慈愛の虚像

 美しい微笑みと完璧な立ち回り。
 夜神月を好きになれない。

 目を覚ますとミルク色の天井がくるくる回って見える。身体はベッドに横たわったままなのに腹に石を詰められた重さで沈んでいってしまいそう。ぺたんと凹んだ腹部に手を当てると、中に仕舞われている臓器がしくしく泣いているのがわかって、思わず悪態を吐く。ちくしょう。
 肉体なんて脱ぎ捨ててしまいたかった。なのに私たち、いつもこの肉の檻に閉じ込められている。
 外の光は清廉で、忙しない日常は私が眠っている間に始められていた。背広を着込んだサラリーマンが通りを迷いない足取りで歩いていくのが見なくてもわかる。いつも三人、私が家を出るまでに歩き去っていく。
 階下からは不気味なほど音がしなかった。暴れ続けて眠ったのかもしれない。きっとリビングから玄関、果ては洗面所まであますところなく荒れているのだ。私はきれいなものが好き。乱れ切った家に住み続けなければならないこの人生はいつだって苦痛と共にある。
 私の部屋だけが温室だ。必要最低限の白い家具の中には生きるのに本当に必要物だけが収められていて、そのことが私の心を宥めるのだった。塵一つ落ちていないこの部屋を、私はたった一人を除くすべての人間以上に愛している。
身体を起こした。伸びた髪が顔を覆い、世界が半分になる。携帯を手に取る。一昨年変えた機種は周りから見れば古いようで「二年で変えないの」と驚かれる。人間の、日々新しいものを求める雑で回転の早いサイクルが私は嫌いなのに、人間という種族以外に私の属するものはないのだと思うといつも遣る瀬無くなる。
 清美から着信があった。メールも一通。「寝てるのならいいわ。気にしないで」つんと尖った文面に、きゅんと心臓が軋む。いい、なんてまるで思っていないくせに、こういった見栄を張らずにはいられない彼女のつまらないプライドはいつも可愛い。
 ベッドから足を下ろすと、冷えた床が私の身体を震わせたから、寝ぼけた頭がすっきりと目覚める。服を脱いだ。鏡に身体を写す。肋の浮いた薄い身体。腹から胸にかけては曲線があって、若い女の財産が詰め込まれている。
 いつまでだろうと思う。いつまで私は、この肉の塊に仕舞われているのだろう。



 友人にできた初めての恋人は散々駄目な男だったけれど、いま目の前で微笑んでいる人間よりよほど善人だったのではないかと疑っている。
 後方から入ってきた夜神月は、私が一人で座っていることに気がつくと、少しだけ目を丸くして、人好きのする笑顔を浮かべた。
「ミョウジさんも犯罪心理学基礎、取っていたんだ?」
 隣、いいかな。断られることをまったく前提としていない問いに首を振るのは難しく、私は曖昧に言葉尻を濁す。夜神月は私に構わず腰掛けた。品のいい、革製の鞄を隣に置く。まだ使い込まれていない新しいそれは、きっと大学入学に合わせて買ったのだろうと思った。親からの贈り物だろうか、とも思った。つい先日まで高校生だった彼が手にするには、不釣り合いなほど上等だった。
「夜神くんも取っていたんだね。知らなかった」
 嘘だ。講義の初日に気がついた。まだ彼が清美の恋人になる前だって、入学式で挨拶をした人間の顔くらいは私でも覚える。
 夜神月には華がある。言って仕舞えばそれだけなのだけど、それにしたって彼の魅力というのは実に複雑だ。表向き、彼は整えられた優等生だ。背は高く端正な顔をしていて、成績は優秀かつ物腰は柔らかい。これはとてもわかりやすい魅力で、多くの人間は甘い水を求める蛍のように彼に惹かれていくのだった。彼は満遍なく周囲に愛されていくのだけど、きっとその中に本物はいない。本当に彼に惹かれるのは、その甘さだけではなく、もっと別の何かを嗅ぎ取ってしまった人間だろうと私は思っている。清美がどちらかを、考えている。
 講義室の空気は密やかな話し声に波立っている。関係のない雑音に取り囲まれ、私はペンケースの中身が揃っているかを確認するふりをした。そんな私を隣で夜神月は頬杖をつきながら眺めていて、私が意地でも彼に視線を向けないことにも気付いているのだろう、それはそういった視線だった。ぬるつくように肌の上を滑り、染み入ってくるような。もしかして、私の隣に座っているのは人間でも何でもなく、何かとっても恐ろしいものではないのかしらと思ってみたところで、すぐそこにはやはり美しいかんばせがあるだけなのだった。
「さっき高田さんに会ったよ」
「そうなの」
「珍しいよね。一緒にいないの」
 あなたが来てからそうでもなくなったよ。そう言って、この男がどんな表情をするのか、見てみたい気がした。申し訳なさそうに眉を下げるような気もしたし、頬をぴくりとも動かさないような気もした。どちらにせよ、そんなことをすれば惨めになるのは私ばかりだ。顔を上げる。美しい夜神月に、笑い返す。
「学部が一緒だって、いつも連れ立っているわけじゃないよ」
「それはそうだろうけど」
「夜神くんも、いつも流河くんといるところを見かけるけど、今日はいないんだね」
「次の講義から来るらしいよ。さっきメールが入ってた」
「仲がいいね」
「どうかな」
 困ったように微笑む彼を、前に座る女子生徒が横目で見たのが私には見えている。恐らく彼も気がついている。彼はそれをまるで感じさせなかった。
「学食でケーキが食べたいらしいんだ。ミョウジさんもどう?」
「いいね。清美も呼んで」
「そうだね」
 背中の丸まった教授がやってきて、さざめきが徐々に小さくなっていく。遠い教壇に小柄な教授が立つと、薄くなり始めた頭がよく見えた。無愛想に眼鏡を押し上げ、色のない声がマイクを通して講義室中に響く。ほっとした。私は夜神月から顔を逸らし、真剣な顔を作って、ペンを持つ。
 夜神月の考えていることが私にはわかる。夜神月は兄に似ている。



 清美とは中学校で出会った。
 もともと美人だと聞いていたけれど、それと同じくらい嫌な女の子だという話もよく聞いていた。
 午後の教室はうるさくて、いつも埃と、制汗剤と、給食の匂いがしている。その中で、清美の座る窓際の席だけが、つまらない教室とは無縁の、何か神聖な場所のようだった。教室の隅から横目で伺うと、清美はいつも品よく背筋を伸ばして、文庫本を読んでいた。黒いショートカットは彼女の綺麗な形の頭にとてもよく似合っていて、他の女の子のように、つんつんと毛先が跳ねたりなんてしていない。たぶん、他のクラスメイトだって、一日に一度か二度、彼女のことを眺めただろう。茶色い床、緑色の黒板、紺色の制服の群れの中で、清美のいるところだけが一段と明るい。スポットライトが当たっているようだったのだ。雲の切れ間から差す光のように。本当にそんな感じに。
 私はとても平凡な女子生徒で、休み時間のたびに友人の机を囲っては、他愛のない話できゃあきゃあ言ってみたり、とにかく楽しそうに過ごすことに心血を注いでいた。声は大きすぎても小さすぎてもいけない。出る杭は打たれるだなんて諺を作ったのは多分中学生だ。私たちみんな、はみ出すことを何よりも恐れていた。ルールは曖昧で沢山ある。友だちと同じペンケースを持ってはいけないとか、トイレに誰かが行くときはついて行ってあげるとか。ハンカチの色だって、グループの中でなんとなく決まっている。男子のことはよく知らないけれど、ノリとか空気とか、似たようなものはあっただろう。一番のタブーは一人で行動することだった。つまり、ひとりきりで本なんて読んでいる清美は、ルール違反ということになる。当たり前だ。誰も、美人でとっつきにくい清美と一緒にいようとはしなかったし、清美は清美で、馬鹿げたルールを守ろうと躍起になるクラスメイトを小馬鹿にしているような雰囲気があった。そんな私と清美の視線が合うはずもない。清美は教室中の誰もを見下していたし、私たちだって周囲に馴染めない彼女のことを内心馬鹿にしていたのだった。

 清美がフられたという話を聞いた。昼休み。「ええぇッ!?」机に手を着き、私たちは額を寄せた。「本当だって」密やかな声で話すことで、ドラマチックな効果が出ることを期待していたのかもしれない。「昨日メールで聞いたの」友人は言い、そこに愉悦の色が混ざっていることに、誰もが気づいていないふりをする。
「罰ゲームで告白されて、昨日ネタバラシされたらしいよ。ほら高木くん」
「ああ……」
 教室の前方に目をやれば、高木は、友人たちと笑っていた。漏れ聞こえてくる声はとにかく明るい。私は彼らからできるだけ大きく顔を背けた。
「でもさあ」
 “毒舌家”がわざとらしく、のんびりとした口ぶりで言う。私たちは彼女が高木を好きなことを知っていた。高木はサッカー部で目立っており、人気が高い。授業中にふざけてもみんなが笑い、教師も叱るどころか笑ってほんの僅かな注意で済ます、そんな生徒だった。その彼が、この毒を吐く口の悪い女を選ぶことはないと、みんな口には出さず承知していたから、”毒舌家”が高木を好きだと明言したことはない。
「ふつー本気にするかな? だって高田さんってちょっとアレだって言われてるわけだし」
「や、それ本人知らないでしょ」
 合いの手もまた、軽い、昨夜のバラエティ番組について話すのと変わらない声だった。アレが何を指すのか、たぶん、クラスのみんなが知っていた。それはいくつかあって、全て清美を貶めるための表現だった。
「ええ?」
 大ぶりな仕草で口元を覆う“毒舌家”は、そうかなあと首を傾げる。
「考えたらわかるじゃん。高田さんって、自分は美人ですってお高くとまってるけどさあ、自分で思ってるほどモテないじゃん、実際」
「それ言ったら可哀想だってえ」
「私はっきり言っちゃうタイプだからさ」
 本人には絶対に言えないくせにだなんて、もちろん、言ってはいけない。
 彼女たちの、にんまりと弧を描く唇に滲んだ悪意が気持ち悪くて、それでも私は友人たちとまるきり同じ顔をして、同じ声を出した。家に居場所もないのに、学校で除け者にされたらたまったものではない。小さな机を輪になって囲む、ここは一つの世界だ。暗黙の了解は法律よりも重い。
 そっと窓際に目を向けると、清美の席は空だった。いつもよりも、空気がどんよりと暗く、重たい気がして私の胸は塞ぐ。ぽつんと置き去りにされた机と椅子はくすんで見えた。その周囲で好き勝手に騒ぎ、笑うクラスメイトから、切り離されたように静かだった。じっと口を噤んでいるようにも見えた。
「今度私、高田さんに聞いてみよっかなあ。高木くんと付き合ってるんでしょって」
「やめなよお」
 笑い声。大きく空いた口から真っ赤な舌が覗いて、喉が引き攣ったのがわかったから私は口を閉じて微笑むだけにとどめた。みんな私には気づかなかった。手を叩いて、身体を折って笑う子もいた。「可哀想じゃん」少しだって思っていないくせに、私たちはよく感情を表す言葉を吐く。
「学校休んじゃうくらいショックなんでしょ」
「それもちょっとうざいよね。私、繊細なんですぅ、みたいな。たかが罰ゲームで大袈裟すぎでしょ」
 明るい声の中に攻撃が含まれていたことに耳を塞げず、心臓がすうっと冷えるような心地がした。傷ついた方が悪いような、そんな言い方は卑怯だ。ふざけてナイフを振りかざして、それが当たって血が出たら、私が悪いの?
 耳の奥が冷たくなるのを気取られないように、私の口は意志と切り離されている。「だよねえ」知らない人間の声のようだった。

 図書館によく行く。制服のままでも怪しまれなくて済む。兄はこの時間にはもう帰ってきてしまっていて、部屋に行くには兄のいるリビングを通過しなければならない。あいつの、穏やかに笑う顔が気味悪くて嫌い。「ナマエ、おかえり。おいで、おやつあるよ」そう言った拳は私を殴るために、あるいは何かを壊すためにいつも握られている。それを知っている。取り繕われた優しさが、どうして外の人間には見抜けないのだろう。家というのは恐ろしい。囲って仕舞えば、何も見えなくなるから。
 独特の匂いは清潔さと紙とインクと、外の風が運んでくる埃が混ざり合ってできている。あまり好きな匂いではなくて、館内は光を取り込みすぎて眩しいくらいだった。読書家なわけでもないから、面白そうな本を探すのにはいつも苦労する。別に本なんて読まなくたっていいけど、学校に携帯電話は持っていけない。そうなると、今の持ち物は教科書か課題のプリントくらいしかなくて、夜が来るまでの数時間を潰すには、あまりに退屈すぎる。
 背表紙が可愛い本を適当に本棚から抜き出して、一番奥の机に向かった。途中、勉強をしている学生もちらほら見つけて、みんな高校の制服を着ているからいいな、と思う。いつも窮屈な気がしている。長いスカート丈のせいかもしれない。高校生になって、スカートが短くなれば、その分だけ自由になれる気がした。
 本棚に隠れたところ、一番奥まった自習スペースに足を向けて、私の喉はひゅっと鳴った。足音に、見慣れたショートカットが振り返る。清美は私を見て、一切表情を変えず、つんと冷たく視線を本に戻した。私はそれに腹を立てた。
「高田さん、今日学校休んでたでしょ」
 普段だったら、私は彼女を見なかったことにして、別の机に向かっていた。なのに考えるよりも早く私は清美を攻撃していて、そう、これは攻撃なのだ。清美にとって、一番触れられたくない話題だろう。これが彼女の自尊心を傷つける話題だと、私は確信していた。
 清美は顔だけをゆっくりと、再び私に向けた。
「図書館でのおしゃべりは迷惑になるわ」
「そ」
 あからさまにムッとした私を、清美は勝ったと言わんばかりに鼻で笑った。それが尚のこと私を苛立たせ、きっと、だからいつもの私なら絶対に言わないことを言った。
「図書館じゃなかったらいいんでしょ」
「え?」
「行こうよ」
 ぶすくれて出口を指す私に、清美は何を思ったのだろう。予想外だったことは確かだ。きょとんと、綺麗なアーモンド型の目が丸くなって、怒りながらも私は彼女のことを可愛いと思った。すました横顔しか知らなかった。高木だって、知らないに違いない。
「ええと」
 清美の机には数学の参考書が積まれていて、ノートには授業で習っていない公式が書き込まれていた。美人で頭が良くて、ちゃんと努力もしていて。傷つけられた、意味もなく。私は“友人たち”の声を思い出す。自分が無実でないことも、思い出す。
 迷った末に、彼女は机の上を片付けた。私は適当に取ってきた本をきちんと元の場所に返した。
「どこに行くの?」
「どこでもいいよ」
 東京にはなんだってある。どこもかしこも人か建物か、意味の薄いもので溢れていて、散らかっているから、私はあまり好きではない。
 清美はトートバッグを肩に掛け、取手を両手で握っていた。「ミョウジさん、いつもはどこへ行くの?」ファミレスでドリンクバーを頼み、だらだらと居座るのが一番多い。けれどもそれは清美には似合わない気がした。お金は少しだけだったけれど、ふたりでカフェラテを飲むのには十分だろう。
 どこかカフェにでも入ろうと言う私に、清美は首を振った。「よく行くところに連れて行って」蛍光灯の光がうるさくて、空調の効きすぎているファミレスが、そんなに魅力的だとは思えない。でも、清美は真剣だった。いま目の前にいる綺麗な女の子は、私のことを見下しても、馬鹿にしてもいないことがわかったから、私は頷いた。
「高田さんって、あんまりファミレスのイメージいないけど」
「なら、どんなイメージ?」
「なんだろ。お高いフレンチとか食べてそう」
 清美が笑う。「ただの中学生よ、私」
 制服でない清美を初めて見た。白いワンピースは彼女にとてもよく似合っていた。ここは教室ではなく眩しいくらいに明るい図書館で、それなのに清美はやっぱり照らされていて、それが私には、なんだか嬉しい。



「夜神月のどこがいいの?」
 唐突な質問に清美は面食らって、シャドウで彩られた目が三回瞬く。
「なに、突然」
「ちょっと気になって」
 向かい合って座っているから、私には清美がよく見える。目を伏せると、なだらかな頬に睫毛の影が落ちる。綺麗に整えられた指先がストローを摘み、くるくると掻き回すのを眺める。
「彼、いい人じゃない」
 いい人じゃない。そう言い切ってしまうことはできなくて、私は「そうかな」と曖昧に言葉を濁す。
「夜神くんのこと、よく知らないから。いい人かそうじゃないか、まだわからない」
 私が知っているのは、夜神月が兄に似ていることだった。兄は優秀で、女に人気があり、家を荒らす。あの美しい皮膚の下から悍ましい暴力の息遣いを私は感じることができるのに、清美はまるで気づいていないのだった。彼女は、正しく恋人を友人に語る顔をして、得意気に見えすぎないよう頬に力を入れた。
「彼、優秀な人間なのに、鼻にかけたところがないでしょう。そういうところが他の人とは違うと思うけど。東大主席入学なんて、誰にでもできることではないし」
「それを言ったら、流河くんだって主席入学でしょ」
「あの人」
 綺麗な眉間にぎゅっと皺が寄る。清美が本当に嫌そうな顔をしていて、私は笑った。
「だらしのない人は嫌よ。ジーンズだっていつも同じものを履いているようじゃない」
「たしかに、スニーカーの踵を踏み潰すのはいただけないかな。でも、流河くんだってとても頭がいいのに嫌味なところがない」
「タイプじゃないの、ああいう人」
「じゃあ、夜神くんの顔は好き?」
 清美は嫌な目をした。こういった、低俗な物言いを彼女は嫌っている。「恋人の外見が好きなことは悪いことではないでしょ」言いながら私は、顔だけならいいと思っている。
「そうね、好きよ」
「そうなの」
 取り澄まして、清美はフロートを啜った。私はココアを見下ろして、ミルクの渦の中で考える。「わかっていると思うけど」清美の声は、警告するような響きをしている。「彼は、あなたのお兄さんではないわ」「知ってる」美しく、優しい男が、真である確率はどれだけだろうか?
「あれ、高田さん」
 ミョウジさんも。顔を上げる。夜神月と、その奥で流河秀樹がこちらを見下ろしていた。目が合う。夜神月が、柔和に微笑む。
 四人掛けなのがよくなかった。入店したばかりの彼らは店員に断りを入れ、夜神月は清美の隣に座った。「ちょっと失礼します」ぎゅうと流河秀樹が足をソファに乗せ詰めてくるので、私は嫌味にならない程度に端に寄る。
「何の話をしていたんですか?」
 意外にも、話を振ってきたのは流河秀樹だった。彼は呼びつけた店員にコーヒーを注文し、まだ届いていないにもかかわらず砂糖壺を自分の目の前に引き寄せた。それを見ながら「特に何も」私は笑う。まさか、あなたたちの容貌を好きとか嫌いとか、そんな話だなんて言えるわけがない。
「気になるね」と夜神月は微笑んで、清美に顔を向けた。「この間は電話出られなくてごめん」「もういいのに」ストローを摘む清美は、嬉しそうにはにかむ。嘘つき。ココアと一緒に飲み込んだ言葉は、もしかすると目つきに表れていたかもしれない。電話をしてきた時、清美、あなた本当は泣きそうだったくせに。夜神月が他の女の子と歩いているのを見かけたくせに。
 恋というのが魔法なのか呪いなのか、私には判然としない。判断力を鈍らせることは確かだと思っている。この間泣きそうだった清美はもうすっかり恋人の罪を忘れたようだった。もしくは、何かしらの理由のためにそれを罪と認めていないのかもしれない。夜神月が意図的に自分を傷つけることなんてないかのように彼女は思っている。彼女が夜神月に向ける目は恋のために潤んでいて、見ていられず、私は隣を振り返った。流河秀樹は膝を抱え、届いたばかりのコーヒーに角砂糖を落としている。
「いくつ入れるの?」
 五個目の砂糖が姿を消した時、訊いてみた。トリッキーな見た目をした彼は、思いの外「入るだけ入れようかと思っているんです」ととても丁寧に返した。「甘いものが好き?」「ええ。脳にいいので」しっとりと低い声は少しだけ私を落ち着かせた。「流河は変わってるんだ」夜神月は言う。
「こんな時くらい、膝を降ろして座ったらどうだ?」
「この座り方でないと、推理力が四十%落ちてしまいますので」
「今は推理力なんて必要ないじゃないか」
「そうですね」
 それでも流河秀樹は頑なに膝を抱えたまま、コーヒーを啜る。ニヤつく私を横目で見て、流河秀樹も笑った。

 喫茶店を出て大学へ向かう。四人とも午後の授業があった。
 前を歩く清美を眺める。夜神月と交際してから、清美は以前にもまして服装に気を使うようになった。ペールブルーの細身パンツは彼女の長い脚によく似合っていて、きゅっとくびれた足首が眩しい。何の話をしているのか二歩後ろにいる私には聞こえない。夜神月を見上げる清美が、髪を耳にかける。笑ってはいないけれど、嬉しいのだと、彼女の感情がよくわかる。首の後ろから、さあと冷たくなっていく。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色が悪い」
 ぬっと突き出てきた顔に驚いて身を引くと、隣にいたはずの流河秀樹は、私の顔を覗き込んだ。「冷や汗もかいているようですし……具合が悪いのかと」言われてみれば、血の気が引いているような気がした。自覚をした途端、視界が眩む。「夜神くん」前を歩く彼らを流河秀樹が呼ぶ。振り返る二人が私には見えない。薄い、骨張った手は私の背を支え、木陰まで連れて行ってくれた。
「ナマエ」
「なんでもないの」
「貧血ですね」
 キャンパスに貼っていたのは幸運だった。草地に横になる私を、清美が覗き込む。その横で流河秀樹は焦るでも、気の毒そうなふりをするでもなく、事実だけを言った。彼が親指を喰むのが見えた。「涼しいところにいましたし、今日は特に暖かいから、血圧が下がったんでしょう」「そうかもしれない」世界が右にゆっくりと回転していて、私は腕で視界を覆った。「ちょっと、休みたいな。ここで寝ていていい?」
「水を買ってくるから」
「自動販売機より、正門脇のコンビニの方が近いですよ」
 清美が立ち上がる気配に流河秀樹の声。「あら」長い睫毛が、瞬いたんだろうなと思った。
「そう。よく知っているのなら、一緒に来てくれる?」
 躊躇うような、嫌がるような間があった。それでも結局、スニーカーを引き摺る音がしたので流河秀樹は折れたのだろう。清美の声は焦っていて、そういう時、彼女は少し攻撃的になる。何も言われずとも、切れ長の目に睨まれれば、大抵の人は言うことを聞いてしまうのだった。
「いい? じっとしてるのよ」
 動けないからこんなところに転がっているのに、そう言い聞かせた清美は真剣で笑ってしまう。遠ざかるヒールとスニーカーを引き摺る音。周囲を歩く、何も関係のない人たちがこちらを見ては、興味なさ気に顔を逸らすのを想像し、私は視界を開けられない。腕を乗せたままの目が、じんと痺れる。
「大丈夫?」
「……うん」
 夜神月は、私のすぐそばに腰を下ろした。草が沈む柔らかな音。
「顔色が悪いな」
 そっと腕を退けると、夜神月は、心配そうに私を見下ろしていた。痺れた瞳はぼやけていて、滲んだ世界に音が遠い。
「妹もたまに貧血を起こすんだ」
 いもうと。私は夜神月の手を見る。芝生の上で、彼の手は美しく白かった。彼の長い指が握り締められたところを、彼の妹は見たことがあるのだろうかと考える。その拳に怯えたことはあるのだろうか。
「夜神くんはさ」
「うん?」
「清美と、他に何人いるの?」
 夜神月は、本当に一瞬だけ、驚いた顔をした。その顔はとてもあどけなくて、子どものようですらあった。ぱちぱちと、二回瞬きをしている間にそれは解けてしまって、代わりに整った眉が困ったように下がる。
「もしかして、何か誤解がある?」
 誤解なのだろうか。目の前にいる、優しそうな優等生と、私の見ている夜神月は。
「清美が見たの。夜神くんが、知らない女の子と一緒に歩いているところ。その日は電話に出てくれなかったって。あの日、清美は傷ついたの」
 中学の時からやっぱり清美は友だちが少ない。私以上に付き合いの長い子なんていないことを知っている。そんな彼女が私にだって何も見せようとはしなくて、気にしないでと彼女が強がる時、私の胸はきゅんとさみしさと可愛さに疼く。
 夜神月はとても兄に似ていて、私は兄のような生き物が嫌いなのだった。兄が嫌いなのだった。美しく整えられた微笑みも、その穏やかさの下に巣食う、ぬるつく暴力性も。夜神月はきっと優しい人間ではないと私は知っている。彼は正しく、気づいているのだ。そして何も言わない。言い訳もしない。どうでもいいのだろう、彼にとって。清美がガラスの破片を踏んで傷ついたことなんてどうだって。
 夜神月は穏やかだった。私の非難に耳を傾ける様子は、花が雨を受け止める様に似ていた。そうして彼の口から清美の名前が聞けることを私は願っている。そこに何かしらの感情が、何でもいい、清美にとっていいものが、乗せられていることを祈っている。
「ミョウジさんは、僕が嫌い?」
「好きじゃない」
 私の舌は私よりもよほど正直者だった。「そっか」悲しそうな声。
「高田さんは、とてもいい友だちがいるね」
 夜神月は、私の兄とは違う人間だと清美は言った。そうなのかもしれない。彼の妹はきっと殴られたことがない。私に気を遣い、彼は美しく微笑んだままだ。その暴力を、誰にも気付かれないようにしている。
 優しくない人間が慈愛を持とうとすることは、優しさと一体何が違うのだ。
「清美には、しあわせになってほしいの」
「うん」
 僕もだ。彼がそう言わなくてよかったと心の底から思う。泣きたくて、私は唇をきゅっと閉じる。
 愛さないで、清美。この男を愛さないで。
「ナマエ!」
 ヒールの音。清美がこちらに駆けてくる。私はそれを、木漏れ日の中から見つめていた。優しい男とともに。それが私には、とても悲しい。

- ナノ -