

「名前だけでも、教えていただけませんか……?」

「いいですが……」

 困惑しながらも、男は自分に向き直り、おもむろに書類鞄から名刺を取り出した。それを、すっとこちらに差し出す。

「……魅上照と言います」

「みかみ、てるさん……」

 名刺には名前と一緒に、京都地検の住所、電話番号が書かれていた。男は――魅上は検事なのだろうか。

「ありがとうございます、魅上さん」

 心からお礼の気持ちを述べれば、魅上は「いえ、ではこれで」と去っていった。ナナは後ろを振り返り、駅員たちの元へ戻った。
 酔っていた痴漢は最初はやってないと騒いでいたものの、話を進めるにつれて徐々に認め、反省している様子が見られた。がくりと肩を落とし俯いている彼を、ナナは許した。自分でも愚かだと思うが、もう二度と痴漢しないという言葉を真摯に受け止めたのだ。
 それからは仕事に追われる日々が続いたが、ナナは魅上のことを忘れたことはなかった。あの日から、切れ長の瞳に囚われてしまっていた。しかし京都地検に連絡など出来ず、再会することはなかった――この日までは。

「魅上さん……!」

 黒く長い髪、眼鏡越しの切れ長の目。あの時と同じ彼がいた。

 検事との合コンに来ないかと誘ってくれたのは同僚だった。この降って湧いたチャンスを棒にできず、ナナは二つ返事で了承した。密かに胸を高鳴らせ、レストランに入ると、想い続けた彼がいた。目の前に座る魅上は、何やら不機嫌そうだった。合コンに来るのが嫌だったのかもしれない。真面目そうだ、とナナは思った。むしろそちらの方が好印象だ。

「とりあえず乾杯しよっか」

 皆の料理や飲み物が揃った頃、魅上の同僚らしき人が合図をして乾杯した。渋々グラスを掲げる魅上に、ナナは一番にグラスをつける。こちらを初めて見た(今までは眉間にしわを寄せ、同僚たちの方を向いていた)魅上は、驚いたように目を開いた。覚えていてくれたようだ。ナナは微笑むと、また会いましたね、と魅上にだけ聞こえるように言った。

「はい……××商事で働いていたんですね」

「そうなんです。魅上さんは、やっぱり検事だったんですね」

「はい、そこ抜け駆け禁止。なんだかんだ言って、魅上も乗り気じゃないか」

 魅上の同僚が囃し、皆がドッと笑う。そういう訳ではない、と真面目にきっぱりと答える魅上に、ナナは面白い人だと思った。一人一人の自己紹介を終え、皆思い思いに話し始める。ナナは最初から魅上狙いだったので、早々に話を切り出した。

「魅上さん、あの時は本当にありがとうございました」

 いえ、と短く答えた魅上の声はかすかに強張っていた。こういった場に慣れていないのだろう。緊張をほぐすためにも、まず魅上の仕事の話を聞くことにした。
 どれくらい時間が経っただろうか。周りはすでにいい雰囲気になり始めていた。ナナもまた、はたから見て魅上と『いい感じ』になっていた。ナナがあれこれ質問し、魅上が答える。魅上はすっかり緊張がほぐれたようで、饒舌になっていた。話してみてわかったのは、彼は仕事への情熱があり、また人の倍以上に正義感が強いということだった。
 そろそろ次のとこ行こうか。そう切り出したのは魅上の同僚だった。

「魅上も来るだろ?」

「いや、私はこれで」

 魅上は立ち上がり、帰ろうとする。焦ったナナは私も、と立ち上がり、鞄を持った。

「ナナのこと、送ってってね」

 同僚が魅上に言う。魅上は渋い顔で頷いた。近くの駅に、ナナと魅上は向かった。11月中旬の冷たく透き通るような空気が、暖房で温まっていた身体を冷やす。街中はイルミネーションが灯され、すっかりクリスマスの様相を呈していた。

「寒くなりましたね」

「はい、本当に……」

 ナナは冷えた手を擦り合わせる。ちらりと魅上を見ると、いつのまにか黒の手袋をつけていた。視線に気づいた魅上がこちらに問いかける。

「どうしました?」

「手袋、あったかそうだなあと思って」

「ああ……使いますか?」

 言って、魅上は手袋を外そうとする。ナナはそれを制した。

「いえ、私はそれより……」

 するりと魅上の手を握る。手袋で覆われた彼の手は、大きく温かかった。この手で、数々の犯罪者を裁いていったのだろうか。

「ナナさん……?」

 明らかに困惑している彼に微笑む。彼の手は固まっていたが、やがて観念したように力が抜けた。それを感じ取って、ナナは笑みを深くする。
 一歩ずつでいい。着実に彼のことを知って、いつか、その心の中に入っていけたらいいなと思う。

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