眼鏡をかけたその黒い人は、毎朝同じ車両で、同じ場所に、つり革に捕まって立っていた。
黒いコートに長い黒髪のその人は、とても綺麗な男の人だった。眼鏡越しの切れ長の目を、窓の外へ向けながら、毅然とした様子で立っていた。その立ち姿はしゃんとしていて、余計に背が高く見える。

「ナナ? 何見てるの?」

「なっ、何でも」

「あっ、あの人でしょー? 好きだねえ」

友達のナツミが隣でクスクスと笑う。ナナは顔を赤くしながら、スカートのプリーツを丁寧に直した。
あの人を知ったのは去年の暮れ。痴漢に遭っていた女性を、あの人が助けたことが切欠だった。それから何となく目で追っていると、いじめている小学生たちを牽制したり、お年寄りに席を譲ったりする姿が目に入った。名前も職業も知らない人。なのに、いつの間にか好きになってしまった。歳だって、離れているはずなのに。

「どうにかしてアプローチしたら?」

「…どうやって」

「もうすぐバレンタインでしょ? 何か作って渡せばいいじゃん。女子高生からなんだから嬉しいはずだよ」

そんなことを言われても、だ。いきなり見ず知らずの人から作った物をもらっても、喜ぶ人なんていないだろう。
そう言おうとしたが、電車が目的地に着いてしまった。ナナは横目で黒い人を見つつ、ナツミと一緒に電車を降りた。




バレンタインデーが近づいてきていた。
意識しないようにしても、ナナはどうしてもしてしまっていた。
ある日、ナナはデパートでお小遣いをはたいて、プランド物の黒いハンカチを買った。包装は敢えてしなかった。その方が声をかけやすいからだ。
その日は、学校を通り過ぎ、あの人の降りる駅で一緒に降りた。人々の波に流されながらも、ナナは懸命に声を張り上げた。

「あの…すみません!」

その人は、ゆっくりと振り返った。
ナナは顔が赤くなるのを感じながらも、夕べ繰り返していた言葉を口にする。

「このハンカチ、落としましたよ…?」

差し出した黒いハンカチに、その人は困惑したようだった。

「いえ…これは私の物ではありませんね……駅員に渡しておきます」

そう言って、その人はハンカチを受けとると、そのまま去ってしまった。
予想外の事態に、ナナは呆然と立ちすくむ。正義感が強いのは、元々わかっていたじゃないか。どうして、この事態を想定できなかったのだろう。
悔やんでも、もうどうしようもない。次の機会に、また挑戦しよう。
しかし、その機会が訪れることはなかった。
黒い影を探しても、その人が同じ車両に乗ることはなかった。もしかしたら、違う車両に乗っているのかもしれない。そう思い、ナツミと協力して車両内を探してみても、黒い人はどこにもいなかった。時間がずれたか、どこかに引っ越したのか。
ナナには何もわからないが、あの後駅員から返してもらったハンカチがあれば、あの人を好きだった証があれば、もう十分な気がしていた。



20150911

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