「なんでビヨンドはイチゴジャムをお昼に食べるの?」
「…………」
「なんでビヨンドは質問に答えてくれないの?」
「…………」
 ジャムの瓶に指を突っ込み、また一口。甘さと酸っぱさを存分に味わうと、今度は瓶に口をつけずずずと流動物をすする。そのまま視線を上に向けたまま、イチゴの塊を噛みつぶす。途端、ざり、と硬い砂糖の感触。瓶のチープさからして安物とはわかっていたが、砂糖くらいは溶かして欲しかった。味は悪くないが。
「なんでビヨンドは、こっちを見てくれないの?」
「…………」
 一人部屋が与えられるのはいつだろう、とビヨンドは考える。今日Lのバックアップとなることが決まったため、明日にもなればもらえるだろうか。この騒がしく衛生的でもない――他人から見たら十分衛生的なのだが、潔癖なビヨンドの目にはそう見えた――環境から早くおさらばしたい。
 子供は嫌いだ。予測不能な動きをするから。チラチラと目の端に映るあの子供は、先ほどからうるさく走り回っている。その動きに規則性はなく目的も分からない。ビヨンドはそれに苛立ちを感じる。ビヨンドもまだ大人とは言えなかったが、少なくともあの子供よりは大人である。
「ねえ、ビヨンドー」
「…………」
 隣のテーブルがぎしりと音を立て、向かいに座っていた子供がこちらに身を乗り出したとわかる。目の端に子供の髪が揺れる。顔を見たくはないのでついと後ろへ背ける。
 子供は諦め、元の位置に戻ったようだった。
「もう……そのイチゴジャム、私が作ったんだからね!」
「……は?」
 ビヨンドは無視できなかった。思わず子供を見る。彼女は嬉しそうに笑った。
「あ、やっとこっち向いてくれた!」
「…………」
 また顔を横に向ける。反応した自分に嫌気がさした。
「またそっち向いちゃった……でも本当だよ、私がジャム作ってるんだよ」
 今までこの子供が作ったジャムを食べていたと言うことか。
「……なんでだ?」
「え?」
「なんで、俺のジャムを作ってたんだ?」
 接点は持ちたくなかったが、理由くらいは知りたかった。ワイミーの差し金か、それとも個人的な理由か。そのくらいは知っておきたかった。
「なんでって……わかんない」
「は?」
 ビヨンドは再び子供を見てしまった。途端に映る、子供の名前と寿命。子供――ナナ・ブラウンは今まで理由など考えたことがなかったらしい。眉を寄せて考え込んでいる。愚鈍な子供だとビヨンドはナナをそう見なした。すべての行動には理由がなければならない。だから子供は嫌いなんだ。
 彼女は言葉をひねり出すように言った。それは理由のようで理由にならない言葉だった。
「……ただビヨンドに、私の作ったジャムを食べて欲しいなって思っただけだよ。それじゃいけない?」

 ナナ・ブラウン。10歳。
 10歳にもなると、この施設では上級生の仲間入りとなる。上級生になると年の差は関係なく、皆同じテストを定期的に受ける。Lに最も近い者を探し出すテストを。ナナはいつも最下位の点数をたたき出しているようだった。いわゆる「馬鹿」とか「落ちこぼれ」と呼ばれる種類の人間である。ビヨンドのナナへの第一印象は間違っていなかった訳である。
 最もLから遠い者が、最もLに近い者の食事を作っている。その奇妙さにビヨンドは笑ってみたりもしたが、心はまったく動かず、面白くも何ともなかった。
 ナナにはひとまず「砂糖は溶かせ」とだけ言い、食事を作ることに関してはそのままにさせておいた。味は悪くないからである。ワイミーに頼めば高級なジャムが手に入るだろうが、高級であるほど舌に残るざらつきがなくなる気がして嫌だった。本来ジャムは「ぐちゃぐちゃ」噛むもの。噛んだ後のじゃりじゃり感を味わってこそジャムなのだとビヨンドは思っている。
 一人部屋が与えられたのは、予想通りバックアップになると決まった次の日だった。コンピュータと通信環境も同時に与えられ、ビヨンドはジャムを味わう時とトイレに行く時だけ部屋を出た。キッチンテーブルに座りジャムを食べていると、ナナがすっ飛んできて話しかけてきたが、ビヨンドはすべて無視した。場所を変えればいいように思えるが、自室で物を食べるというのをビヨンドは許せず、またナナのために移動するのも癪だったためそれはしなかった。
 しかし、傍目からは仲が良さそうに見えていたらしい。ワイミーがドアを叩いてきたのは、ナナと初めて会話した時から二ヶ月が経つ、初夏の頃だった。
「ナナがイチゴを買いに行くので、一緒に行ってあげてくれませんか?」
 ワイミーはそう言った。ビヨンドは眉根を寄せ、嫌な顔を作った。
「なんで俺が行かなきゃいけないんですか? ワイミーさんが行けばいい」
「確かに今までは私が付き添ってましたが、これからロンドンに行く用があって、今日は行けないんです。どうでしょう、B。ジャムを作ってもらってる身として彼女に付き添うのは」
「……別に、好きで作ってもらってる訳じゃないです」
 ワイミーはふう、と軽く溜め息をつき、それから言った。
「……苺の季節もそろそろ終わります。これからは既製品を買うことになるでしょう」
 それがどうした、とビヨンドは思った。別に既製品でも、メーカーを守ってくれれば問題ない。
「最後に作るジャムの材料を、一緒に買ってあげてもいいのではないでしょうか?」
「…………」
 この施設の創設者である、キルシュ・ワイミーの言うことは絶対だ。どのみち拒絶はできない。ビヨンドはしぶしぶ従った。コキ、と首を鳴らし、頷いたのだった。

 ナナがカゴに苺を何パックも入れている。買い占めるのではないかと思うほど続々と入れている。その様子をビヨンドは食品棚から見ていた。おかげで通り過ぎる買い物客からの視線を感じるが、これがワイミーから与えられた仕事なのだから仕方がない。せめて付き添いから尾行に変えてくれないかとワイミーに交渉したところ、妥協してくれたらしく、ビヨンドは今、ナナを後ろから眺めている。
 ナナは苺を買い占めはしなかった。満足した様子でこちらに向かってくる。ビヨンドは速やかに棚を移動した。ちょうど空調が当たり、肌寒い。
 ここには何度かワイミーと来ているらしく、ナナはすぐに砂糖を見つけ、カゴに入れた。苺と砂糖で満杯のカゴはやはり重いようで、両手を伸ばしてカゴを持っている。「カート持ってくればよかった」と呟くのを聞いた。それくらい、普通は予測できるだろうに。彼女のカゴを持ってあげるという選択肢はビヨンドにはなかった。ビヨンドはあくまでナナを見守る係だ。姿を現して騒がれるのも嫌だった。
 ナナはのったりとレジに歩き、会計をした。馬鹿でも金の勘定くらいはできるらしい。難なく金を払うと、重い袋を持ち、またのったりと牛の歩みでスーパーを出た。ビヨンドもまた店を出る。
 ここからハウスまでは歩いて大体10分。とうにその時間は経ったが、まだ歩いて半分も来ていない。ナナは終始、袋を引きずりそうなほど肩を丸めて腕を下ろし、一歩一歩踏みしめながら歩いている。ビヨンドはその様子を物陰からただ眺めている。退屈だった。最近読んだ物理学書の中身を浮かべてみたりもしたが、特に暇つぶしにはならなかった。かといって何も考えないでいるのはビヨンドにとっては難しく、次は車のナンバーをこねくり回してみようと、横を通り過ぎる車に目を向けた。その黒のバンは、ナナの横も通り過ぎると思われたが、予想外にも彼女のそばで止まりハザードランプが点いた。助手席からサングラスをかけた男が出てくる。
「こんにちは、お嬢ちゃん。重そうだね?」
 ひげを生やした、いかにも怪しげな男だったが、ナナは怯まずに答えた。度胸があるためか、それとも馬鹿故か。
「うん、すごく重い!」
「どこまで行くんだい?」
「ワイミーズハウスまで」
「へえ、君はそこの子なんだね! よかったらおじさんたちの車に乗っていかないか? 重いんだろう?」
「えっ、いいの?」とナナの目が輝く。危ない展開だったが、ビヨンドは静観していた。ナナの寿命は今日ではない。明日でもない。あと何年も生きるのであれば、この男たちは怪しくはないのかもしれないし、悪意しかなかったとしても命に別状はない。ならば構わないではないか。後者なら二度とハウスに戻らない可能性があり、ナナのジャムが永遠に食べられなくなると考えると少し残念ではあるが――最近のジャムは砂糖がきちんと溶かされ、好みのものに進化していた――仕方がない。どのみち助けに入るつもりはない。
 ビヨンドはナナに背を向けた。車のドアが開く音。ナナは本当に男の車に乗り込むらしい。ワイミーズハウスに属している以上、もっと危機感を持つべきである。それを本人に言うつもりもないが。
「あっ!」と男の声がしたのはそう思ったときだった。慌ただしい足音が後ろから聞こえてくる。
「ビヨンド!」
 ナナが自分を呼ぶ声。後ろを向く。必死の形相でナナが走ってくる。後ろから男が追いかけてきている。
「おいおいおい……」
 なんで巻き添えにするんだ。ビヨンドはナナとともに走った。別に男に警察を呼ぶとでも言えばその必要はなかったのだが、ノリで走ってしまった。追いかけられると逃げてしまうのが人の性である。
 ある程度走り、男を巻いたところで、ビヨンドは走るのをやめた。壁に手をつき、ゼエハアと息を整える。ナナも同じく、膝に手をつきながら背中で息をしている。彼女の持っていた袋はなかった。車に乗せてしまったのだろう。
「……お前は乗らなかったのか?」
「乗らなかったよ」とナナは当たり前のように答える。
「最初から乗らないで逃げるって決めてた」
 危機感がなさそうに「見えた」のではなく、「見せていた」というのか。意外と演技のできる子供だ。
「でもそれはね」とナナは続ける。「ビヨンドがずっとついてきてることを知ってたからできたことかも。じゃなかったらこわくて乗ってたかも」
「なんで知ってたんだ?」
「ワイミーさんが言ってたから。ビヨンドが後ろについているから、困ったときは頼りなさいって」
 ビヨンドは鼻白んだ。ワイミーも余計なことを言う。
「ありがとう、ビヨンド」
 ナナは笑った。
「私、心強かったよ。イチゴと砂糖くらいは持って欲しかったけど」
 その親愛に満ちた表情に、ビヨンドはぎょっとし、すぐに目をそらした。こんな純粋な情を向けられるのは久しぶりだった。忘れていた過去を思い出す。父と母と暮らしていた、ささやかでも幸せだった日々を。両親の減っていく寿命に震えていた日々を。
「……ビヨンド?」
「……帰るか」
 懐かしい感情を消し去るように、ナナから目をそらしたまま、ビヨンドは言った。もう外に用はない。イチゴは明日でも明後日でも買える。自分ではなくワイミーを連れて、買えばいい。
 
 月日が経つのは早く、ビヨンドは青年と呼ばれる歳に、ナナは思春期の歳になった。相変わらずナナはハウス最低点をたたき出し、ジャムを食すビヨンドにうるさく話しかけている。相変わらず、ビヨンドはそれを無視している。相づちを打つことも、目を合わせることもない。顔を見ればまた、これまで蓋をしていた「人間らしい」情が湧き上がるかもしれないからだ。それらの情は自分にとって不必要なものだ。これから実行する計画のためにも、それはまったく不必要なものだった。
 ビヨンドには野望があった。自分のオリジナルであるLを超えるという野望だ。そして、それを叶えるため、7月の半ば、ビヨンドは実行した。
 自分の計画が間違っていたとは思わない。ただ、Lの方が上だった。南空ナオミを侮っていた。それだけだ。ハウスが思いのほか自分の不在を把握するのが早かったのも、もしかしたら敗因の一つだったのかもしれない。そのせいでLが動くのが早かった。ハウスで自分を一番気にかけていたのは、おそらくナナだ。ナナがきっと昼食の頃になって気づいたのだろう。そしてロジャーか誰かに報告した。
 不思議とナナやLに対する恨みはなかった。すべて、そこまで考えなかった自分に非がある。正当な勝負を仕掛け、自分が負けた。敗者は敗者らしく、すごすごと舞台から降りなければならない。ただ、悔しさはあった。「悔しい」という名前の感情を、ビヨンドは久しぶりに味わった。
「……ここに来てから、人間らしくなった気がする。ナナがいないのにな。くくくっ」
 窓のない薄暗い独房の中で、彼の笑い声だけが響き、そして虚しく消えた。

20220515

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