声をかけてきたのは、若い女性だった。
「魅上照さん、ですよね?」
 年は二十代半ばほどか。白のブラウスにタイトなパンツ、低いヒールを履き肩には大きめの鞄を提げている。仕事帰りのOLというところか。どことなく疲れているその顔に、覚えはない。
 無視することはできた。「キラ王国」に出演し、テレビでの露出も増えているため、最近では見知らぬ者に声をかけられることが多い。ただ、SPKの者という線もある。接触しておいて損はないだろう。いつも自分を尾行している者はホームの階段下にいるようだったが。
「そうですが……あなたは?」
「私は鈴木ナナといいます。魅上さん、あなたにお話ししたいことがあるんです」
 彼女は死神の目に映る名前と同じ名前を名乗った。これでSPKの者ではないと証明されたが、魅上はその場を去ることができなかった。彼女の寿命が、極端に少なかったのだ。
 先ほど降りた列車のドアが音を立てて閉まり、ゆっくりと去って行く。ホームには続々と人が集まり再び列を作っていく。女は後ろにできた列を避けるように、一歩こちらへ近づいた。そして囁くような声で言った。
「私、魅上さんの秘密を知ってるんです……お願いです、お話だけでも聞いて頂けませんか?」
 
 女に連れてこられたのは、駅前にある割烹料理店だった。店員に丁寧に迎えられ、個室へ案内される。そこは六畳ほどの広い部屋だった。床下からの照明が漆喰の壁を浮かび上がらせている。全体は薄暗かったが、テーブルのみ上から照らされていたため、女の顔ははっきりとわかった。
「……予約していたのですか?」
「はい。魅上さんと今日、ここに来ると決めていたので」
 女はさらりと言った。確かに自分は退社時間も電車を降りる時間も決まっているが、この女はそれを知った上で計画していたとわかり、魅上は薄ら寒くなった。安易に関わってはいけないと直感し、ここまでついてきてしまったことを後悔し始めていた。
「魅上さんは何にしますか? ここは天ぷらしかないのでそれになりますが」
 女はメニューを開き、こちらに置いた。食欲もすでに失せていたが、魅上は仕方なくそれに目を落とす。確かに京野菜や魚介の天ぷらコースしかなく、値段も桁が一つ多いのではないかと思うほど高い。「私が出しますのでどれでもどうぞ」と女が魅上の気持ちを察してか言う。魅上は一番安いコースにすることにした。
 ちょうどよく店員が現れ、女が自分と魅上の分を注文する。店員が去って行き、女は椅子に背を凭れた。改めてその顔を見る。全体がむくんでいるように腫れぼったく、目の下には隈もある。疲れ切っているように見えるのはそのせいだった。
「ここは完全個室で防音もされてますので、店員が来ない限りは話が聞こえることはないんです」
 しかし女の声は不思議と張りがあった。
「そうですか……それで話とは?」
 魅上はさっさと話を聞き、この店を出たかった。このおかしな女と早く別れたかった。
「……キラについてです」
 女がそう言った途端、「失礼いたします」と店員が先附を持ってきた。店員が出て行き、女はかしこまったように背もたれから身を起こす。先附にはどちらも手を出そうとしなかった。
「魅上さんがキラに心酔していることは知っています。ですが、私のような人間がいることも知って欲しいのです」
「はあ」
「私は、この世に疲れました」
 女は目を細めた。腫れぼったい瞼を支えきれず、意識せず目が細まったようにも見えた。
「元々人間関係とか、しがらみはたくさんありました。大人になってからは余計に。そこへキラ……」
 女は言葉を切った。店員がメインの天ぷらを持ってきたからだ。揚げたての油の香りが充満する。女は初めて箸を取った。椎茸を口に入れる。
「……魅上さんもどうぞ」
 香りを嗅いでも食欲は戻っては来なかったが、出されたものを食べないのは気が引けた。魅上も箸を持ち茄子を食べる。高級店ということもあり、味はしっかりしている。
「美味しいでしょう?」
「はい……ここにはよく来られるのですか?」
「いえ、初めて来ました」
「……そうですか」
 女は野菜を二つ食べると、箸を置いた。
「話を戻します……キラは、この世をもっと生きづらくしました。恐怖をみなに植え付けたのです。少しでも道をそれてしまったら死ぬ。その恐怖を」
「少なくとも、キラがキラと呼ばれ始めた頃には、犯罪者だけが裁かれていました。けれど今はどうでしょう? 万引きやカツアゲなど小さな罪でも裁かれています。みな罪を犯してしまわないよう、細心の注意を払って生きています。カツアゲを見て見ぬふりをしただけでも、裁かれてしまいそうですから」
「魅上さんはどう思われますか? 今、キラは恐怖によってこの世を支配している。その事実について」
 女の言いたいことはわかった。恐怖によって善人も生きづらい世界になっていることを咎めているのだ。
「……私はそれでいいと思います。確かに生きづらい世の中になりましたが、キラの目的は悪人のいない世界を創ること。そのためには悪人にならないことが肝心です。それを抑制するために多少の恐怖も必要かと」
 言い終わるなり、女は海老をパリ、と噛んだ。彼女は目を伏せ、ただ咀嚼している。その表情には諦めが浮かんでいた。
「……まあ、魅上さんならそう言うと思ってました。魅上さん、あなたキラでしょう?」
 唐突な言葉に魅上は動揺した。しかしそれを表に出すほど魅上は愚かではなかった。
「私がキラ? 何を言うのですか?」
「私、見ちゃったんですよ」
 女は再び海老を口に入れた。パリ。ザクザクザク。
「2週間前のことでした。残業して終電に乗っていたら、隣の車両が何やら騒がしかったんです。見ると酔っ払った男が女性に絡んでいました。その車両にはその二人と魅上さんと、そしてもう一人の男性がいました。私はどちらかが助けると思い、窓から見ていました……魅上さん、あなたがあの子を助けましたね。ノートを使って酔っ払いを殺した」
 SPKの尾行者を欺くための行為だったが、思わぬ目撃者がいたようだ。これについては言い訳できない。
 ――この女を殺すしかない。
 魅上は目の前の女をどのようにして殺すか思案した。女は彼を気にする様子もなく、ただ天ぷらを食べていた。海老をもう一本食べ終わったところで、女は唇の油を舐めて言った。
「別に、魅上さんをLのもとへ突き出すなんて真似はしません。というか、その前に殺されてしまうだろうけれど」
 そこで女は笑った。初めて見る人間的な表情だった。
「私が所望しているのは『死』なんです。それほど苦痛もなく、すぐに逝けるような殺し方で、殺されたい。これは想像ですけど、心臓発作ならそれほど痛くなさそうですし、それに魅上さんになら殺されたいと思うんです」
「なぜ、私に殺されたいのです?」
 女は口角を上げた。唇のテカリが一層目立つ。
「私、魅上さんのファンなんです。キラ王国で初めて見たときから、ずっと好きでした。私は魅上さんの、キラの思想に賛成はしませんが、あなたの容姿は好きなんです」
「…………」
「あなたを追いかけて、京都まで引っ越してきたんですよ。この生きづらさも別の土地なら軽減するかと思いましたが、そんなことはありませんでした」
 女は箸を置いた。いつの間にか天ぷらをすべて食べ終わっていた。
「私は今から店を出ます。払っておくので、魅上さんはまだ召し上がっていてください。殺しのタイミングは魅上さんの好きなタイミングで大丈夫です」
 まるで店員にいつ飲み物を持ってきてほしいと頼むような気軽さで女は言った。では、と立ち上がりかけた女を呼び止める。
「……殺しには顔写真が必要だ。撮らせてくれないか」
「ええ、何度でも」
 携帯を取りだし、女を撮る。携帯を閉じると、女は言った。
「もう、大丈夫ですか?」
「はい」
「最後の晩餐を魅上さんと食べられて幸せでした。さようなら」
「……さようなら」
 女は個室を出て行った。
 生に執着しない人間は、みな彼女のように感情が麻痺したような者が多いのだろうか。いや、麻痺というより自分から感情を切り離しているように見えた。そのせいか、人類にとって一番大切な生命力が欠落してしまっている印象を受けた。終始目に光はなく、本当に自分に好意を寄せていたかもわからない。自殺の補助などできればしたくはないが、あの女の場合はこちらがキラだと認識してしまっている。どのみち殺さなければならない。
 魅上は携帯を開き、顔写真とともに高田清美へメールを送った。「この女を殺せ」と。

20220501
 

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