まぶたの裏に光を感じて、ぼんやりと目を開けた。
 カーテン越しでも差し込んでくる強い光が、部屋の中にあふれ返っている。じっとりとした暑さが体を包み込んでいた。習慣で時計を見ると、短針は九を指していた。よくこの中で眠れたものだ。
 タオルケットを剥がして上半身を起こす。汗で体中がベタつき、Tシャツが背中に貼り付いているのがわかった。着替えを用意して階下へ降りる。
 シャワーを浴びた後、キッチンでパンをつまみリビングに入った。そこにはソファの肘掛けに頭を乗せて、寝転がりながら本を読むリリーの姿があった。本の題名は『上級調合薬』。魔法学校の教科書か何かだろう。リビングも暑かったが、二階の部屋ほどではなかった。
「おはよー」
「おはよう、遅かったのね」
 リリーがちらと目を上げる。はっとするような緑色の瞳。
「うん。母さんは?」
「買い物に行ったわ」
「そう」
 ペチュニアの姿もなかったが、リリーにそのことは聞かなかった。
 リリーの魔法学校への入学が決まったときから、二人の姉の仲は悪くなっていた。リリーは仲直りしようとしていたが、ペチュニアはリリーと話すのも嫌になったようだった。元の仲に戻ってほしいと願う気持ちはあれど、ペチュニアのことを考えるとナマエは何もできなかった。魔法を学べなかった者として、どちらかというと、ペチュニアに同情する気持ちが大きかった。
「リリーは、セブルスのところには行かないの?」
 毎年、毎日のように夏期休暇にはセブルスと会っていたはずだ。不思議に思い尋ねると、リリーはきゅっと唇を結んだ。
「行かないわ」
 それは強い意志のこもった言葉だった。その瞳に怒りさえ見える。
「……そう」
 それ以上聞くのも憚られ、ナマエは頷いた。
「私、ちょっと喫茶店で涼んでこようかな」
 家にいてもすることはないし。そう呟くと、リリーは笑った。
「勉強でもしたらどう?」
「絶対しない。リリーって、ほんとに母さんみたいなこと言うよね」
「ふふ、冗談よ」
 用意して家を出る。外へ出た瞬間、強い日差しが露わになっている腕や首元を襲ってきた。日焼け止めを塗って正解だった。
 家の近くには喫茶店がある。汗が額に滲み出し、こめかみを伝う前に入れるほどの近さにあった。クーラーの効いた店内はオアシスのようだ。
 アイスティーの氷をストローでつついていると、窓の外に黒い影を見つけ、そちらを見やる。長い黒髪に、ぎくしゃくした歩き方――セブルスだ。本を持っている彼は、向かいの公園へ入っていった。昔、姉妹でよく遊んだ公園だ。
 なぜ、と聞かれても、なんとなく、としか答えられない。ナマエは彼を見て、なんとなく会いに行こうと思い、なんとなく二人分のゼリーをテイクアウトした。
 セブルスは木の下の木陰に座っていた。風が靡くたび、彼のべたついた髪が重そうに揺れる。近づくと、不機嫌そうにこちらを見た。彼はいつだって、リリー以外にはこんな態度だ。
「何か用か」
「特に何も」
 言いながら、セブルスの横に座り込む。木陰は思ったより涼しい。
「あなたを見かけたから、なんとなく来ただけ」
「食べる?」とゼリーを掲げると、「いらん」と眉間にしわを寄せて彼は答えた。そして本を閉じ立ち上がる。
「あら、帰るの?」
「お前がそこにいる限り、ここにはいられない」
「……リリーも来るかもよ」
 セブルスは少し目を見開いたが、すぐに元の不機嫌そうな顔に戻った。
「……なんだ、来るって言ってたのか」
「ううん、言ってない」
「チッ」
 舌打ちをし、彼はくるりと背を向ける。本当に去って行こうとするその後ろ姿に、ナマエは慌てて声をかけた。
「ねえ、リリーと何かあったの?」
 返事はない。どんどん彼は遠ざかっていく。
「私、リリーといるときのあなたが好きだったのに」
 口を滑らせた、とナマエは思った。このことは秘密にするって決めていたのに。しかし、彼の足を止めるには役に立ったようだった。
「どういう意味だ」
 振り向いたセブルスは、心なしか戸惑っているように見えた。ナマエは秘密を打ち明けることにした。
「どうって、そのままの意味よ……リリーといるときの、穏やかで優しい顔をしているあなたが好きなの。時々、盗み見てたわ」
「……フン」
 鼻を鳴らし、セブルスは再び背中を向けた。今度こそ去って行くその後ろ姿を、ナマエはぼんやりと見送るしかない。
 言ってしまった。しかし後悔はなかった。リリーといるときのように、自分とも接してほしい、とは言わなかったからか。
 これで少しでもセブルスの中に、自分を残せたらいい。淡い期待が胸をよぎった。
 その言葉を彼の中に残せたのかもしれないと感じるのは、それから数年後。リリーが亡くなって一年後のハロウィーンの日、自分の店にセブルスが訪れた時だった。






 しんとした店内に、薔薇やコスモスなど様々な花々が咲き誇っていた。ガラスケースの中にも花たちが詰め込まれ、窮屈そうにしているが、縮こまらずに悠々と花びらを伸ばしている。レジカウンターにはかぼちゃやコウモリの吊し飾りが横になって置かれていた。ほんの数分前まで飾られていたものだ。カウンターには黄色や紫にラッピングされたお菓子も並び、ハロウィーンの名残がまだ残っている。
 店主であるナマエは、その近くの椅子に腰掛け、本を読んでいた。キーパーの低い運転音が店内に充満する中、頁を捲る音や足を組みかえる音が時折重なる。
 店を取り囲むガラスの向こうはとうに夜の帳が下り、静まり返っている。人の姿も暗闇に飲み込まれたようだった。
 すでに閉店しているが、シャッターは閉めていなかった。年に一度、この日に訪れる客のためだった。
 遠くの方でパチンと弾ける音がした。ナマエは顔を上げる。待ち人が来たのだ。期待して外を見つめる。
 現れたのは黒い影だった。ローブを纏った、全身黒ずくめの男で、彼はおもむろに扉を開いた。ナマエは本を閉じてカウンターへ置くと、入ってきた彼に笑みを向ける。
「こんばんは、セブ」
 彼、セブルス・スネイプに初めて会ったのは、今から15年ほど前のこと。ペチュニアとリリーとでよく遊んでいた公園に、彼はいた。魔法使いを名乗る彼に、最初は驚いたものだ。
 あの頃よりかなり背が伸び、眉間にも口元にも皺が増えたセブルスは、扉を閉めながらかすかに口角を上げて頷いた。
「……こんばんは。ユリを一つ」
「はい」
 彼が所望しているのはテッポウユリだ。中でも一番綺麗に咲いているものを選び、くるりとラッピングしていく。その間にセブルスは硬貨を一枚、カウンターに置く。ここまでは例年と同じ。ここからは少し違っていた。
「魔法学校の、先生をしてるんだってね」
 ラッピングを留めながら、ナマエは何気無い風を装って言った。いつもは話をせずユリを渡し、セブルスは去って行くのだが、今回は違った。
 セブルスは目を見開いた。マグルである自分がその情報を知っていることに、驚いているようだった。
「なぜ、それを?」
「ハリーから聞いたの」
 先の夏期休暇で、ハリーがダドリー家に帰ってきたときのこと。ハリーとロンドンへ出かけ(ペチュニアはいつも、ハリーだけを連れ出すと嫌な顔をするが、何か言ってくることはなかった)、入った喫茶店で彼は愚痴るように言った。
『学校にはスネイプって教師がいて、僕によくつっかかってくるんだ。嫌なやつだよ』
 思わず反応すると、ハリーは自分がセブルスを知っていることに驚いていた。理由を聞かれたがペチュニアのこともあり、ナマエは曖昧に答えた。
 目の前に立つセブルスは、ハリーの名前を聞き、忌ま忌ましげに呟いた。
「ポッターか……」
 顔を歪ませたセブルスを、ナマエは驚きをもって見つめた。セブルスがリリーを想っていたことは、幼少期から知っている。しかし、リリーの子供を憎んでいるとは、夢にも思わなかった。ハリーはその緑の瞳以外、ジェームズに似ているからか。セブルスとジェームズは、犬猿の仲だったのかもしれない。
 ナマエは急いで話を変えた。
「薬学の先生をしてるって聞いたわ。何をする授業なの?」
「鍋に材料を入れて、様々な薬を作る」
「どんな薬?」
「真実を話させるベリタセラムや、強力な眠り薬などだ」
 ベリタセラム、と発音してみる。知らない言葉。綴りはどう書くのだろう。魔法界の一端を知れたようで嬉しかった。
「へえ、楽しそう。でもセブルスは、生徒に厳しそうね」
 想像して笑う。同時に受けてみたいとも思った。マグルである自分が、魔法学校になど行けるはずもないけれど。
 一度、ペチュニアとともに校長であるダンブルドアへ手紙を送ったことがある。返事には、やはり入学出来ないと書かれていた。
「どうぞ」
 ラッピングしたユリを手渡し、彼の目を見つめる。空洞のような、感情の見えない瞳だ。子供の頃は少なくとも、わかりやすく感情が表れていた気がする。彼のリリーを見つめる瞳は、思わずリリーを妬いてしまうほど優しく、仄かな熱を持っていた。
「……よかったら、たまにここに来て。魔法界のこととか、話してほしい」
 魔法界と触れていたかったし、何よりもっと彼と話したかった。彼自身を知りたかった。幼く甘い熱が、彼と話して蘇っていた。
 案の定、セブルスは戸惑ったようで一瞬困惑の色を浮かべたが、すぐに元の無表情に戻った。
「なんだ、マグルの友人などはいないのか?」
 皮肉っぽい言い方に、自然と笑みが浮かぶ。
「そういう訳ではないけど、魔法界と繋がってたいと思うし、セブルスと昔のことを話したいと思って」
 セブルスのことを知りたいから、とは言えなかった。彼は渋々頷いた。
「……考えておく」
 ナマエは彼の優しさに微笑み、その後ろ姿を見送った。

 その年のクリスマスは、雪が降りしきっていた。
 ナマエは店のシャッターを下ろそうと、長い金具を取っ手に引っ掛けていた。外は暖房で温まっていた体を一瞬で冷やすほどに寒く、手袋越しでも金具の凍るような冷たさが伝わってくる。首筋にも濡れた冷たさを感じ、風が吹いてきているとわかった。
 ――早く終わらせて、温かいココアが飲みたい。
 ナマエは掛かったのを確認した途端、ぐんとそれを引いた。がらがらと音を立ててシャッターが下りる。力を込めて最後まで下ろし鍵を掛けると、ナマエは店の角を曲がり、二階への階段を上がろうとした。
「……エヴァンス」
 ふと、名前を呼ばれた気がした。階段に足をかけたまま振り返れば、そこにはただ闇が広がっていた。ロンドンの郊外にあるこの店の周りは街灯も店も少なく、声の主を確かめるための明かりはなかった。けれど、闇に溶け込める者といえば、それは一人しかいない。
「……セブルス?」
 目を凝らしながら呼んでみる。すると闇の中から浮き上がるように、セブルスが目の前に現れた。
 ナマエは信じられなかった。まさか、本当に来てくれるとは思わなかった。
「来てくれたの!?」
「……普段は仕事があるんだが、クリスマス休暇でやることがなかった。マグルの友人もいない君が可哀想になってな」
「早く暖かい所へ案内しろ」とセブルスは無愛想に言う。ナマエは頬が緩むのを抑えられなかった。リリーのためではなく、自分のために来てくれたのだ。夢を見ているような気分だった。
 けれどこれは夢ではない。鍵を開けて入った部屋は、今朝の状態のままだった。テーブルの上には飲み終わったコーヒーカップが置かれ、シンクには洗っていないパン皿が潜んでいる。ストーブのスイッチを入れ、カップを片付けながら、洗濯物を干していなくてよかったと心の底から思った。
「ごめんなさい、散らかってて。テーブルにかけてて。今温かいものを……」
「ここは、君の部屋か?」
 セブルスはまだ戸口に立ったまま、部屋を眺めていた。足を踏み入れるのを躊躇しているようだった。
「そうよ。どうぞ、寛いで」
 紅茶を用意しながらテーブルを指すと、セブルスはこちらを睨んだ。
「……他に寛げる場所はないのか?」
「ないわ。この辺にパブはないし、私の部屋しか……」
 彼は呆れたようなため息をついたあと、部屋に入ってきた。長いローブを揺らしながら、テーブルの椅子へ腰かける。
 ナマエは水を沸騰させながら、キッチン越しにその様子を見た。自分の部屋に魔法使いが――それもセブルスが――いるというのは、不思議な光景だった。
 お湯を入れたポットと、ティーカップ、ソーサーを二つずつお盆に乗せてテーブルへ運ぶ。先程はココアが飲みたいと思ったが、セブルスは甘い物を好まなそうだったので、一緒に紅茶を飲むことにした。
 彼の前にカップを置き、紅茶を注ぐ。ふわりと上品な香りが立ち、同時に湯気が上がった。
「……ダージリンか」
「ええ、私が好きなの。嫌だった?」
「いや、そういう訳ではない」
 セブルスの向かいに座って今度は自分のカップに注ぎ、冷え切った手を温める。カップは指先へとじんわりと熱を伝導する。ストーブから出る暖かく乾燥した空気も、部屋の中に充満してきた。
「あったかい……」
 一口飲んで呟く。セブルスもカップを傾けた。
「……セブルスは、どうして教師になったの?」
 魔法界にも、様々な職種があることはリリーから聞いて知っていた。魔法省の職員だったり、研究家だったり。ジェームズは「オーラー」という職に就いていたけれど、それがどんな職業かは教えてもらえなかった。
 自分の質問にセブルスは眉をひそめたものの、ちゃんと答えてくれた。
「……ダンブルドア校長が、ホグワーツの教員の職を私にくださった。だから働いている」
 自分から志願して教師になったわけではないのだろうか。気になったが、これ以上深く聞けるような雰囲気ではなかった。
「そう……教師をして何年になるの?」
「十年になる」
 ナマエは目を瞬かせた。それではリリーとジェームズの亡くなった年から、教師をしているということか。何か訳がありそうだ。
「……私と同じね。私も花屋を始めてそのくらいになるわ」
 この話題からは離れた方がいいと判断して、ナマエは自分の話をした。興味があるかはわからないが、彼も会話を繋げてくれた。
「それまでは何をしていた?」
「学校を出たあと、中心部の花屋で修行してた。花屋になることが昔からの夢だったから」
「なぜ花屋になりたかった?」
「私は、植物が好きなの。花は特に。誇らしげに咲いている姿は何度見ても飽きないし、空間を彩ってくれる……あの花みたいに」
 片隅の丸テーブルに置いてある花瓶を指す。今は赤い実を実らせたヒイラギと白のクリスマスローズが活けてある。それだけで部屋がクリスマス色に染まるのだから、効果は絶大だ。
 セブルスは花々を見て頷いた。また一口、紅茶を飲む。
「……私も薬を作るために、植物にはよく触れる。もっとも鑑賞はせず鍋に入れてしまうがな」
「……でも、毎年買うユリは、違うでしょう?」
 恐る恐るユリの話をしてみる。セブルスがリリーについて今、どう思っているのか知りたかった。もし今もセブルスがリリーを想っているのなら――自分に勝ち目はない。亡くなった者はそれぞれの心の中で、永遠に輝き続けることもある。時にはその輝きに、生きている者は太刀打ちできなくなる。
 セブルスは表情を変えず、カップを置きこちらをじっと見つめた。捉えどころのない、真っ黒な瞳。真剣に見つめ返していると、やがて彼は答えた。
「……あのユリは、確かに違う。私の部屋に飾っている」
「そう……セブルスは、今もリリーのことを……?」
「ああ……好いている」
 胸が張り裂けそうだった。なら自分のこの想いは、どうしたらいいのだろう。口にすることも出来ず、ただ心の中でじっとして、そのまま消滅するのを待つしかないのか。
 ナマエの心はかき乱されたが、顔には出さなかった。彼を困らせるつもりはなかった。
 平静を装ってお茶を飲む。舌で感じる温度は先程より低かった。
「そう……セブルスの想いは変わらないのね……」
 沈黙が落ちる。どちらも口を開こうとしなかった。ナマエは何も考えず、目の前の紅茶を飲むことに集中しようとした。しかし、このお茶を飲んでしまえば、会話以外にやることがなくなってしまうため、少しずつ、ゆっくりと飲んだ。
「ただ」とセブルスが言ったのは、ナマエが半分ほどお茶を飲み終わった時だった。
「……他に、気になる女性がいる」
 ナマエは伏せていた目を上げた。一瞬何を言っているのかわからなかった。
 セブルスは相変わらず感情の見えない瞳で、こちらを見つめていた。そして、淡々と言った。
「彼女は私に告白してきた唯一の女性だ。当時の私はマグルを軽蔑していたが、彼女の言葉は深く胸に刻まれた。リリーが亡くなり私が教員になってから、彼女が花屋を営んでいることを風の噂で知った。私は年に一度、足を運ぶことにした……弔いの花を買うという口実をつけて」
「それって……」
「そう、君のことだ」
 信じられなかった。学生時代に蒔いた種が、十数年の時を経て実るとは、思いもしなかった。
 カップに添えていた手を取られる。彼のかさついた手は自分の手を壊れ物を扱うかのように、そっと丁寧に触れた。
「……ナマエ。私はもっと君を知りたい。君が良かったら、だが……」
 彼の口元には恥じらいが浮かび、無感情だった瞳には熱がこもっていた。
 ナマエは口角を上げて彼に答えた。あまりにも唐突で自分に起きたことだと思えず、声が出せなかった。ただ、こんなに幸せなクリスマスは、後にも先にもないだろうと思えた。

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