瞼を開けると、緑色の天蓋が見えた。見知ったような景色に、ぼんやりと二、三度瞬きをする。家ではない。じゃあ、ここは……。
 どこにいるのか悟ったナマエは、がばっと半身を起こした。同じような緑の天蓋付きベッドが、部屋の中に並んでいる。まさかと思い呆然としていると、突然扉が開き、栗色の髪をした少女が入ってきた。

「ナマエ!」

 緑のネクタイに、ホグワーツの紋章ーー少女はスリザリンの制服を着ていた。

「何寝てんのよ、早く授業行くわよ!」

 勢いに押されるまま、ナマエは部屋を出た。緑の光に照らされた談話室を通り過ぎ、玄関ホールへと出る。大理石の階段に高い天井、並ぶ甲冑……確実にホグワーツだった。

「何ぼーっとしてるの!!」

 階段を上がっていた少女に急かされ、よくわからないままついていく。

「……次の授業、なんだっけ?」

 走りながら何気なく尋ねてみれば、少女はあきれ果てたように言った。

「変身術に決まってるでしょ。あんた大丈夫?」

「たぶん……」

 夢を見ているのだ。今日はセブルスとショーンと夕飯を食べたあと、早く寝ようとベッドに寝転んだことまでは覚えている。そうだ、これは夢だ。
 夢なら楽しもう、と思い直しはじめたとき、前を走っていた少女が教室の前で止まった。

「よかったー、間に合ったわ」

 少女と一緒に中に入る。同じスリザリンの制服を着た生徒たちは、どの子も見たことのない顔ぶれで、疑問に思いながらもナマエは席に着いた。すぐに始業の鐘が鳴り、マクゴナガル先生が入ってきた。
 授業の内容は、夢にしては具体的で、ナマエは懐かしさを感じた。そういえば、こんなことを習ったような。ぼんやり授業を聞いているうちに実技になったようで、目の前にはフェレットが置かれていた。夢なら、魔法も使えるだろうと、スカートに挿してあるはずの杖を探る。しかし――

「ミス・ミョウジ、何をしているのですか?」

 先生に声を掛けられ、ナマエは慌てて答えた。

「杖が、ないんです」

「杖が、ない?」

 先生は眉を吊り上げた。

「杖がないとは、どういうことですか?」

「私もわからなくて、でもこれは夢だから、杖もきっとあるはずで――」

「夢? これが夢だと言っているんですか?」

「はい、これは夢の世界のはず――」

 先生の顔は怒りに満ちていた。

「……ミョウジ、正直に言いなさい。杖を持ってこなかったのは私の授業を受けなくていいと判断したからだと。自分は成績がいいからと思い上がったのですね?」

「違います、先生――」

「スリザリン30点減点!!」

 一斉に低いうめき声が上がった。勘弁してくれなどの呟きが耳に聞こえてきた。
 先生は鼻息荒く言った。

「罰則をしないだけマシだと思いなさい! 私の授業を受けたくないなら出ていきなさい!!」

「すみません、先生の授業を受けたくないわけではなくて、ただ杖がないだけで……」

「だったら取って来なさい!!」

 先生の怒鳴り声に急き立てられるように教室を出る。いったいどうなっているんだろう。夢にしては具体的な夢だ。
 とりあえず杖を探すか、と元来た道を戻り、スリザリン女子寮の寝室へ向かった。杖はすぐに見つかった。サイドテーブルの上に置かれていたのだ。持ってみると自分の手にしっくりくる。その感触が懐かしく、ルーモスを唱えてみると、杖先に明かりが灯った。やはり、夢だから魔法が使えるのだ。
 感動しながらノックスを唱え、部屋の隅にある鏡の方へ歩いた。
 そこには、10代のころの自分がいた。ハリのある肌にたっぷりとしたブロンド、若さに満ち溢れた自分がこちらを見つめていた。
 ――いい夢だわ。
 先ほどは先生に怒られてしまったが、昔の自分に戻ることができた。それだけで十分いい夢だ。ただ、夢にしては少し長いような気がするが。この姿でセブルスに会いたいと思いながら、自分をまじまじと見つめていると、授業終了の鐘が鳴った。この夢は細かいところまでちゃんと練ってあるから、次の授業に出席しなければ、また怒られてしまうだろう。寝室を出て談話室を抜けると、先ほどの栗色の髪の少女が立っていた。

「杖、あった?」

「あったわ。心配してきてくれたの? ありがとう!」

「別に心配じゃなくて、今のあんたじゃ次の授業が何か知らないだろうと思って来てあげたのよ」

「ええ、すごく助かる!」

 少女は歩き出しながら眉根を寄せた。

「あんた、ほんと大丈夫? 授業のこともそうだけど、杖忘れたりして、挙句の果てに意味不明な言い訳なんかも――」

「ミス・ミョウジ」

 少女の言葉を、後ろから聞こえてきた深みのある声が遮った。ナマエの心臓がどきりと跳ねる。この声は――

「セブルス!」

 振り向くと、黒いマントを着た蝙蝠のようなセブルスが立っていた。ナマエはすぐに彼に近づいた。

「セブルス、私、夢を見てるのよね? でもすごく具体的な――」

「……確かに」

 ナマエの話を遮ったセブルスは、不快極まりないというような顔をしていた。よく見ると、今の彼より若いような……?

「夢を見ているのだろう、ミョウジ。私をファーストネームで呼ぶとは……スリザリンでなかったら減点していたところだ」

 知らないふりをしているのではないということは、彼の表情と声でわかった。何も言えないナマエに、彼は話をつづけた。

「変身術の授業で、驚いたことに杖を持っていき忘れたようだな。マクゴナガル先生は怒り心頭だ。夕食後すぐに謝りに行け。これ以上スリザリンの点を減らされたくはないからな」

 ふんと鼻を鳴らし、セブルスは去って行った。ナマエはその後ろ姿を唖然として見送った。完全に教師のセブルスだ。
 いつの間に隣にいたのか、栗色の少女に肩を揺さぶられた。

「スネイプ先生に何て口きいたのよ!」

「……これは、なかなか凝った夢だわ」

「……あんたちょっと医務室に行った方がいいわ、錯乱の呪文がかかってるのかもしれない。私先生に言っとくから」

 可愛そうな子を見るような目で少女は言い、生徒たちの群れの中へ消えていった。医務室へ行く気になれず、ナマエはスリザリン寮へ戻った。セブルスの態度に若干ショックを受けていた。談話室には数人の6、7年生たちが談笑していた。自分は何年生なのだろう、と思ったが、所詮は夢なのだからと考えるのをやめる。ナマエは肘掛椅子の一つに腰かけ、目を閉じた。もう一度眠れば元の世界に戻れるだろう。期待を胸に、ナマエは意識を手放した。

目を開けば、緑の光が揺れていた。ほの暗い岩の中で、傾いた太陽に合わせるように揺れている。スリザリンの談話室だ。
ナマエは頭を抱えた。もう一度眠れば戻れると期待していたが、ダメだった。このまま自分はこの世界でやっていくしかないのだろうか――

「医務室には行かなかったの?」

はっと顔を上げる。栗色の髪の少女がこちらを覗き込んでいた。

「ああ、うん、行かなかったわ」

「行くべきよ!」少女は怒っているようだった。「あんたの様子がどれだけおかしいか、私が一番わかってるんだから!」

「心配してくれてありがとう……けど、ごめん、私は大丈夫よ」

ふとこの子になら本当のことを言ってもいいかもしれないと思ったが、それを言っても信じてもらえるかわからないし、余計奇異な目で見られるかもと思い口を噤んだ。

「そう? まあ、あんたがそう言うならいいけど……とりあえず夕飯食べに行かない?」

「えっ、もうそんな時間?」

思いがけず眠り込んでいたらしい。立ち上がり、少女とともに大広間へ行く。
生徒たちで埋まったテーブルに浮かぶ蝋燭、楽しげな笑い声。久々に感じる穏やかな雰囲気にナマエの気分もよくなる。スリザリンのテーブルに座ると、ハイ・テーブルを見上げた。
まず中央に座っているのはダンブルドア。隣に座るフリットウィッグ先生となにやら話をしている。その横にマクゴナガル先生――後で謝りに行かなければ――シニストラ先生、そしてセブルスがいた。誰とも話さずパンを口にしている。その細い指先がかさついていることを、誰が知っているのだろう。その指が自分を愛撫するとき、どれだけ優しく動くか――
ナマエは顔が熱くなった。何を考えているのだ。いくら若くなったからと言って、そんなことを食事中に考えるなんて。頬を押えながら自分を恥じていると、隣で食べていた少女が目ざとくこちらを見た。

「あれ、何顔赤くなってんの?」

「なんでもないわ」

「でもさっきまでスネイプ先生見てたわよね? あ、もしかして――」

少女はにやにやと嫌な笑みを浮かべた。

「ナマエ、スネイプ先生に惚れてる?」

違うと言うべきだった。けれどナマエは答えに仇してしまった。ここで友達である少女にこの気持ちを知られれば、セブルスとそういう仲になる手助けをしてくれるかもしれない、などという淡い期待もあった。少女はにっこりと笑みを浮かべた。

「さっきも急にファーストネームで呼んだりして……なんかおかしいと思ったら、恋をしたって事ね! まあ、相手はなんだけど、応援するわ。あんた、モテるくせに今まで誰とも付き合ってこなかったこと、不思議に思ってたのよ」

「……ありがとう」

ナマエは小さく礼を言った。それとなく彼女と会話して、名前も自然に聞き出すことができた。彼女の名前はローラ。自分と同じく兄がいるらしい。彼は俗に言うシスコンで、ローラはそんな兄に辟易しているらしい。
そして、自分たちは7年生で、NEWTの勉強をしなければならないことも聞き出した。

「あんたなら魔法省にも余裕で入れるでしょ」

「……魔法省? ああ、うん、そうかしら?」

この世界の自分も魔法省を希望していたらしい。

「いいなあ、ナマエは。飛び抜けた才能があって」

「ないわよ、そんなの……ローラはどこに行きたいんだっけ?」

「……私も魔法省よ」

言ったじゃない、とローラは呆れたように言う。

「ごめん……お互い行けるといいわね」

そう言えばローラは笑った。年相応なかわいい笑みだった。
夕食後、マクゴナガル先生のところに行き謝ったあと、ナマエは一人地下への道を歩いていた。セブルスにも報告した方がいいかと思ったが、いちいちそんなことはしなくていいだろうとかき消す。自分が話したいからと彼を捕まえるのはよくない。セブルスにとって自分はただの一生徒に過ぎない。やるせなさにため息をつく。愛する人がそばにいるのにその人から愛情を受けられないのは堪える。セブルスの生徒になってみたいと思ったことはあるが、こんなに辛いものとは思わなかった。
角を曲がる。目の前に見知った影があった。

「セ……先生!」

無意識に呼び止めてしまった。セブルスは立ち止まり、怪訝そうな顔でこちらを見下ろす。

「なんだ」

「……マクゴナガル先生に、謝ってきました。先程は先生の名前を呼んでしまって申し訳なかったです」

「反省してるならいいが……なぜそうしようと思ったのかね?」

不機嫌に見下ろされる気分は良くないが、これが教師であるセブルスなのだと思えば愛おしさが込み上げてくる。

「それは……えーと、私は先生に特別な感情を抱いていて、少しでもお近付きになれればと……」

自分は何を言っているのだろう。セブルスはますます眉根を寄せた。

「……どういう意味だ?」

「つまり、その、私は先生のことが好きなんです」

なるようになれ、と思い口に出してしまった。セブルスは驚いたようにこちらを見つめている。開心術も使っているのだろう。ナマエはその目を見つめ返した。あなたのことが好き、その一心で。
やがてセブルスは目を逸らした。それが答えだった。

「……その気持ちは受け取れん。私は教師で君は生徒だ。それ以上にはなれん」

「…………」

「忘れなさい。私も忘れることにする」

「……先生は」

セブルスの言う通り、これ以上関わらない方がいいと頭ではわかっているのに、心はどうしようもなく彼を欲していた。だから、言うはずのなかったことまで話し出してしまった。

「……誰かをおもっているのですか?」

「何を言う……」

「私、先生をよく見てたから、わかるんです。先生、亡くなった人を想ってるでしょう?」

セブルスは狼狽えることなく再びこちらを見た。今度は心を見られては困るので、ナマエは閉ざした。そして嘘を言った。

「……前に、アモルテンシアの授業の時、先生が鼻を押さえていたのを見て、なんとなくそう思ったんです」

「……なぜ亡くなっていると思った?」

「それは……その時、先生がなんとなく、切なそうだったから」

出任せだったが、セブルスは無言だった。ナマエは機を逃さず言った。

「……私、先生の力になりたいんです。利用されてもいい、少しでも先生の役に立てれば私は――」

「なぜそこまで私を……?」

セブルスは困惑しているようだった。それもそうだろう、一生徒にこれだけ好意を寄せられることはそうそうないだろう。

「私は、あなたの不器用なところも、愛に溢れているところも、性格が少し曲がっているところも、すべて愛しているからです」

ナマエは誤魔化した。セブルスは怪訝そうにこちらを見て、やがて言った。

「……明日、午後八時に私の研究室に来い」

「……あ、」

ありがとうございますと言う前に、セブルスは去っていった。認められたということだろうか。いや、セブルスのことだ。二人きりになれるところで改めてなぜリリーを想っているとわかったか、なぜそんなに好意を向けるのか聞かれるだろう。少しアピールしすぎたかと反省したが、そのくらいしなければセブルスは恐らく振り向かなかったと思い直し、再び談話室への道を歩き出した。
ナマエの予感は当たった。翌日、セブルスの研究室を訪れると、セブルスはこう切り出した。

「……君がなぜ私を好きになったか、その経緯をすべて話してもらう」

セブルスは机の上にあった小瓶を手に取り、囁くように言った。

「真実薬だ。もし話さなければこれを使う……」

加えてセブルスは開心術を使ってくるだろう。ナマエは感情を抑えながら話した。すべてでっち上げだ。ローラから今までセブルスと自分の間にあったことを聞き、用意しておいた。

「――ということです」

話し終えたあとも、セブルスは眉根を寄せていた。なんとなく苛立っているように思えた。

「……閉心術は誰から教わった?」

「へいしんじゅつ? なんですか、それは……?」

セブルスは頭を振り、ため息をついた。

「いや、いい……それが本当ならば」

「……真実薬は使わないのですか?」

「これは色々と難しい薬だ、私用で使えるような気軽な薬ではない」

最初から使うつもりはなく、脅しに使っただけだったのだ。

「……君への用は終わった、もう帰っていい」

やはり理由はそれだけだったらしい。小瓶を持って立ち上がったセブルスは、薬品棚の方へ向かった。ナマエも自然と追いかける。

「……なんだ」

「アモルテンシア、先生はどんな匂いがしたんですか……?」

「君にそれを言う義務はない」

すげなく言われる。ナマエは気にせずこう言った。

「私は好きな香水の匂いと薬品の匂いがします」

「……帰れ」

「でも私は先生とお話したい――」

「帰れ!」

強引にドアまで連れていかれ、放り投げられるように研究室から出る。バタンと閉められた扉を見つめて、ナマエはため息をついた。これはダメだ。自分の入る隙がまったくない。
諦めよう。未練はあるけれど、セブルスにその気がないのなら仕方ない。そもそも自分のいるべき場所はここではない。セブルスとショーンのいる世界が自分の場所なのだ。今朝目覚めてまたガッカリしたが、今晩はそうではないかもしれない。そう思い、階段を降りた。


「ナマエ」

目覚めると、心配そうな顔をしたセブルスがいた。

「……セブルス?」

がばっと起き上がる。白い壁に白いベッド、動かない肖像画。自分たちの寝室だ。

「大丈夫か? うなされていた様だが――」

ナマエはセブルスに抱きついた。愛おしい、愛すべき人。

「どうした……?」

セブルスが頭を撫でながら聞いてくれる。ナマエは泣きそうになった。詳しく話したくはなくて、ただ、「怖い夢を見たの」とだけ言った。

「ショーンは?」

「まだ6時前だ、寝てるだろう」

「そうよね……早くショーンにも会いたいわ」

「そんなに怖い夢だったのか?」

「そう、ね……」

愛する人から愛を受けられない怖い夢。ナマエはセブルスの唇にキスする。相思相愛ということが、どれだけ幸福なことか身をもって感じる。愛する息子もいることが、どれだけ満ち足りたことか。
ショーンが起きるまであと1時間ちょっとある。それまではセブルスに甘えていよう。彼の腕の中でナマエはそう決めた。

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