エルという人物はここでは有名人であり、憧れの対象でもある。世界一の探偵、という彼の肩書きだけでもしびれてしまう。世界を牛耳るその姿は目にしたことがなくとも、ここにいる誰もがその名を知っているし、ほとんどの者は彼を目指している。
 私もその一人だ。
 彼に認められるために、人一倍勉学に励んでいる。事実私は今ここで一番の成績を収めている。
 ただその目標の大きさに時折押しつぶされそうになる。私はエルになれるのか。このまま勉学に励めばエルになれるのか……本当に? それは主に勉強しているときに集中の合間を縫って現れる、刹那の悪夢のようなものだ。私は最初考えないようにしていた。その疑念が過ぎ去るのを待った。けれど今はなかなか過ぎ去ろうとせず私の中で重しのように沈みこみ、動こうとしない。
 だから私はこう考えた。
 エルと一目会ってその姿を見れば、私をエルに認知してもらえば、その不安はなくなるのではないかと。
 その考えは考えるほどに一番理にかなっているように感じた。そして私は決意した。
 私はエルに会う。
 ――どんな手段を使っても。
 
 軽いものが叩かれているような、カタカタという音が室内に響いている。エルは白い指先を踊るように動かし、それを叩いている。それは「キーボード」といううものだとエルから教わっていた。なんでも「コンピュータ」という機械を操作するための道具なのだそうだ。エルが睨んでいるのは「モニター」。黒い画面の中に白や青など様々な色の文字がエルの指先に合わせて並ぶ。
「……エル、何してるの?」
 普段エルはただモニターに映る殺人現場や捜査員の顔を見てぼんやりと考えることが多く、なかなか手を動かすことはない。
「クラッキングですよ」
「くらっきんぐ?」
「システムへ不正に侵入したり、破壊・改ざんする行為です」
「システムって?」と言いかけてやめた。どうせ聞いても私がわかるわけがない。
「でも不正って……それって悪い行為なんじゃないの?」
「悪い行為ですよ」
 エルは何てこともなく答えた。私はエルの、こんな風に悪いことをしていても悪びれないところが好きだ。
 これ以上何か言って彼の気を散らせることはしたくなかったので、私は「ふうん」と話を終わらせた。
 エルは忙しい。世界一の名探偵だからだ。世界一の名探偵とエルが自負しているのではなく、自然と周りがそう呼ぶようになったのだと彼は言う。私はそれを知っても驚かなかった。この時代に来て驚かなかったのはその事実くらいだ。だってエルは頭が切れる。スコットランドヤードが追えなかった、私の母を殺した犯人だって捕まえることができた。
 この時代に来て、様々なことをエルとワタリさん(エルの執事のような人だ)から教わった。猛スピードで走る物体を「車」といい、汽車のような列車は「電車」という。車は「ガソリン」という燃料で、電車はなんと電気で走っているようだった。私は驚きが多すぎて、逆に何を目にしても心はあまり動かなくなった。すべてに驚いていると疲れてしまうのだ。最初はワタリさんの案内でイギリスを巡っていたものの、私の変化に気づいたのか、最近は外出もせずこの部屋でエルと過ごしている。
 とはいってもエルは仕事をしているため、私の相手をすることはない。私はワタリさんが買ってきてくれたパズルなんかをして時間を潰すものの、すぐに飽きてしまった。つまり、暇だった。だからエルに言ってしまった。
「エル……」
「何ですか?」
 相変わらずすごい速さでカタカタさせている。
「私、図書館に行きたい」
「いいですが、今はだめですよ。ワタリも仕事中ですし」
 エルはモニターに目を向けたまま話す。私はそれを寂しく思った。
「じゃあ、一人で行く」
 エルはようやく手を止めて、椅子を回転させてこちらを向いた。
「だめです、一人では行かせません。第一図書館がどこにあるか知ってるんですか?」
「知ってるよ。ワタリさんに案内してもらったとき通り過ぎたもん」
 伊達に一人であの時代を生きていない。この辺の地理は頭に入っている。
「だとしても、歩いて行ける距離じゃないです」
「バスを使えばいいんでしょ」
「バスの乗り方を知ってるんですか?」
「知ってるよ、ワタリさんに教わった」
 そう言うとエルは苦い顔をした。なぜそんなことを教えたのだとその顔は言っている。
「ねえ、いいでしょ」
「なぜそんなに図書館に行きたいんですか?」
「この時代の本を読みたいの」
「それならワタリに言って買ってきてもらえば良いでしょう」
「私はたくさん本のある場所に行って、自分で本を選んで読みたいの!」
 エルは根負けしたようにため息をついた。
「……わかりました。お金を少しあげましょう。代わりに」
 エルは立ち上がって隣の部屋に行き、チョーカーのような黒い輪っかを持ってきた。
「これを首につけてください。ナナさんの居場所がわかるようになります」
 こんな首輪で居場所がわかるなんて、便利な時代になったものだ。私は抗うことなく首輪をつけた。
「……気をつけて行くんですよ。知らない人に付いていってはだめです。暗くならないうちに帰ってくるように」
「わかってる……行ってきます」
 こうして私は一人で外に出ることができた。外に出た途端太陽が私を照らす。地下で暮らしているからか、日差しがやけにまぶしく感じた。様々な交通音や人々のざわめきを耳にして、開放感が押し寄せてくる。不安も中にはあったけれど、私はそれを押しやって、バス停へと歩き出した。
 
 バス停にはすでに先客がいた。同い年くらいの女の子がベンチに座っていた。私はそっと彼女の隣に腰を下ろした。彼女はちらとこちらを見て、それからまた前を向いた。私は勇気を出して話しかけた。
「……こんにちは」
 少女ははっとこちらを見る。私は笑みを見せた。彼女の表情が緩む。「こんにちは」と返してくれた。
「どこまで行くの?」
「図書館まで」
「わ、一緒だ!」
「ほんと?」
 少女はほっとしたようだった。
「私、初めてバスに乗るの。だから味方ができたみたいで心強い」
「それを言ったら私もだよ。すごい偶然だね」
「うん」と少女が頷いたところでバスが来た。少女が先に乗り、私は後に続く。
「……隣座ってもいい?」
 幸いバスに乗っている人は少なく席も空いていたけれど、私はもう少し彼女と話したかった。「いいよ」と彼女はにこやかに承諾してくれた。
 礼を言って隣に座る。バスは動き出した。
「この辺に住んでるの?」
 去って行く町の景色を横目に話しかける。
「うん。あなたは?」
「私もこの辺だよ。図書館にはよく行くの?」
「ううん、今日が初めて」
「えっ」
 私も、と言いかけたとき、誰かがドタドタと乗口から入ってきた。いつの間にか次のバス停に来ていたらしい。
 入ってきた客はフードをかぶった男性だった。彼は前の方の座席に座った。バスが発車する。私はまた少女と向き合って、話の続きをすることにした。けれどそれはできなかった。
「空港へ行け」
 不穏な声がした。今乗ってきた男性が、運転手に銃を突きつけている。車内の乗客がざわめきだす。「騒ぐな!」と男はこちらにも銃を向けた。ざわめきは嘘のように静まりかえる。
「通報でもしてみろ、そしたらそいつの頭にこいつをぶっ放すからな」
 この男は本気だ。バスジャックをしにここへ乗り込んできたのだ。
 私は拳を握り、ゆっくりと立ち上がろうとした。けれど隣から服の裾を掴まれた。
「何しようとしてるの?」
 隣の少女は焦ったように小声で言う。
「あの人を説得するの。お金をあげるからタクシーでも使って空港に行ってって」
「そんなこと言っても火に油じゃないかな」
 確かにそれはそうだ。こそこそ話している私たちに犯人が気づいてしまった。
「おい! おまえら何話してる!?」
 びくりと体が震える。私は立ち上がった。
「あの、お金をあげるから、こんなことしないでください……」
「ああ!?」
「あなたはその、お金がないからこんなことをするんでしょ……?」
「違う!」と男は叫んだ。
「俺は犯罪者だ。国外に逃亡するためにお前らを人質にする」
 乗客皆が息を呑んだ。人質? 私たちが、この男に命を脅かされている?
 私は明らかになった事実に打ちのめされながらも座った。隣の少女もショックを受けたような顔をしている。
 それからバスが空港へ向かうまで、誰も何も話さず、身動きもしなかった。通報したら自分の命が危ない。無事空港に着いて、犯人が出ていけば解放されるのだ。何もしない方が得策だと皆わかっている。
 空港に警察がいませんように、と願っていたものの、その希望は着いた途端立ち消えた。武装した警察官たちが出迎えてくれた。
 男は舌打ちをし、後部へやってきて私の腕を掴んで立たせた。まさか。
 頭に冷たい感触を感じる。私は銃を突きつけられている。
「まずお前を警察に見せる。妙なまねしたら殺すぞ」
 ドアを開けろと運転手に言い、降り口のドアが開いた。私は首を肘で絞められるようにして、男とともにバスを降りた。
 男は大罪でも犯したのか、警察官たちの数は多い。彼らは男と私を見てざわめきだす。男は銃を空へ向けた。どおんとすさまじい音が鳴り響く。
「……これは本物だ。俺に飛行機を用意しろ。話はそれからだ」
 そのときだった。どこからか音がしたかと思えば、男はがくっと地面に倒れた。彼は足を抱えて叫んでいる。彼の足には銃痕があり血がにじんでいた。誰かに撃たれたのだ。
 まさか、と周りを見る。私は警察官たちのさらに奥の方にいる二人の人影を捉えた。一人は車の中に銃をしまうあの人、もう一人は白い長袖にジーンズのラフな格好――
 エルだ!
 私は警察官に保護されるよりも早くそちらへ駆けだした。そして彼に抱きついた。
「エル、エル、私怖かった……!」
 エルは私の肩を掴んで、強引に離した。
「……あなたがソフィア・スミスですね?」
 
 
 ソフィア・スミスはワイミーズハウスというワタリさんが運営している施設から抜け出した子供のようだった。エルが聞き出した結果、エルと会うために犯罪者と手を組んでバスジャックを起こしたらしい。私が乗るバスならエルも動くだろうという算段だったようで、見事それは当たった。
 彼女は私がエルたちとともに暮らしていることを知っていた。ある日ハウスの皆で遠足に出かけたとき、たまたまワタリさんと私が一緒にいるところを見たのだという。それでエルの居場所も知り、前々から私が一人で外出するのを狙っていたらしい。エルは呆れ、またソフィアの算段にかかったのが心底悔しいようだった。
「そんなことのために用意周到な計画を練っていたんですか……あの男があなたのことを言う可能性は?」
「ないです、相応のお金は払っているので」
 ソフィアはエルをキラキラした目で見ている。エルのことがよほど好きらしい。
「……警察には突き出しません。かといってこのままハウスに返すのも危険だ。周りの子供に悪影響を与えかねない。なので」
 エルは人差し指で唇に触れながら言った。
「私の部下になってください」
「やった!」とソフィアは喜んでいる。
「ただここには住まないでください。自力でお金を稼げるのなら」
 喜色満面だったソフィアの顔が一気に色を失った。
「ええー、なんでこの子は良いんですか?」
 指をさされる。あまりいい気はしない。
「……この子は特別だからです」
「特別な能力を持ってるんですか?」
「まあそんなところです」とエルは濁した。
「何かお茶でも飲んでお話ししませんか? 私はあなたの部下なんですから!」と言うソフィアを、ワタリさんが強引に外へ連れ出した。エルは彼女の遠ざかっていく声を聞きながら、ため息をついた。
「部下にはしたくなかったが、エルだと知られたなら仕方ない……あの子供が部下なんてすごく嫌ですが」
「……エルは、私がお金を自力で稼げないからここにいさせてくれてるの?」
 私は先ほどから感じていたもやもやをエルへぶつけてしまった。エルは表情を変えることなく言った。
「それも理由の一つです。ですが私が共に暮らせる相手など限られています。ナナさんとはなんとなく波長が合うんです……あの事件も一緒に解決しましたしね」
 私はエルの言葉に胸が温かくなるのを感じた。エルは私と暮らしていてストレスを感じていないし、その反対に居心地良く思ってくれている。
 私はエルの隣に行って、その腰に抱きついた。ソフィアが行った行為だ。
 エルは私を突き放すことなく、頭にぽんと触れてくれた。それが何よりの答えだった。

20230224
 

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