人間は神様から自由であるべきだ

被告は被害者と婚約関係であった。被害者は前妻との間に養子(以下A)を迎えており、事件当日Aは学業のため不在であった。被害者自宅には被告と被害者のみがおり、家政婦(以下B)は夕食の買い物に出掛けているところを近所のスーパーマーケットにて目撃されている。事件前夜、被告は被害者自宅にて調理をしており、事件当日昼食として被告が前日に調理をしたものを被害者被告共に食した。なお、被告が調理していた際被害者のみが在宅していたが、キッチンは被害者のいたリビングからは死角になっている。昼食後、被告は用事があると告げ被害者宅を後にし、昼食からおよそ三十分後にBが帰宅。帰宅時被害者の受け答えはしっかりとしており、不審な様子はなかったとBが証言している。昼食後一時間が経過した頃、自宅にて仕事をしていた被害者が急に胸を押さえて苦しみ出す。Bが急いで救急車を呼ぶも、救急隊が到着する前に被害者の死亡が確認される。司法解剖の結果により、被害者の肺からは青酸ガスが検出されており、直接的な死因と見られる。昼食に用いた食器はすべて被告が食器用洗剤にて洗浄しており、毒物などの検出はなかったことが鑑識から報告されている。また、調理用材すべてを調べたが、青酸カリにあたる物質は発見されなかったものの、洗面所に置かれた化粧瓶より、およそ0.01mgの青酸カリおよび被告の指紋が検出された。

「先生は、神様がいると思っていらっしゃるの?」
 目の前に座ったミョウジナマエが、魅上には未発達の子どもに見える。実際、ナマエは中学二年生であって、魅上から見れば子どもでしかないのであるが、化粧を知らない白い肌と染めてもいない黒い髪は、少女の象徴のように感じられた。魅上は「検事は一般に先生と呼ばれる職業ではない」とナマエの思い込みを訂正しつつも、「きみはいないと思うのかい」と質問を返す。少し頭の働く、生意気盛りの中学生であれば、質問に質問を返すことは礼儀に反すると反発されそうだなと思ったものの、ナマエはぽやんとした顔で、おっとり首を傾げるだけだった。その様子は白痴を疑わせるほどであり、それがまた少女の清廉さを際立たせている。
「いらっしゃる……かもしれないわ。ほら、いつからかみんな、そう言うようになったでしょう?」
 キラ。名を浮かべるだけで魅上の胸は高まった。そっと左手を心臓に置く。
 ナマエの動きに合わせてさらりと流れた髪が、薄い陽光に照らされ美しく光る。灰色にくすんだ面会室で、ナマエのコントラストは不自然だった。白い肌も背中まで垂れた艶のある髪も、薄く色づいた桃色の唇も。頬だけが血の気のないほど白く、少女の被害性を物語っている。そのことに魅上は憤りさえ感じた。無論、対象が美しい少女でなくとも彼はすべての悪を憎んでいるし、被害にあった人間すべて悪が裁かれることによって救われなくてはならないと考えている。そして彼には裁くための力があった。神より分け与えられた、素晴らしい力が。
 ナマエはじっと首を傾げたまま魅上を見つめていて、その黒々と濡れた瞳は子鹿のように無垢だった。魅上は哀れな少女を怯えさせないよう、努めて優しい声音で言った。
「神はいつも私たちを見守っていてくださる」
 事実魅上にとって神が"いる"のは疑いようもない。幼少の頃より彼の正義は報われていた。何故か。神が、神たるキラが魅上を見ていてくださったからに他ならない。
 黒い死神が現れた時の高揚を、生涯忘れないだろうと魅上は確信している。人生で最も崇高な瞬間であり、輝かしい瞬間でもあった。与えられた力を、神が望んでいる通りに扱えていると、魅上には自負がある。そして、この少女への救済もいつもの通りに行われるだろう。
 検事という職業柄、魅上は冤罪の恐ろしさや裁判の必要性を嫌というほど学んできた。それでも、キラがこの世に降臨されてから、魅上には裁判があまりに陳腐で時間ばかりを食う無駄事にしか思えなくなっている。罪人はキラが等しく裁くのに、その重さを測ることは愚かしい。悪は排除されるべきである。例外はない。
 魅上はナマエの継母になる予定であった女を思い浮かべた。これはもとより悪い噂の絶えない女で、すでに三度の結婚をしているものの、夫はみな自宅で変死を遂げている。証拠がなく立件されたことはないが、夫が死ぬ度に多額の遺産が転がり込んできたところを見て、彼女がその死に関わっていると考えるのは邪推と言い切れない。大方、今回もまた氏の財産に目が眩んで結婚を取り付けたのだろう。ナマエの父親は資産家と名高く、手持ちの不動産だけでも億を超える収入があったと聞く。
 魅上は他の事件の被害者に比べ、ナマエにシンパシーを感じていた。それはナマエが魅上と同じく、子どもであるのに親を失ったからかもしれない。それも、裁かれた魅上の母と違って、ナマエは理不尽にも悪に家族を奪われたのだ。
 箱入り娘と呼ぶのがふさわしいほど、ナマエには浮世離れした雰囲気があった。ナマエは養子だったものの父親との仲は良好だったようで、何一つ不自由のない豊かな暮らしをしていただろうことは、事件現場を訪れた魅上にも知れるところだった。名門私立中学に通い、彼女専用のドレッサーには中学生には高価な服がずらりと並んでいた。父親の溺愛ぶりが目に見えるようだ。ミョウジ家の家政婦に証言のため面会したときも、緊張した面持ちの中年女性は「あんなに仲が良かったのに……お嬢様がお可哀想で」と涙ぐんだ。
「そうね……先生はとても頭がいいから、きっと正しいのだわ」
 ナマエの声は細い糸のようだ。
「神様がいつも見ていてくださるのなら、誰もが正しく裁かれるのね」
「もちろんだ」
 声に力が入っていることを、魅上は自覚している。
 ナマエは弱々しい微笑みを浮かべ、その小さな頭を下げた。

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 事件は正当に裁かれた。裁判で被告Aは有罪判決を受け、それが報道された夜にはキラもまた、女を裁いた。

 魅上の生活は忙しく、余暇などほとんど取る余地がない。数多くの事件を仕事で扱いながら、自宅に帰れば犯罪者たちを裁く日々だ。
 それでも頭の隅にナマエのことはあった。急に連絡を受け、すぐに顔を思い出したのは彼女が気にかかっていた証拠である。

 指定された喫茶店の扉を引くと、木製のドアベルが品のいい音を奏でる。店内には紅のビロードが敷かれ、鈴蘭の形を模したランプが各テーブルに吊るされている。近年流行りのチェーン店ではなく駅からも遠いものの、それなりに席は埋まっていた。昼飯時は過ぎているためか目立つのは大皿よりもティーポットの類で、やや年配の女性が多い。
 ナマエは窓辺の席に座っていた。窓の外は青い。降り注ぐ日差しを浴びて、艶やかな黒髪には光の輪ができている。
 魅上は足音を立てずにナマエの前に立つと、ビロード張りの肘掛け椅子を引いた。カップを前に目を伏せていたナマエが、気配に気づいて顔を上げる。
「すまない。待たせたかな」
「いいえ」
 本来ならば解決した事件の関係者に会う必要はなく、個人的に連絡を取ることもない。
 魅上がナマエの誘いを了承したのは、まだ年若い彼女を心配していたからだ。美しい子どもが財産とともに一人残される。生きていく上で数多くの障害が待ち受けているのは想像に難くない。
 微笑んだナマエの頬は、最後に見た時も幾分か柔らかそうで、その笑顔に影がないことが魅上を安心させた。被害者たちの安寧は、魅上の正義の肯定である。
 お世話になったから最後にお礼が言いたいと魅上を呼び出したナマエは、これと言って大きな話題はないようで、日々どのように暮らしているのかを穏やかに話した。あの家政婦はいまだナマエの面倒を見ており、食事はしっかり摂れていること、父の会社の弁護士が善意でナマエに手を貸し、不動産の管理などはつつがなく行えていることなど、奪われたものは戻らないながらもおおよそは元のように暮らしている様子に、魅上は聞きながら満足を覚える。
「ねえ、先生」
 優雅な仕草でカップを置き、ナマエは小首を傾げて魅上を見つめた。ミルクで濁った水面は白く光っているが、ナマエを写してはいない。
「あの人はやっぱり、悪い人だったんでしょうか……。だからキラに裁かれたの?」
 大きく頷きたいのを堪え、魅上もまたカップを置いた。
 正面座った少女は、やはり大きな無垢なる瞳をして、その内に自分が映りこんでいるのを魅上は見た。ナマエはこれから多くのことを経験し世間に羽ばたいていく、いわば蕾のような存在だ。新雪のような少女の精神に足跡を付けるのであれば、少しも誤ったものであってはいけない。魅上は舌で唇を湿らせた。どう伝えれば、一番ナマエに響くだろうか、考える。可能であれば、はじめて正義を目の当たりにした時の感動……それは母の弔いと同義でもあったが……あの日の自分と同じ感動を受けてほしいと思った。
「きみはキラに感謝しているかい?」
 当然である。ナマエの父親を奪った悪は、キラによって裁かれたのだから。キラは唯一絶対の指針であり、ようやっと世間もそれを認め始めている。いまさらキラ肯定派否定派などというものは存在しないに等しく、キラは正しい。それがすべてだ。
 魅上はじっと、花弁のような唇が開くのを待った。神への陶酔がそこから零れ落ちることに疑いはなかった。自分ならば、未熟な子どもをより正しい方向へ導ける自負もあった。いずれ大人になっていく子どもが、世界がより良い場所になることを信じて生きられるのは、幸福だろう。
 ナマエは言った。
「神が悪人に手を下すのであれば、本当によかったと思っているんです。……その前に、私の手で殺せたことを」
 店内は穏やかな話し声に満ちている。どの客もみな一様に自分たちのおしゃべりに夢中で、誰もふたりのことなんて気に留めていない。たったいま、窓辺に座る少女が口にしたことなどには無関心で、各々がそれぞれの現実に没頭している。
 呼吸が止まった一瞬のうちに、世界が塗り替わる。そんな感覚だった。
 ナマエはやはり優雅な仕草でカップを持ち上げ、口元に運ぶ。そうして魅上に笑いかけるのだけれど、もうそこに無垢な光は宿っていない。どころか、今度は暗い光を灯してうっそりと魅上を眺めるのだった。そう、眺めている……まるで知恵遅れの動物を観察するかのように。そう認識した瞬間、カッと耳の裏から脳髄にかけて、灼けるように引き攣れ、痛んだ。
 何が起こったのか。魅上の優秀なはずの頭脳は、目の前の少女の人格が急に入れ替えられたようにしか思えない。午後の麗らかな日差しがよく似合う、世間知らずの娘であったはずだ。そうだ、彼女には白痴かと思うほどに無知ゆえの清らかさがあったはずで、しかしそれは跡形もなく消え失せている。初めから幻だったかのように、いまのナマエにはその面影さえもない。
 茶請けのクッキーを細い指先が摘まむ。食べるでもなく、手持ち無沙汰に弄りながら、ナマエは左手で長い髪を耳にかけた。緩慢な仕草は品の良さより艶美な色気を感じさせ、もちろん彼女の年齢に似合うものではないのだが、擦れた目つきと仄暗さを纏った頬によく馴染んだ。
「先生はどうして私があの家に引き取られたかをご存知?」
 目だけが魅上の頭から指先をさっと浚う。彼に心当たりがないと知り、ナマエはつまらなそうにクッキーを齧る。
「くだらないのよ、とっても。くだらない話なのよ」
 彼女にとって大人とは、欲に塗れた泥人形だ。ナマエから若さや女の身体を搾取しようとするばかりで、庇護など望むべくもない。これまでだってそうだったのだ。まさか、ぽっと人生に現れた検事一匹が正義の使者など、そんなことはあり得ないと知っている。魅上が、彼女の無知を装った視線にある種の優越感を抱くことをナマエはきちんと理解していた。人間は見たいものしか目に映さない。ナマエが可憐で非力で、憐れな少女を演じてみせれば、法廷のすべてがそれを信じた。これまで三度も夫と死別し、疑われようとも証拠を残さなかった被告がこんなお粗末な真似をするなど、どうして不思議に思わなかったのか。ナマエには理解ができない。
 魅上は声を出そうとして、自分が乾いていることに気づいた。
「なぜ、そんなことを」
 平静を装って絞り出した声には、隠しようもない罅が入っている。これが何を訊いているのか、魅上はわかっていなかったかもしれない。なぜ、父親を殺したのか。なぜ、罪を告白したのか。どちらでもいい。
 ナマエは真正面から魅上に向き合う。しゃんと伸ばされた背筋と張った胸は堂々として、気品さえあった。
「人間は神様から自由であるべきだ。私は自分の手足を使って、やりたいように生きるわ……たとえ神様にだって従うものか」
 視界がチカチカと瞬くような錯覚を覚え、魅上は頭を右手で押さえる。悍ましかった。あまりに大きな怒りのために、触覚がぼやけているようにさえ感じる。ティーカップの感触がいまの彼にはわからない。
 目の前の少女が、急に意味の分からない生き物に姿を変えた。眼前の少女は、もはや彼の正義に救われた子羊ではなく、ただの悪に成り下がっている。善良のベールはかなぐり捨てられ、中に隠されていた低劣さが鼻につくようで、魅上は己の表情が歪むのを、それを見てナマエが笑うのを膜一枚を隔てたところで認識した。
「きみが父親を殺したのか。きみの継母になる予定だった、あの女に罪を擦りつけたのか」
 誰が疑っただろう。非力そのものの少女がすべてを画策していたなど。ああ、なんて醜悪なのだ!
 ナマエはつと目を細め、唇を緩めた。それは微笑みであったが、あまりに陰鬱で美しかったため、魅上はそのことに気づかなかった。
「これ以上、私は私が奪われることを赦さない。そう決めただけ」

 ▼

 その夜。音のない自室で、魅上は“神の力”と向き合っていた。ーー黒いノート。耳元で死神が笑う。
「……死神」
「はいよ」
 黒い死神の声には、隠しようもない笑いが滲んでいる。もとより隠すつもりはないのかもしれない。
 ナマエの言った神からの自由とは、いわば神の否定である。神の審判に異を唱えるから、まさか自分で手を下すような恐ろしい真似ができるのだと魅上は考えた。それは神への冒涜に他ならない。神はいる。そして神は正しい。そうでなければ、これまで自分が死を望んだ悪たちは一体何だったのだ。悪だったはずだ。彼の人生で、悪の排除によって平和が訪れたことは、一度や二度ではなかった。
 これまで幾度も悪の殲滅を願いこそすれ、自ら人を殺そうなど、そんな恐ろしいことを魅上は考えたことがない。人間はただ祈り、神の沙汰を待てばいいのだ。神からの自由など……神はすべてを見ていると言うのに、何を言っているのだろう?
 目の前に置かれた黒いノート。神に変わり、罪人の名を書き連ねるのは魅上の仕事だ。これはナマエがやったような殺人ではなく、神の代行であり神の御意志だ。だからもちろん、罪にはならない。
 本日分の裁きは終わっている。報道された悪人たちはみな等しく死んだだろう。本来ならば魅上はこれ以上の名を書いてはいけないはずだった。人間は神の領域を侵してはならない。
 だが。
 神の支配から逃れようとする悪党など、果たして新しい世界に必要だろうか。
「書くのかぁ?」
 死神は面白げに魅上の手元を覗き込む。彼は何も言わず、真新しい一ページに書きつけるため、銀のボールペンを取った。
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