過日の愛

悪戯に役立つ本でもないかと図書館を覗いた帰り道、ふと、人気のない廊下の隅で生徒が二人、談笑しているのが目についた。片方が、自分が一等気に入っているセブルス・スニベリー・スネイプだったからかもしれない。むっつりとした陰気な表情を崩すことのないあいつが、嫌に穏やかな顔をしていたからかもしれない。そうしてその相手が、真紅のネクタイを締めていたからかもしれなかった。
彼女の名は知っていた。ナマエ・スネイプ。グリフィンドールの五年生。俺やジェームズより二つ歳上の、スネイプの姉だった。長い髪が横顔にかかり、どんな表情をしているのかはわからない。
仲が悪いのかと思っていた。彼らが仲良く話しているところなど自分は初めて見かけたし、スネイプは嫌われ者だ。何より彼らは、相対する寮に属していた。グリフィンドールとスリザリン。
俺はぎゅっと顔を顰めた。不快感からだった。スネイプ(弟の方だ)が愉快な存在ではないということに加え、この状況が気に食わなかった。
俺はポケットに手を差し入れた。詰め込んであった糞爆弾の輪郭を指でなぞる。ほくそ笑んだ。奴は油断しきっている。こいつをお見舞いしてやったら、どんな反応をするだろう。
さあ投げつけてやろうと、糞爆弾をポケットから引っ張り出した時、ちょうどナマエ・スネイプがその長い髪を耳にかけた。彼女の横顔が露わになる。弟よりも血色のいい肌は、窓から差し込む夕日を受けて仄かに赤く、ぴかぴかと光っていた。眉が柔く垂れている。唇は綻んでいた。笑っているのだ。
ひゅっという音がした。俺が息を吸い込んだ音だった。吸い込んだまま、吐き出せなかった。
たったいま自分が何をしようとしていたのかも忘れて、俺は彼らに背を向けた。彼らが俺に気がつく前に、彼らの世界の前から消えてしまいたかった。



「ねえきみ、最近おかしくない?」
ジェームズが俺の顔を覗き込んでいる。朝食の賑々しい大広間で、朝の授業の前にみんながみんな、栄養を腹に詰め込もうとがっついていた。ジェームズの奥からピーターが興味深げに俺を見つめ、リーマスは視線をオートミールに落としたまま、耳だけを注意深く俺に向けている。
「最近いやに彼女にご執心じゃないか」
ちら。榛色の瞳を猫のように細め、ジェームズがグリフィンドールテーブルの端を見やった。女子生徒の集団が、姦しく楽しそうに朝食を摂っている。その中にはナマエ・スネイプもいた。意味ありげにウィンクをするジェームズに鼻を鳴らして、皿に盛られたフライド・エッグを熱心に突つく。ジェームズが声を上げて笑った。
「恥ずかしがるなよ。我が悪戯仕掛け人一の色男であるきみの趣味が、まあ、あれなことは置いておいて。こんな愉快なことが、他にあるか?」
「そうじゃねえよ」
ソーセージを口に入れたまま俺は答える。お行儀のいい食事の仕方は、もう随分前に忘れてしまった。
「べつに、あれはおまえにとってのエバンスじゃねえ」
「へえ」
ジェームズがわざとらしく目を丸くした。
「じゃあ、なんだい」
俺は答えなかった。グラスに注がれたかぼちゃジュースを飲み干す。
身を乗り出して女子生徒たちをしげしげと眺め回すピーターの頭を引っ叩く。トースト一枚を共に席を立つと「きみってば思春期なんだ」愉快そうに言ったジェームズがまた笑った。
「席を頼むよ、相棒」
「ああ」
足早に大広間を横切っていく。途中、スリザリンのテーブルで弟が眠たそうに目を擦っているのが目の端に映った。

ナマエ・スネイプはパッとしない。成績は並。顔立ちは鉤鼻が目立ちはするが、可もなく不可もなく。いつでもきちんとシャツのボタンを締めていて、スカートのプリーツも歪んでいない。大抵二、三人の友人といて、大きな声で笑わない。そういう目立たない、ありふれた女子生徒だった。
ゾンコで仕入れた水風船を手に、俺は廊下の角で彼女が来るのを待ち構えていた。風船の中には、ちょっとやそっとでは落とせないインクが入っている。廊下は凍てつくように寒かったけれど、これを彼女に投げつけることを想像すると待っているのも苦ではなかった。俺は笑う。一体どんな顔をするだろうか。とびっきり惨めで、情けない顔をすればいい。
足音が一つ近づいてきた。軽いそれは、男のものではない。俺はそっと角から顔を出し、廊下を伺った。ナマエ・スネイプは一人で廊下を歩いてきた。考え事でもしているのか、俯き加減で指を口元に当て、僅かに首を傾げている。
彼女が俺の隠れている角に足を差しかけた瞬間、俺はバッと身を翻して彼女の前に現れた。驚いた彼女が、あっと声を上げ立ち止まる。そこに、すぐさま風船を投げつけた。弾けるインクは、目も眩むような鮮やかな色をしている。刺々しいピンクや黄色に染まった彼女は、惚けた顔をして俺を見つめた。俺はにやつきながら彼女を眺めた。さあ、次はどんな顔をする?
けれどもナマエ・スネイプは泣きも怒りもしなかった。ふっと息をつくと、身を屈めてくすくすと笑う。「きみだったの、シリウス」その表情は俺が期待したものとは程遠い。
「今日のいたずらはカラフルね」
パッション・イエローの毛先を弄びながら、彼女は首を傾げた。
「これ、お風呂で落とせる?」
「……落ちねえよ」
俺はぶすくれて答えた。
いつもこうだ。廊下で姉弟を見かけたあの日から、俺は様々な手を使ってナマエ・スネイプに嫌がらせをした。水を浴びせたことも、大勢の前で転ばせたこともある。けれども彼女はいつだって、くすくすと可笑しそうに笑うだけだった。まるで小さな子どものいたずらを笑うように。
彼女が笑うと、俺はどうしようもない気持ちになる。自分が情けなく、惨めな生き物になったような気がする。そんなはずがないのに、そうなってしまう。だから彼女には、なるたけ惨めで情けなくいてほしかった。
「これからマクゴナガル先生のところに行こうかと思っていたんだけど……」
インクを被って悲惨なことになったローブと自身の顔を窓ガラスに映し、ナマエ・スネイプは眉を下げた。
「やめておこうかな。せっかくだから、少し楽しまなくちゃね」
恨み言の一つも言わず、彼女は軽やかに手を振ると俺を置き去りにさっさと歩き出してしまった。「なあ」その後ろ姿に声をかける。刺さるような色の髪を揺らし、彼女が振り返った。「なあに」
「歩きながら何考えてたんだ」
彼女は初めて俺が見かけた時と同じ顔をした。
「弟の誕生日プレゼント」



「はっきり言う。シリウス、きみは病気だ」
談話室で一番暖かく座り心地のいいソファの上で、ジェームズが芝居掛かった仕草で俺に指を突きつけた。
「あ?」
「彼女のことだよ」
これ見よがしに、ジェームズが談話室の隅へ視線を投げた。そこでは数人の女子生徒に囲まれたナマエ・スネイプがくすくすと楽しそうに笑っていた。どうやったのか、彼女は髪のインクだけを器用に残したらしい。ショッキング・ピンクもパッション・イエローも複雑に編んで結われてしまえば、ちょっとしたファッションにしか見えなかった。どうやらそれが好評らしく、女たちは彼女の髪型を褒め、色を面白がっていた。
「あれ、きみがやったんだろう」
「……だったらなんだよ」
ジェームズは大袈裟すぎる動きで肩を落として見せた(どうでもいいが、こいつはやけにアメリカ臭い仕草が似合う)。やれやれといった具合に首を振る。
「きみはモテるくせに、女の子の扱いってものがまるでわかっちゃいないな」
だったらエバンスにまるで相手にされていないおまえはわかっているのかと散々問い詰めてやりたかったが、俺は言葉を飲み込んだ。代わりに「ほっとけ」とだけ吐き出して、読みかけの雑誌に目を戻す。
「第一、そういうんじゃねえって言ったろ」
「じゃあシリウスは、ナマエが嫌いかい?」
リーマスが、暖炉でマシュマロを溶かしながら穏やかに訊いた。
「たまに話すけど、彼女はいい人だよ」
「……あいつの弟は、スリザリンだ」
「きみの弟もスリザリンだろう」
リーマスの呆れたような言葉は正論だった。俺はますますふて腐れ、尻をソファに沈める。
「俺とあいつは違うだろ。……俺は別に、あいつが……」
「何をもごもご言っているのか知らないけどさ」
ぐるりと大きく目を回したジェームズが、これまた大きなため息を吐いた。
「いい加減ちょっと素直になったらどうだい、親友」



とても寒い日だった。窓の外では厚い雲がびったりと空を覆い重苦しく垂れ込めていて、そのために息が詰まりそうだった。吐く息が白くなる廊下を、俺はローブをぴったりと閉めて歩いていた。一人だった。ジェームズたちはフィルチに捕まり、俺一人だけが逃げ果せた。
悪戯の成功と、敵に捕まらなかったことが俺を高揚させていた。親友たちが談話室の穴を登ってきたらなんと言ってやろうか考えながら、俺は鼻歌でも歌いたい気分だった。ホグワーツは、俺を自由にしてくれる。ここでは誰も、俺を妨げられない。
ただ一人、ナマエ・スネイプを除いては。
廊下の隅に、彼女を見つけた。彼女と、彼女の弟を。彼らはとても仲の良い様子で笑いあっていた。俺はスネイプが声を上げて笑うのを、初めて見た。
「シリウス」
ふと目を上げた彼女が、俺に気がついた。俺は彼女が声をかけるまで、自分が間抜けのように突っ立って彼女らを凝視していることに気がつかなかった。
俺を認めたスネイプが笑顔から一転、醜悪な顔をして俺を睨む。「きさま」手を差し込んだポケットには、杖が入っているのだろう。
「何の用だ」
「べつに」
俺はせせら嗤った。
「用がなくちゃ、おまえを見ちゃいけないっていうのか、スニベリー? だったら用を作ってやろうか?」
ちょうどフィルチに仕掛けた花火が残っている。
先ほどまでの高揚はどこへ消えてしまったのか。俺は獰猛な気持ちで姉弟を見据えた。スネイプもまた、敵意を剥き出しにして俺を睨みつけている。
スネイプの腕がポケットから引き抜かれるより早く、俺は花火を取り出していた。そしてそれよりも早く、ナマエ・スネイプが動いた。
「はっっっくしょん」
俺も、スネイプも、何が起こったのかわからなかった。阿呆みたいな顔をして杖や花火を構える俺たちを尻目に彼女は肩を震わせ、洟を啜った。
「なんだか寒くなってきちゃったなあ。ねえセブ、厨房であったかいかぼちゃジュースを飲まない?」
「……かぼちゃジュースは」
戸惑った目で姉を見やったスネイプが、もぞもぞと決まり悪そうに杖をしまった。大きなため息を吐く。
「温めると不味くなる」
「ええ、そう? それなら蜂蜜酒にしようかな」
「生徒に酒は出さないだろう」
「それも駄目かあ」
気の抜けた顔で笑う彼女に、スネイプは自分のローブをかけてやった。緊張の糸を切られた俺は、ただまごついて彼女らを見ていた。
「シリウスも来る?」
弟とともに歩き出した彼女は、振り返って俺を呼んだ。スネイプが、なんて愚かなことをと言わんばかりの顔をして彼女を睨みつけた。
「……俺はいい」
「そう」
彼女は軽やかに頷くと、弟とともに去っていった。たった一人、俺を残して。



夜中ももうとうに過ぎた。それでも談話室の暖炉には、一人残った彼女のために暖かな火が灯っている。
「寝ないのか」
彼女が振り返る。長い髪が柔らかに波打つ。そこにはもう、俺のつけた色は残っていなかった。
「シリウス」
俺を呼ぶと、彼女は小さく笑った。「ちょっとね」テーブルに広げられた包装紙とカード。丁寧な字で、沢山の文字を書き込むナマエ・スネイプ。
「シリウスこそ起きていていいの? 明日のクィディッチ、見逃さない?」
「なあ」
俺は彼女の前に立った。威圧的に彼女を見下ろす。その弟と同じように、ナマエ・スネイプも背が高くない。俺の弟はどうだっただろう。俺に似て、背が高かっただろうか。忘れてしまった。
「おまえはなんで、弟を許せるんだ」
「許す?」
ナマエ・スネイプは戸惑ったように眉を下げた。何を言っているのかわからない、そんな様子だった。
「どうして許す必要があるの?」
「決まってる」
俺は苛ついた。
「あいつらは裏切っただろ」
グリフィンドールとスリザリン。この二つはどうしたって、混ざりようがない。他方にとって、他方は悪だ。自分と異なる方に所属することは、自分への裏切りと変わりない。多くの魔法使いがそう考えている。俺の両親のように。
彼女は、何かを考えるように口を噤んだ。細い指先が口元へ伸びる。考える時の癖なのだろう。俺はその指と、炎が映ってちらちらと明るくなる頬を見ていた。「たぶん」考えながら、ナマエ・スネイプが口を開く。
「自分と同じ考えを持たない人間は、罪人というわけではないよ」
そんなはずがない。俺はできるだけ残酷に、彼女を嘲った。何を馬鹿なことを、そう言ってやった。
あの腐敗した夢想主義者共の屋敷で、俺は正しく罪人だった。ならば、俺と違う考えを持った人間もまた罪人であるべきだ。そうでなければならない。
怒りを噴出する俺を、彼女はただじっと、何も言わず見上げていた。俺は喚きながら、頭のどこか冷静な部分で彼女をつぶさに観察した。細い輪郭、目立つ鉤鼻。黒々とした瞳も、その弟によく似ている。
「じゃあ、弟だから」
そっと、けれどもしっかりと、彼女はそう言い切った。
「弟だから、何があってもどんなことをしても、やっぱり可愛い」
「……なんだよ、じゃあって」
「だってきみが納得してくれないから。だから別の理由を考えてみたの」
どう? 首を傾げて、彼女が笑った。「これは答えになっている?」
「そんな、」
俺は言葉を切った。「そんなわけ」これ以上何と続ければいいのかわからない。
彼女の言葉に、俺は弟を思い出していた。レギュラス・ブラック。母の可愛い、小さな王。夜を閉じ込めたような髪に、灰色の瞳。俺とよく似た、弟のことを。
弟はおとなしい子どもだった。彼はいつだって俺の裾を掴んでは、俺の陰に隠れるようにして、よちよちと覚束ない足取りで俺の後を追った。俺はそれを、とても可愛く思っていた。弟の手を引き、クリーチャーを供に、屋敷や庭を冒険した日々を覚えている。
弟が俺の後を追わなくなったのは、いつからだろう。弟の、俺とよく似た二つの目は、俺と同じものを見てはくれなかった。見ては、くれなかった。
俺は両手で顔を覆った。見られたくなかった。低く呻く。獣のような声だと思った。悲しくて、やるせなくて、羨ましくて仕方がなかった。
暖炉の炎が、彼女の白い顔をちらちらとオレンジ色に輝かせた。濡れたような彼女の目は、じっと俺を見つめていた。「見ないでくれ」歯の隙間から、言葉を押し出す。「俺を見ないで」
「さみしさって、怪物みたいなの」
やさしい音だった。何かうつくしい動物の鳴き声みたいだった。
「よくわかるよ」
俺は弟が恋しかった。彼の小さな手を引いて歩きたかった。

ナマエは、俺を一番いいソファに座らせると自分のひざ掛けを貸し、温かいココアを淹れた。「とっておきなの。お母さんのレシピ」微笑む彼女に甘いものが好きではないとは言えず、俺は茶色い海にぷかりと浮かぶマシュマロと見つめ合った。
二人でココアを飲みながら、俺は弟の話をした。ナマエはそれに頷きながら、彼女の弟へのバースデー・カードを書いた。途中彼女の筆が迷うと、俺がちょうどいい文面を考えた。「これ、私じゃないってわかっちゃうよ」丁寧な字に混ざった俺の字に、ナマエがくすくすと笑った。「私、セブに”その脂ぎった髪をなんとかしろ”なんて言わないもの」
「なあ、俺と結婚してくれ」
マグカップを机に置く。完成したカードを眺めていたナマエは、「なあに、突然」と特別驚いた様子もなく訊き返した。
「そんなにココアが気に入った?」
「そうじゃねえよ」
マグカップには、まだ半分以上茶色い海が残っている。マシュマロは手付かずだ。
「おまえがいたら俺、なんだか大丈夫な気がするんだ」
俺は寝転がり、ナマエの膝に頭を乗せた。彼女は嫌がらず、黙って俺の好きなようにさせた。俺は下から彼女を見上げる。こうしていると、暖炉に照らされて赤くなるほど白い肌や、肉のない二の腕、ちょっと目立つ鉤鼻がとても魅力的なように思われた。
ナマエの指が、俺の髪を梳いた。柔らかな声が降ってくる。
「さみしがりが、少し治る?」
「そうかもしれない」
「いいよ」
ナマエが笑った。
「きみが大人になったらね」
俺は明日、彼女の隣で朝食を食べる。朝のクィディッチには、遅刻するかもしれない。怒ったジェームズが俺を指さして叫ぶだろう。「なんだよ! やっぱり”そういう”ことだったじゃないか!」って。
俺は休日を彼女と過ごさないかもしれない。それに、リーマスがちょっと顔を顰めながら、「彼女はいいの?」って訊く。その隣で、ピーターが恋人との話を聞きたそうに、そわそわしている。俺は笑って、「いいんだ」と言う。「いまは怪物がいない」
今日みたいな寒い夜には、ふたりで真夜中まで起きていよう。今度は俺がローブを貸して、ナマエがまたココアを淹れる。それを飲みながら、俺たちはきっと、恋しい弟のことを考える。
目を閉じた。暗闇の向こうで、俺を見る顔があった。俺によく似た顔をしていた。「大丈夫」ナマエが言う。
「きみはそれを、愛しく思っているから」

2019/09/05 ひつじさんへ。
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